統治性
新自由主義的な自己責任圧がかかる状況
という理解で一旦いる…terang.icon
統治性 = gouvernementalité ガバメンタリティ
フーコーの術語
「統治心性」は誤訳らしい
当初、gouvernementとmentalitéのカバン語とされいたがフーコー本人が講義で否定したのだとか。
フーコーにとってのgouvernement 統治は、
今日で使われるものより広い意味を含意していて、
自制心、家庭指導、家事マネジメント、個々人の精神の方向づけなども、統治の意味に含む
小さな政府は個々の市民や労働者の振る舞いを、いちいち細かく管理指導しない
自由に振る舞っていいよ、と。
放ったらかし
そういう状況下だと
市場価値が高まるような働き方や勉強(自己啓発)を!
道徳的規範を守った誰にも迷惑をかけない生き方を!
と間接的な形で、個人に自己責任圧がかかる
たとえ統治者や誰か(社長とか)が直接意図せずとも。
政府や管理監督者は何もしなくとも、
個々人が自発的にさまざまな秩序ある振る舞いを身に付けてくれるから
コストかからない
コントロールしやすい
生産効率も上がる
といいことづくめじゃんワッショイ!
まあ統治者や経営者も資本家的に生きるというより疎外されている点で気の毒ではあるのだけども…terang.icon
ニコラス・ローズは、フーコー後にこの考えを引き継いだ
ニコラス・ローズによってたとえば(...)
「心(psy)」の専門家(カウンセリングから心理療法まで)が、医療、教育、福祉、そして社会科学や人文科学とならんで、個人を自分自身のふるまいの精査へと導き、それによって社会を支える抑圧的構造へと自己を加担させることになると述べられている。
ローズにとって、自己のテクノロジーは、言語を形成する権力をあらわしている。
それは、日々の生活のなかで受け容れ可能な、口に出して言えることへと順応するよう人びとを誘導する。
それは、物事をなすさいの認証されたやり方、認可された行動様式をめぐる権力であり、結果として自己を多元的な権力の様式へと刻み込むものである。
ref. 新しい個人主義と現代日本 一一理論的手法、日本の社会(科)学、日本社会をめぐる一考察一一
不思議な使われ方を目撃した
/tkgshn/2025/7/18 DDのLT: vTaiwan&Join#6879db2100000000001b6323
そもそも統治技術(gouvernementalité)とは何か
ミシェル・フーコーによって唱えられた権力の理論
国家が国民に対して持つ権力
国家が自らの権力を統治する手法・テクニック・合理性
= 統治の合理性(正統性), 統治を可能とする技術と戦略、
https://en.wikipedia.org/wiki/Governmentality
フーコーが言わなそう
彼が暴こうとした、権力が人々をどのように内面から形作るか?という視点はどこへ…?
まるでgouvernementalitéが、国家が用いるべき便利な統治ツールきっとかのように紹介しているように見受けられる。
おそらくリンクされているWikipediaの冒頭の記述Governmentality is a theory of power developed by French philosopher Michel Foucault, which analyses "governmental" power through both the power states have over the population and the means by which subjects govern themselves.のなぜか前半の意味だけで理解したのだと思いますが。フーコーの核心は後半の方だというのに。
そしてこの話は、公開オンラインフォーラムでの「熟議」への懸念#687a52bb0000000000df5cb6へ接続。
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