normalize.fm 公開収録 付録
Qantaさんとのビーフ
これ、もう一つ後出しで言わせてもらうと、宇川直宏さんが関わられた「高松メディアアート祭」がドメイン切れしていたのを見つけた流れで『映し鏡』について言及しているんですよね。もちろんその文脈は踏まえた上で、断片化された発言に対して反射的に物申してしまうSNSしぐさを、敢えてそういうパフォーミング・アートとして実演されたのかなと理解しています(ですよね)
アーカイブの問題についても、YCAMの『メディアアートの輪廻転生』(2018)だったり、ICCのHive、Rhizomeなど、メディアアート界はとても誠実に向き合ってらっしゃると思う。それは、自分たちは“アート” だから、自分らの作品は残されていくに値するから、という驕りというよりも、コンピューターという、その新奇さだけで間が持ってしまうよう技術を用いるアーティストとして、何が時代が経るごとにヘボくなり、何が思弁性を留め続けるのかという批評の目に晒され続ける覚悟の現れにも思える。 総じてネオフィリア(新しいもの好き)なニューメディア・アートやインタラクティブ業界において、湿り気のある師弟制やら歴史もない、スキゾ的感性こそが推進力になるんだっていう空気がすごいあった気がする。だけど結局そうじゃなかった。
WebGL表現はFlashの歴史を10年遅れてトレースしているし、むしろレスポンシブやスマホ対応に工数を取られて、尊敬するデザイナーの坂本政則さんが関わられた『The Museum of Me』のような作品には、この数年でようやく表現力として追いつくかってところ。けど、そもそもそういうリッチさを「だけ」を目指さなくてもいいのでは?とも。それは「過剰な演出は抑えて、伝えるべきことが伝わる落ち着いたサイト設計を心がけましょうね」という真面目くさった話でもなしに、もっと色んなオルタナがあって良いんじゃなぁって話。
例えば、PlayStationが新ハードごとにレンダリング性能の向上を謳いつつ、それが必ずしもゲームとしての面白さに結びつかなかった。あんだけリッチに見えたPS2の描写は、PS4の時代には陳腐化している。そんな中で、任天堂はWiiを通して全く違うアティチュードからコンピューターゲームというのを再考した。
WebGL演出マシマシのマキシマリズムか、組版だけで強弱をもたせたミニマリズムかってのは、うまく言語化しづらいけれど、同一のアティチュードの中で、どのセンスを取捨するかってレベルの話に感じるんですよね。結局「丁寧系」じゃんっていう。公開収録では、「じゃなさ」の例としてスカム(コミクズさの精度追求)やノイズ(より無秩序で触覚的なもの)的なものしか挙げられなかったんだけど、Webシーンを見てみてもまだいろんな
例えば以前にも紹介したオランダのStudio Monikerは、クラウドソーシングだったり、socially engagedな要素を多分に盛り込んだ、クスッと笑ける作品を多く世に出していた。Web同じ表現ではあるんだけど、デザインの良し悪しの軸とは垂直な方向によさが飛び抜けていたりする。木原共さんも影響を受けているらしく、Playfoolのお二人と制作されたAIお絵かきゲーム『Deviation Game』(2023)は『Do not Draw a Penis』(2018)の影響もあるとのこと。 テレビや銀幕を囲うのと違って、Webサイトを見るのは
共在
コントラクト・アートやフルオンチェーン作品のような、’コンセプチュアルな作品を作っている。yugopチルドレンとおそらく彼が追い求めていた「巧さ」を超克できたんじゃないかって思ってる。中村勇吾さん自身の言葉をお借りすると、「師匠殺し」が出来たってわけ。もちろん殺せたからといって、認められるとは限らない。むしろ師匠の価値判断の外側に飛び出すことが、呪縛から逃れるっていうことなのかもしれない。なんというか、師匠に「あ〜そっちいっちゃったかぁ〜」と思われるのは、正面切って作品を批判されることよりもダメージがデカい。…これ全部想像です。
robamotoさんの平均律や、フロクロさんのご活動にも似たような師匠殺しのバイブスを感じる。作品と同じくらい、心意義にやられるというか。それが遠因となってか、僕もコロナ禍から髪を染めてネイルをしている。というのは、僕のようなデジデジ人間とは文化的出自の全く異なるコミュニティにおいて、自分の居場所をつくるためにナードであることをキャラとして受け入れていた。演じてまでは居ないけど。だからなのか、垢抜けようとすることで余計に垢抜けなさがにじみ出るのは、垢抜けないこと以上にダサいし、それはもう、佐藤雅彦先生に「シュールですね」って言われるくらい怖いことなんですよね。多分。それゆえに、一周回って、反抗心から染髪をした。というのを、当の心理的師匠筋の人たちには言い訳していない。彼らや彼女は多分このテキストを読むこともないはず。「韓国アイドルみたいだね」って言われた時はだいぶこう、つら面白かった。何がそういう「垢抜けなさ反抗」をするキッカケになったかは定かじゃないんだけど、2022年末のMUTEK.JPに出演した時、楽屋で「どうせ今日来る奴らは棒立ちしてるオタクなんでしょ」っていう声を聞いたのは時期的に関係していそう。あ、やっぱりそう映っていたんだなって。言っておくと、発言の主は運営サイドでも、ヨシローさんやTAKAKAHNさんでもないです。
未だにクリエイティブで、(社名とかが)オモシロくて、遊びゴコロに溢れていらっしゃる。(これを一見してディスだと思えないところに、残念さがある)
正直The Making of “Kindolphin”で紹介したインタラクティブ作品は、僕が「ここが最高に好きです」と明示したものを除いて、むしろ好きじゃないものばかりを挙げていたりする。へ、そんなんで良いの? その作品としての強度は何ミリ辻川幸一郎(単位)くらいだと自己評価されているの? みたいな。そこには僕が関わった『Deja Vu』含まれるんだけど。だから『group_inou / EYE』を同じWeb技術を駆使してつくったのは、ちょっとした当てつけだったんですよね。 けどそれはある意味しゃあないと思う。1895年のシネマトグラフの発明からモンタージュの発明に至るまでの、30年にわたる試行錯誤の時代があったように、Windows 95で本格的に浸透し始めたインターネットにおける表現もまたそうした過渡期にあるのかも。
戦艦ポチョムキンが2025年だから、インタラクティブ
奥田透也さん
インターネット・アート
インターネット、World Wide Web、ブラウザを媒体としたアート。
椹木野衣いわく、多くコンセプチュアル・アートやポップアートといった「〇〇アート」は「〇〇主義」と言い換えられるようなものであるのに対して、インターネット・アートは「インターネットのアート」であって、美術に関する主義主張ではなく、「木の芸術」「紙の芸術」といったように、素材の強調にすぎない呼称。「ネット・アート」という略し方も一般的だが、和製英語寄りで、英語圏だと具体的なグループ名としてのnet.artとを指すことが多そう。 ポスト・インターネットアート
インターネット・アートが「インターネットのアート」だったのに対して、ポスト・ネットアートは、インターネットが日常に溶け込んだ「以後」における時代的状況、メディア空間や人々の知覚の変容を捉えようとしたもの、という雑なイメージを持っている。Webブラウザから飛び出て、インスタレーション的なものだったり、よりコンセプチュアル・アート寄りなものが多い印象。インターネット・アートとの雰囲気の違いは、Guthrie Lonergan『Hacking vrs. defaults』(谷口暁彦訳)が良く捉えている。 2012年のICC『インターネットアート これから ― ポスト・インターネットのリアリティ』展が、上京したてのbaku89.iconにとって洗礼だった。谷口暁彦さんは弊学のMax/MSPの講師でいらっしゃった。谷口先生が国内に紹介されていた、ゲームアートやマシニマ、In-game Photographyのようなムーブメントに影響を受けたメディアアート、情報デザイン系の美大出身者は多いんじゃないかなと思う。
Rhizome
NYCに拠点を置く、デジタルアートに特化したアート機関。インターネット・アートの保存活動も行っていて、動作環境ごとdumpするシステムを開発している。
2016年に同じくNYCに拠点を置く School for Poetic Computationに通っていた時に、訪問する機会があった。レジデンス中のアーティストが具のゴロゴロしたサラダボウルを食べながら、昼飯中ゴメン、なんて言いながら僕らの質問に答えてくれた記憶がある。 New Museumとの関係は、上記の記事が出るまでイマイチ理解できていなかった。 スキル、センス、アティチュード
アティチュードという言葉を連発してしまったのだけど、音楽レビュー系の記事でよく見かける語彙ですよね。なんというか、センスの良し悪し以前の、その表現と向き合うにあたっての、より根源的な思想、態度を指す言葉という印象がある。
そういえば以前さのさんと食事した時に、「スキル < センス < アティチュード」と、三層構造を成しているという話をしたような気がする。同じセンス体系の中ではスキルは比較可能で、同じアティチュードの中ではセンスは違いを超えて相互評価し合える。しかし、違うセンスの元ではスキルは序列化が出来ないし、根本的にアティチュードが違うもの同士ではセンスについての言語が違い過ぎて会話が成立しなくなってしまう。例えば、デイリーポータル的なセンス体系の中ではライティングスキルはある程度定量化できる。デイリーポータルZ新人賞はそれゆえに開催できる。デイリーポータルとオモコロも、センスの指向の違いはあれど、インターネットオモシロコンテンツクリエイターとしての根っこのアティチュードにそれなりに共通するところがあるので、ある程度はお互いに認め合える。だけど、オモコロとユーフラテスは、世の中の事象の「面白がり方」、そしてそのコンテンツへの昇華の仕方にあまりに態度の違いがあり過ぎて、恐らく意思疎通ができない(ような気がする)。実際、業界としてもきっぱり別れている。
千葉雅也さんの本というのは『センスの哲学』(2024)。そのものズバリなタイトル。大まかには、意味や機能というかたまりで作品を解釈しようとするのを一旦保留して、そこで描かれているリズムやテクスチャを脱意味的に捉えてみよう。そっから広がる世界もあるよ、みたいな話だった気がする。 痛い話なんだけど高校の頃、友達にイキってDaft Punkの『Human After All』のなんかの曲を聴かせた時、「歌はいつ始まるの?」と訊かれたのを思い出す。音楽を歌詞をメロディという単位で捉える感覚は、ひとえにカラオケや歌謡曲という文化がアフォードしたものなのかもしれない。そしてそういう音楽観をダンスミュージックに向けた時、曲の良し悪し以前に、これをどう受け取っていいものか分からないというフリーズ状態を引き起こす。2017年のM-1で、ジャルジャルのコントに上沼さんが「反復的。もうひと盛り上がりが欲しかった」と評したのを、FlyのMVの打ち上げで、ラッパーの79さんが「テクノにサビがないと文句をつけるようなものだ」とツッコんでいてたのも、似た現象かな。 千葉さんの話はもはや関係ない気もしてきた。こういうモノを知っていたらセンスが良い、悪い、と具体的な事物を価値判断することは単なるエリーティズムでしかない。だけど、センスの良し悪しというものをその人の中でどれだけ相対化、脱構築で出来ているか。そのために、様々なアティチュードのもと作られた作品に触れられているかは、結構こう、色々と肝心なんじゃないか…。結果それで「テクノ」を嫌いになっても全然良い。
The FWAやAwwwards的なウェルメイドさのみを追っかけるのは、個人的には「ボカロしか聴いていない」に近い。FWAやボカロそれ自体のセンスが駄目って言ってるんじゃなくて、「…しか摂取してない」ゆえの、その人にとって価値判断の対象となる表現の潜在空間の小ささに、一抹のもったいなさを感じてしまうって話。
真鍋大度さん
https://www.youtube.com/watch?v=W_5Cty8M5Kk
5・6年生にもわかるやさしいJavaScript
このサイトでは、初心者でもJavaScriptを使って楽しいホームページ作りができるように、使いやすいJavaScriptサンプルで、わかりやすく説明をしています。メニューの中から気に入ったJavaScriptをホームページに使ってみましょう!
ジョン前田の12 o'clocks
https://www.youtube.com/watch?v=B7dbz9qepe0
当時どういう実行環境で、どんな風合いでディスプレイに表示されていたかは分からない。岡村浩志さんは存じ上げていそう。