80年代の日本企業の老獪さ
イエローモンキーなんて呼ばれていたころの日本人は、一見へらへらしているイメージだけどJapan As No.1と言われるようになった。このころの日本人の長所は、勤勉さでもいい人でもなく老獪さだったと私は考えています。
自分たちのビジネス環境を自分たちに有利になるように構築していく老獪さが垣間見えます。
規格によって他社を排除する
VHS、ビデオカメラ、MPEGなど映像系の規格の本当の意味を知っていますか?
表向きの理由としては、同じ規格なら互換性が保証されるので消費者が安心して製品を選択できることが挙げられると思います。
でも、裏の意味としては、はじめに規格を作った企業連合で、他の企業を排除するという意味がありました。
規格は複数の企業が参加して決めます。
その規格には各社が持っている特許を入れ込み、勝手に真似ができないようにしておきます。
後からライバル企業が規格に参加したい場合には、法外なライセンス料を支払わせます。もし他社の製品が売れても初めに規格を作った企業連合が儲かるようにするためです。
90年代以前は、このような商慣習の元、いくつもの企業連合が規格を立ち上あげ、生き残りをかけた規格競争を繰り広げていました。
でも21世紀になり、googleはじめオープンソース系のイノベーションや、中国系ODMの台頭で誰でもある程度の品質のものが作れるようになってしまったことによりほぼ破壊されました。
SonyやPanasonicなど日本企業はその対応に遅れ、扱いづらいAVCHDとか言ってるうちにGoProやREDなどの台頭を許しました。ドローンも撮影機材とみれば中国DJIに持ってかれてますね。Sonyはスマホ用の部品という別の形で頑張ってます。
いまは動画ならmp4(h.264+aac)ならほぼどんな環境でも再生できるので、互換性の問題はだいぶ減りました。mp4やh.264,aacも同種の規格ですが、ライセンス料や参入条件は以前に比べても安く公平なライセンスになっています。
大学入試の共通テストの導入と偏差値教育
センター試験など大学入試の共通テストにも表の意味と裏の意味があります。
表の意味は、1つのテストだけで複数の大学への出願が可能になるので、受験生、大学共に負担が減り、広く門徒を受け入れることができるといったところでしょうか。
裏の意味は、単純な1つの評価軸で評価されるので大学の序列化と受験産業の肥大化が起きました。
大学の偏差値は模試を行っている塾が決めている数値です。
受験産業側は単純でわかりやすい偏差値という指標で競争をあおり、いつしかそれが当たり前になって高校の先生からおすすめの塾を紹介されるような時代になってしまいました。
大学入試のために勉強するということが当たり前すぎるぐらい当たり前の文化になってしまっています。
本来は各大学ごと特色があってほしい人材もそれぞれ別々なはずなんです。アドミッションポリシーなどでそうした特色を明文化しろと文科省は言ってます。でもすでに均一化してしまっている大学側も自分たちの特色を明文化できず困っているという話も聞かれます。
読書ノート-崩壊するアメリカの公教育を読んでいてアメリカにおける共通テストの導入と日本の指導要領に相当するCommon Coreの導入は、むしろ日本をはじめアジア型の教育制度を導入して受験産業を作ろうとしていたんだと初めて気が付きました。 完全に邪推ですが、79年に日本で共通一次テストが生まれた背景には受験産業側の働きかけがあったんじゃないでしょうか?アメリカでのピアソンの件と同じように、天下り先の提供や政治献金など調べてみても面白いかもしれません。
教育は社会の根幹を担う重要な部分のはずなんですが、利益を最優先しなければならない企業とは相性が悪い分野だなと感じています。