知識は不要になったのか?
インターネットで検索すればなんでも出てくる時代だから知識は不要だ、みたいな意見を聞くことがあります。
でも本当にそうでしょうか?
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学校で勉強する内容は、言うなれば「世界の仕組み」です。
「新しいアイディア」を作るには、その材料になる現在の仕組みの理解が必要で、より深く理解しておけばより珍しいアイディアを作れるようになります。
また、現代は新しいアイディアを実践しやすい時代で、ユニークな創造性を発揮できれば経済的にも豊かになれる可能があります。
ということは、創造性を育むためにより多くの深い知識が必要とされていきそうですが、逆に知識が不要ってどういうことでなんでしょうか?
いまの教育は「問い」が問題
前述の人は、”狭い”意味での知識が不要になったと言いたかったのかもしれません。
例えば、「周期表を暗記する」「平安京へ遷都した年号」「炭酸水素ナトリウムの実験方法」「プログラミング言語の種類」などです。
周期表の意味を理解して、原子の仕組みを理解することはとても重要だと思うのですが、スイ・ヘイ・リー・ベー…みたいにその元素記号を完全再現する必要って今も昔も実はないですよね。
熱すると物質の分解が起きるという現象を理解することは大切ですが、炭酸水素ナトリウムの1つの実験方法を覚える意味ってどれぐらいあるんでしょうか?
年号の暗記についてもよく言われますが、平安京とは何か、なぜ遷都する必要があったのかを知ってからその前後関係や流れを知るために年号を知ると便利って話で、年号だけ覚えても何の意味もないはずです。
でもテストに出るのってこういう部分ですよね。
白黒はっきりするので出しやすいし、数値化もしやすいので先生は問題を出しやすいです。教えないといけない項目が多すぎるという問題もあるかもしれません。諳んじることが貴ばれた歴史的な背景などもあるかもしれません。
でもこれだと、本質的な事象の理解より、単純な記憶力が有利ですよね。
それは新しいアイディアを生み実践していく人を育てるという観点からみたら、正しいでしょうか?
「本質的な問い」
こういう状況を改善するため、京都大学の西岡かなえ先生などは、その単元で答えられるようになってほしい授業を貫いた「本質的な問い」を作って授業に臨むことを提案されています。
ロイロノート・スクールを使い倒している京都教育大附属桃山小の長野先生のクラスでも、単元を貫いた「本質的な問い」をもって授業を行っていて、それはもうすごいスーパー小学生たちがたくさんいます。
でも単元を貫いた「本質的な問い」を作るのは、その単元全体またはその背景にあるものへの深い理解が必要で、とても高難度な作業なんです。ほとんどの人にとっては本質的なのか、暗記なのかとう線引きも難しいです。
当たり前ですが高難度なことは、一部の人しかできません。
難易度を低くするために、本質的な問いは教科書や指導書に書かれているべきだと思います。でも、そうなっておらず書いてあっても内容の浅い問いなんだそうです。
地に足がついた改善が必要
受験成績、テスト対策、プログラミング教育、表層的な手法や目標を足すのではなく、本質的な学びに立ち返ることが次世代につながっていくのではないでしょうか?
何がわかってほしいのか?
慣習にしばられず、「本質的な問い」で評価してほしい。
わかることは楽しいこと
楽しいと感じることは悪いことではない。
新しいアイディアを生み実践して、より良い仕組みを生み出すために勉強している。
まんべんなくいろんな知識を深く知ることは時間的に不可能。
深く知る者同士が協力して新しいアイディアを作っていく。
そういうバックグラウンドがあったうえで、ICTやALは効果的なものとして生きてくる。
パフォーマンス課題
ロイロノート+OPP
共同作業
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