赦し:Pardon(1)
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もしその語を言えなければ、私たちは崩れさることになるだろう。その語とはすまない<pardon>という語である。
−−−フィリップ・ラクー=ラバルト
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満月の夜が近づくと、とうの昔に打ち捨てられた羊番の小屋から煙がたちのぼるのが判るだろう。屋根の破れ目からのぞけば、一人の男が火のうえに屈みこんでいる。若白髪のめだつ鳶色の髪のその人物は、黒ずんだ鍋で薬を煎じている。空には月がかかっている。この一週間、刻々とふとり続けて、いまやまったきおのれを取り戻そうというところ。小屋のうちからそのさまを眺めることができなくとも、ささくれだった古い卓の上には月球儀が微光を発しながら月の位置と齢を刻んでいる。まもなく望。
鍋の液面から、霧のように煙がわきあがる。彼はそれをすかして、煮られているものの色を見定めようとする。汗の玉が額に浮かぶ。ルーピンはまつげのあいだから目のなかに流れこもうとするそれを拭う。鍋をいっしんに見つめたまま。
不意に霧がさっと晴れ、液面が真紅にかがやく。ルーピンはすばやく火を止める。はやくも黒のうちに沈みこもうとするその液体を彼はマグカップに注ぎいれる。まだ熱いそれを、彼は顔をしかめて飲む。
彼はベッドに横たわる。からになったうつわは、なおもうすい煙をたちのぼらせている。
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カチリ。
意識のすみに月球儀が望へと組みかわる音が響いた。眠りのなかで彼はおのが身をきつく抱く。
不意に苦痛がやってくる。体がねじり上げられるような激痛。背骨が弓なりになり、それにともなって肩が手前に押し出される。腹の中で腸が縮んでゆき、腰はひきしぼられて太くなった腿をささえる。しかし、彼には自分がどうなっているか判らない。ただ、内側から激しくつきあげてくる力を感じるだけ。彼はほとんどそれに押し流されてしまいそうだ。誰か。誰でもいい。そばに――。彼はあえぎ、手をのばし、もだえる。手をのばし? 毛むくじゃらの前肢が床を叩く。ああここは暗い。暗い。明かりは何処だ? 月光を全身に浴びることのできる場所は? 彼はトンネルを駆けてゆく。その先の白い空虚に向かって。行きたくない。どこかで最後の理性が悲鳴を上げる。行っては駄目だ。ここで、暗闇でじっとしていろ。だが、その時彼の鋭くなった感覚は何かをとらえる。向こうに誰かいる? 彼は駆け出す。誰かがトンネルの入口に立っている。逆光で顔は見えない。しかしその腕は、彼を歓迎するかのようにゆるやかにひろげられて。さそわれるように、彼はその足元にたどりつく。闇のなかで、ゆるやかなほほえみをうかべた相手の顔を、彼はおのれのうえに感じる。彼はその人物の足元に跪き、くちづける――鋭い牙をもつ口で。
相手の足が彼の顎のなかでつぶれてゆくのを彼は感じる。まるで塔が倒れるように、相手は視界のなかをゆっくりと沈んでゆく。その手がむなしく宙をつかむ。蜘蛛の脚のようにゆがんだ五本の指のシルエット。蒼白い闇のなかで溢れかえる血。むせかえるその匂いが獣の鼻孔を興奮させる。おのれの息遣いの下で、相手はしだいに消滅してゆく。血と襤褸に分解され、彼の口のなかへ。彼は非常な関心をもってもはやぴくりとも動かない相手の手首を噛み切り、憎しみに酔いながら咀嚼する。人間の手。運悪くそこに居合わせたために、彼の犠牲となった男の手。
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◆"Pardon"(written by Yu Isahaya & Yayoi Makino) is a fan-fiction of J.K.Rowling's "Harry Potter"series.
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