赦し:Pardon(2)
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ルーピンは夢から覚める。うすら明るい空白。背景の曖昧な褐色は小屋の壁の色だと、ルーピンはゆっくり思い出す。朝なのか? 彼は腕を上げ、手を顔の上に持ってゆく。肌色の、自分の手。手の甲にまばらに生える黄土色の細い毛は、人間のものだ。彼はほっと息を吐き、身じろぎする。身体はこわばり、不快な汗をかいている。一瞬、獣のにおいが鼻孔に触れるが、すぐに消えた。
ルーピンはベッドから降りた。月球儀の目盛は望からぬけかかっている。爪先にあたったマグカップをそっと蹴とばし、思い直して拾いあげてから、彼は用心ぶかく鎧戸をあけた。湿気をふくんだひんやりした外気が流れ込む。空はくもり、風景はモノトーンのなかに沈んでいた。かすかに、白く濁った牧草地で羊たちが草を喰んでいるのが見える。ルーピンは数えるともなく白くうごめく点を数えた。いつもの悪夢だ。いつもの人物。スネイプの薬を飲みはじめてから、満月の夜の常連となった忌まわしいイメージ。
それが悪い徴候でないことを彼は知っている。悪夢を見るとは、たとえ肉体が狼に変身しても、心は人間のまま、おとなしくベッドに身を丸めてうなされていたということなのだから。よいことだ! 彼は自分に言い聞かせる。その夢が、目覚めた後、どんなに落ち着かぬ、後味の悪い気分を残すにせよ。あの男は誰なのだろう――ルーピンは自問する。どこかで見たような気がしてならない。どこだろう? 場面はいつも暗い、狭い、果てしなく続くトンネルだ――あの暴れ柳の下の道のように。ルーピンは首を振って窓辺を離れた。それ以上は考えたくない。
外の光に浮かび上がる室内は荒れ果てていた。二ヶ月前から(フィッグばあさんと最後に会ってから)、誰とも会っていない。ぼろぼろの旅行かばんの横に、黄色くなった新聞が落ちている。去年の夏、ワールドカップの会場にダークマークがあがった記事。うすれかかったモノクロの写真が緩慢に、死にかけた蜘蛛のあゆみで動いていた。ルーピンは取り上げて埃をはらった。どくろとからみあう蛇、右往左往する人々――ヴォルデモート。
以前、聖マンゴ病院の隔離病棟で発作に耐えていた頃は満月の前後に夢を見た。夢にはヴォルデモート卿が棲んでいた。逆光のなかに立つ人物は、彼がくちづけすると、甲高い声で笑い出した。自責の念がそのような夢を見せるのだと、彼は知っていた。自分が闇の帝王との戦いであまり役に立つことができなかったと感じていたから。満月のたびごとに、自分の身をおさえることにかかりきりにならざるを得なかったから。それでも、夢のなかのヴォルデモートはあまりにリアルだった。その足元にひざまずく我が身の動きも。
違う、と彼は言いたかった。わたしは一度たりとも闇の帝王に従ってなぞいない。しかし見上げると彼の前にはデス・イーターが立っていた。シリウスの顔をして。呆然とするルーピンの前でその姿はヴォルデモートのものになる。――あの夕方手渡されたのは、シリウス逮捕を伝える新聞だった。ピーターが死んだとそれは報じていた。ジェームズの仇をうつために、おのれの非力もかえりみずシリウスに立ち向かったのだと。
シリウスが裏切り者だったと聞いた時、ルーピンは信じた。そう、信じたのだ。抱くべきではない懸念と押し殺していた疑念は真実であったのだと。一抹の安堵さえ身内にはしらせながら。彼は顔を歪め、一言、シリウスを呪った。その時、ピーターの行為がルーピンを刺しつらぬいた。「あとかたもなく吹き飛んで」、母親のもとにはただ指の一本だけが戻ってきた。えぐられたアスファルト。断ち切られた配水管からふきだす水。倒れたマグルたち、その体の下にひろがってゆく血だまり。――ピーターは死んだ。時々うるさく思うほどにおしゃべりな、ジェームズとシリウスがいない時は、普段にもまして馴れ馴れしく話しかけてくるこの友人を、彼は特に好きだというわけではなかった。彼は口ほどには何事もしたためしがなかったし、実際出来ないのだとルーピンは察していた。ひょっとして、無意識のうちに軽んじていたのだろうか? 質より数で勝負するような、(とはいえそのアイデアは時には彼らの採用するところとなったのだ)小柄な友人を? だが、彼は身を挺して立ち向かった。自分は?
彼は新聞で顔を覆うようにして、二、三歩よろめいた。壁に背を打ちつけた時、ロングボトムが彼から新聞を取り上げた。それから反対側の手をまわし、無言で彼の肩を抱きかかえた。しわくちゃになった新聞に視界をふさがれながら感じたあの気持ちを何度も何度も繰り返さなければならないとしたら、――人狼になりきってあさましく拘束具と格闘している方がましだ。
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ルーピンは立ち上がり、鍋を火にかける。もう一晩は薬を飲んだほうがいい。頭が痛み、めまいがした。鍋のなかで薬が煮えたぎりはじめる。かきまわすと液体はなめらかにはまわらず、鍋のふちにあたって大きくくずれた。まったく自分は無器用だ。スネイプなど、一日じゅうあの地下室で、あきることもなく鍋のなかみをかきまわしているのだ。スネイプはひどく不機嫌であるに違いないとルーピンは思う。大事な薬の最後の仕上げを、鍋をかきまぜることに関して何の才能も愛情も無い男にゆだねなければならないのだから。――スネイプから最初の薬の箱が届いたのは七月の満月のきっかり一週間前だった。はなから薬学の才能を期待されていないのが判った。同封の羊皮紙に記された指示は、あまりにも簡潔だった。その時、何となく、そのそっけなさに至るまでに三回くらい書き直したのだろうと考えたことをルーピンは思い出す。材料は粉末にされて分量を袋にわけてあり、しかも袋には間違った順序ではけっして開封できないよう呪文がかけられていた。じつにあの男らしいではないか。しかしながら、材料を並べようとして、ルーピンは困ったことに気がついた。自分は鍋を持っていない。差出人は鍋が無いなど想像さえしていないに違いない。せっぱつまった彼はフィッグばあさんに助けを求めたのだった。
事情を聞くと、フィッグばあさんは処方を出すように命じた。一瞥してばあさんのしわくちゃの顔がますます顰められた。ルーピンはそっと薬の材料も差し出した。だが老婆はそちらを見やりもしなかった。「ふん。魔法使いができあいの薬とは」
「鍋を貸していただけるとありがたいのですが」
ルーピンは後ろから頼んだ。フィッグは大声で繰り返した。「できあいの薬だよ、これは」そして馬鹿にしきったように息を吐いた。「これでダンブルドアの教え子だって。え? 落ちこぼれの不良ども」
「しかし、わたしはずっとこの薬を飲み続けてきて、調子はすこぶるいい‥‥」
「あんたが調合したのかい」相手はぴしゃりと言った。ルーピンは黙った。フィッグはかみついた。「言っておやり。こんなくだらないままごとで一人前だと思うんじゃないとね。え、魔法使いのくせに」
「これは」ルーピンは弁護の必要を感じた。「わたしが薬を煎じるのが苦手だから、このように整えてくれたのであって‥‥」
「言い訳は結構だよ」調理台の下に屈みこんだばあさんの尻がごそごそ揺れた。「言い訳は! ダンブルドアに約束したからね。どの鍋がいいんだい」
かくして一回目の発作は無事にやり過ごした。ルーピンはダンブルドアに報告する。経過は順調。フィッグばあさんが何と言い送っているかは想像するより他ない。おりかえし、ダンブルドアからの返信が届いた。魔法界に関する、闇の陣営の動きに関する、いくつかの懸念。以上をよくよく心に留めた上で君にやってもらいたいことは。
ルーピンは羊皮紙を何度も読み返した。「君はもう、満月のたびに聖マンゴ病院に行く必要はない。経過観察措置は解除された。同封の証明書が正式の通知じゃ」証明書には、この患者は適切な治療を受けているので危険はなく、入院は必要ない旨が簡潔にしたためられ、医師の署名が添えられている。そのサインも、文字も、先日まで同僚だった魔法薬学教授の苛立たしげな筆跡とは似ても似つかない。そう、スネイプなら、たとえダンブルドアの依頼であったとしても、ルーピンのためにそんな診断書を書きはしない。決して。だが、聖マンゴ病院が証明書を発行するためには、誰か信頼するに足る人物の報告書が必要な筈なのだ。フィッグばあさんが秘密を守ってくれるなら、鍋の件は未来永劫黙っていようとルーピンは思い、満月の前に鍋をかきまわすたび、そのことを思い出す。フィッグばあさんが黙っていてくれたら!
スネイプに手紙を書こうと試みて、ルーピンはそのたびにあきらめたのだった。一体、何を書くというのか? セブルス、薬をありがとう。よく効いている。君の但し書きは大いに役にたった。実に念のいった書きようだったよ。しかし君の思慮の及ばなかった事態があってね。それは、わたしが鍋を持っていなかったということなんだ――。それは書かない約束だ。それとも、セブルス、薬をありがとう。よく効いている。相変わらずの悪夢だ。誰かを噛み殺す夢。いつもわたしは血まみれになって目を覚ます。――スネイプから私信が届くことはなかった。毎月、満月のきっかり七日前に薬は届いた。常に詳細な説明書きとともに。成分や量が毎回微妙に異なっていることにはルーピンも気づいた。秋と春の月は近く。冬の夜は長く、白道は北の高いところを通る。‥‥
小さな町の図書館で、マグルの新聞を読むのがルーピンの日課だった。くたびれた服を着た彼は、うだつのあがらぬ失業者にも見えたろう。気になる記事を目にした時は、夜闇にまぎれて調査に向かった。存在するはずの深刻な事態はどこにもなかった。懸念の深さをあざ笑うかのように、マグルの世界は、そしてマグルの側から見た魔法界は平穏そのものだった。
満月のたび、ルーピンはフィッグの家に厄介になった。実のところ、最初ばあさんは彼を地下室におしこんだのだった。ルーピンはピクルスの瓶の間に丸まっていた。次から、フィッグは猫の体臭のしみついたソファに寝ることを許した。ルーピンはひそかに閉口したが、礼儀正しく従った。ばあさんは心なしか上機嫌だった。行儀のいい人狼だ。だが、彼女は薬については相変わらず気に食わない様子で、彼自身が調合したかのように文句を言った。つまり、スネイプが依拠する薬学理論には何の価値も無いと言うのだ。ばあさんはキャベツ臭い。彼女が傍らから鍋をのぞきこみ、ぐつぐつと泡のわき出す水面を掻き回すのを見ると、どうしても、脱狼薬などではなく、男に子供を孕ませる秘薬なのではないかと思ってしまう。その心の動きを思い出して、ルーピンはおかしくなる。だがそこには苦さがまじっている。鍋が火からおろされ、彼はのろのろと、顔をしかめながらマグカップにうつしかえる。いよいよ薬を飲まなければならない。この苦い液体を。
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◆"Pardon"(written by Yu Isahaya & Yayoi Makino) is a fan-fiction of J.K.Rowling's "Harry Potter"series.
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