前提としての良し悪しの共有
痛い話なんだけど高校の頃、友達にイキってDaft Punkの『Human After All』のなんかの曲を聴かせた時、「歌はいつ始まるの?」と訊かれたのを思い出す。音楽を歌詞をメロディという単位で捉える感覚は、ひとえにカラオケや歌謡曲という文化がアフォードしたものなのかもしれない。そしてそういう音楽観をダンスミュージックに向けた時、曲の良し悪し以前に、これをどう受け取っていいものか分からないというフリーズ状態を引き起こす。2017年のM-1で、ジャルジャルのコントに上沼さんが「反復的。もうひと盛り上がりが欲しかった」と評したのを、FlyのMVの打ち上げで、ラッパーの79さんが「テクノにサビがないと文句をつけるようなものだ」とツッコんでいてたのも、似た現象かな。 千葉さんの話はもはや関係ない気もしてきた。こういうモノを知っていたらセンスが良い、悪い、と具体的な事物を価値判断することは単なるエリーティズムでしかない。だけど、センスの良し悪しというものをその人の中でどれだけ相対化、脱構築で出来ているか。そのために、様々なアティチュードのもと作られた作品に触れられているかは、結構こう、色々と肝心なんじゃないか…。結果それで「テクノ」を嫌いになっても全然良い。
The FWAやAwwwards的なウェルメイドさのみを追っかけるのは、個人的には「ボカロしか聴いていない」に近い。FWAやボカロそれ自体のセンスが駄目って言ってるんじゃなくて、「…しか摂取してない」ゆえの、その人にとって価値判断の対象となる表現の潜在空間の小ささに、一抹のもったいなさを感じてしまうって話。
普通になにを言ってるか・言いたいかが理解できておもろいな(基本的に橋本麦が書く文章を半分も理解できていない自信がある)