2025-11-11
タイムラインが萌えイラストとコミケ周りの騒動でめちゃくちゃだ
おすすめタイムライン完全に干潮と満潮がある
まっとうに使っててまっとうに発展して欲しい身としてはシンプルに目障りだなという気持ちが大きい
あまり人ごとではないから話題が目に入ってくるし、読んでしまう
正しいとか正しくないとかじゃなくて会話が成立していないシーンを見るとうんざりする
一部の会話できない人間で争いが起こっているのではなく、わりと身近なところでも対立があるように見受けられたのが怖いところ
流石に過激なこと言ってたりしょうもない攻撃をして騒がせている人は一部だと思うけど……
とはいえ「真っ当な話題でもどちらかの派閥である姿を見せたらフォロワーが減るかもしれないな」とは常に感じさせる気持ち悪さがある
cosenseがあって助かった
全然ここも見る人にとっては何かしらの負の感情を与えているかもね
知らないけどね
最近はどういう機序で人間がそれを考えているのかを真面目に考えている
攻撃したいだけ、いなくなって欲しいだけだと考えるのは最後にしますよ
人に悪意を見出すのは最後にするというのは、そういう美学だから
感情論を感情論として話している人が一番良い
問題意識として捉えるなら整合性を考慮すべき
他人への批判ではなくルールを変えるためにどうするべきかを考えるべきでしょう
「他人のものに近い内容を出力できることがある」から「盗んでいる」と解釈されることがある
めっちゃ見るのですごい
知り合いも言ってるし
もちろん現行法における盗みは働いていない
そうできる能力自体に問題があるとするなら、PC備え付けの機能でコピーアンドペーストするだけで自作発言できるとか投稿サイトにアップロードできるとかの方がよっぽどヤバい
これの機能部分を問題視している人は見たことがない
生成AIを批判する文脈でよく挙げられる「大量に作ることができる」という特徴も、別に同じものを大量に無断転載することで実現が可能
この例からも、本来は能力があることではなく使い道を誤らないようにすべきだという論調になるべきだ
そういう論調の人もちゃんといるとは思う
「全く他人のものと同じではないこと」や「学習自体が法的には問題ないこと」から、「盗んでいない面(つら)をして、騙している」と解釈する人がいる?
なんかこれの方が人間の感情ベースでは本質的な気がする
上述のシンプルに無断転載して自作発言とかするシチュエーションの方が遥かに泥棒なのだが、生成AIに対する反発では遥かに「盗んでいる」という論調を目にする機会が多い
誤魔化されているような印象でも受けているのだろうか?
そもそも(ここでは法律で定められている内容でないという意味の)「盗む」の定義があやふや
国語辞書の段階で、「盗む」には人から奪う」の意味と「真似をする」の意味が記載されている
原本が失われる場合と失われない場合がある
「技術を盗め」とは職場で新人などがよく言われることだと思うが、これは原本が失われない例
そして問題のない例でもある
機密情報のリークなどは?
ちゃんとダメだが、窃盗罪ではなさそうだ
生成AIにおける「盗む」というタームは、「真似をする」という意味で使われているのだろうか?
データセットが数GBとかのファイルになっていることからもわかるように、データセットには原本が収められているわけではない
すなわち、原本の作品を見て学習まではしているが、そのデータをそのまま保持してはいない(「真似をする」の範疇)だろう
まあこれなら真似じゃねってのは個人の感覚かもしれない
批判する立場からするとどうでもいいことかもしれないし、そんな仕様なんて知らないかもしれない
作風の真似をすること自体はそういう作風の作家(パロディ、パスティーシュなど)があり、それが攻撃されていないことから批判の的にはならない 生成AIが作風を真似できた時に批判されるのは「フリーライドしている感」なのか?
生成AIの出力制度を上げるための労力は、この手の批判者からは労力としてカウントされない傾向にある
大量生産が可能な点で一線を画するが、当然技術の向上や品質の差は存在する
それどころか、任意のイラストが出力されるだけで盗んでいると言われることもある
「画風を盗んでいる」ではなく、この方向で主張する人もいる
この主張の場合、生成AIが「盗んでいる」(と批判者に思わせている)ものは何か
労力や時間?
ノウハウ?
言語モデルなどのに対して何も言われなかったこととも併せて、「自分たちが特権だから」批判しなかったのではなく、自分たちが重ねてきた労力しか労力であると想像できなかった?
「労力がかかっていない」という前提が仮に正しかったとして、それを「愛がない」「儲けたくてやっている」に直接接続する人がいる
愛があるに対する「工数が掛かっていると愛があるように見える」という錯覚 生成AIで何ができるのかという表現を突き詰めたい、ということがあまり考慮されない傾向にある
これも「労力がかかっていない」という前提に立脚して「ガチャを回しているだけで何が表現だ」という批判がある
労力がかかっていないのが決めつけなので前提が誤りだとは思うのだが、
後者の方も「画材じゃないようなものに絵具をつけてキャンバスについたランダムな模様からモチーフを見出して絵画にする」みたいなことが全然存在するはずで、ガチャであるから表現でないというのも誤りだろう
もちろん淡白なプロンプトを放り投げて出力をただ見るだけでは創作性が薄いのは自分もそう思うが、いくらでも他にない発想や挑戦は可能なはずであり、既に様々なものが世に出てきている
もちろん、前提も結びも正しかったとして、仮に愛がなくて儲けたくてやっていても、問題はない
二次創作であるならガイドライン違反のケースもあるだろうが、一次創作なら完全にオリジナルだ
パスティーシュ小説とかを買ってきた身としてはね
冬のコミケに参加している生成AIユーザーサークルです(イラスト本中心)
2日合わせて約20サークル以上います。また生成AIを明記していないところも合わせると40近く(またはそれ以上)はいると思われます
表明が20!?
ここから推察できること
数は本質的な問題ではなく、存在する時点で「追いやられている」と感じる人がいる
実際には同じ土俵の上で抽選を行っているにもかかわらず。
落選している生成AIユーザーサークルの数なども不明瞭であり、双方わからないと論ずることができない
20は「多い」と感じる人がいる
この書き方ではそう取れるよね
20/24000という定量的な値が考慮されず、伝聞だけで情報が伝播している