タイパがいいのは動画か活字か
学会の定義個人の信念を社会的に正当化すると接続しそうな気もする
「自転車を倒れずに操作して前進させるための操作」を「認識」しながらもその操作の言語化は身体的操作ゆえできないかもしれないが、
自転車を操作する行為そのものに、すでに「自転車」「こぐ」「ペダル」「前進」などの言語概念が埋め込まれていて、その言語がなければその行為を「認識」できない。身体的操作の言語化不可能性をもってして世界認識は否定できなそう 「自転車を倒れずに操作して前進させるための操作」を経験的に身につけるために、言語による思考(+その試行錯誤)や他者の言語による助言が必要だから、経験と言語は相互に構成し合う
「自転車を倒れずに操作して前進させるための操作」という行為自体が、共同体の中で構成されたルールによって認識し合える行為、つまり言語ゲームの産物。 暗黙知が形式知に先行することをもってして、「世界の認識は言語によって行われている」の反例とはいい難いのではなかろうか。 ただ「言語化できない暗黙知の領域」のようなものは存在し得るとは思う。
「人間の世界認識」は、言語に依る一方、人間は世界をすべて認識できないとも思う。
むしろ人間の認識できないものは世界ではないかもしれない。
虫には虫の世界がある。
ユクスキュルにとっては、人間の環世界に言語や文法が組み込まれているんだっけ? その意味で、世界が存在してようがしていまいが、言語を使用した実践性を重視するという点で、自分はプラグマティストなんだろうなあ。
そういえば元々はタイパとか動画 vs. 活字みたいな議論だっけ どちらも記号だから言語ゲームに新たなルールが加わったよね?という話をしたかったのかも
そろばんは道具だけど、思考をアウトソースした道具の操作で抽象思考する(世界認識を助ける)訓練にはなりそう 抽象化と記号操作(数学)も、記号の背後にある気持ちやコンテキストを読むこと(国語)も昔から大事と言われてるよね、みたいな妙に保守的な結論が浮かんでしまう(それはなんだかつまらない?)
言語情報か、(リッチなものを含む)非言語情報か、の話だったのに、どっちも記号でしょ的な暴論を書いてしまったかもしれない。