拡張される音楽
関東巡回が来てたので虎ノ門へ
展示解説みたいなやつの図のひとつに「『リアルとデジタルは干渉していくべき・するべきでない』の二つに人々の考えは二極化している」みたいなものがあったけど、自分がどちらに属すのかぱっと答えられない
virtual性とかそういうものに対してならはっきりそれはリアルに持ち込まれるべきではないと思うけど、ここでいうデジタルはそれとも違う気がする 「デジタル」というとなんか万能性を帯びるけど、実際にリアルの(それこそこの展示みたいな)物理的現実と対比されるべきものはそのデジタルを介するハードウェアじゃないか
そもそもデジタルなもの全般がスクリーン/スピーカーのハードを通してしか働きかけることができないことの窮屈さ
もちろん、HMDを使ったVRとか、5.1chのサラウンド環境とかを駆使すればリアル以上の体験とかも可能になるだろうけど、当たり前にそれは享受できる人が限られてくる
それに対してリアルは物理的空間、空間的音響、触覚、温度とかをただその場にいるだけで無条件に誰にでも与えられる強度が浮き彫りになる
流動回廊のdaw画面
椎乃味醂のやつよりも(野暮なことを言ってしまえば)実装難度とかは簡単なはずだけど、見慣れたreaperのトラックロールに独りでにmidiアイテムとwavが配置されていくのは正直テンション上がった。一回性だ 多面体、鏡面 のディスプレイとフォーム
dialog()にもこういうwebを介してインプットを渡してそれを画面に反映する形のインタラクティブがあったのを憶えてる 生成的なアプローチはかっこいいけど一般人目線だとあんまり発展性が見えなかった。
要素が置き換わった時、訪れた鑑賞者は自分より前の鑑賞者の「想い」が反映された作品を見ることになる。それを踏まえた想像がまた、新たな「想い」として回収され、作品に変化をもたらす。この「選択や想像」の循環が、ゆるやかに音楽や歌唱者の在り方を変化させ、その一瞬一瞬に「一回性の体験」を提供する。
ここで発生してるのは本当に「一回性」か?どちらかというと偶発性とかそういうものでは
うだうだしてたらはるまきごはんの展示が16日までで終わってしまっていたらしく無念…
「一回性の音楽」をテーマとするこの展示会において、この作品は鑑賞者が自由に動かせるフェーダーを用い、その自在な混合によって人間心理を描くことを試みていた。フェーダーの各つまみはそれぞれ特定のシチュエーションに結びついたひとつの気分に対応しており、それらのBGMを同時に鳴らすことで未知の音楽が現れ出る、という仕組みだ。
人間の心をひとつの単線的な意識として捉えるのではなく、さまざまな思考の流れが共存した集合体として感じ取る。テーマとしてはそう真新しいものではないが、はるまきごはんの世界観でコーティングされると、それは個人化されたオリジナルの作品へと昇華する。
いま聴こえている音楽は、第一には目の前にいる人物の気分そのものとして読み取るべきものだ。しかし同時に各成分のモチーフは、はるまきごはんが過去に公開してきたさまざまな作品と結びつく内容のものでもある。その意味でこれは、作者自身との交流の音楽でもある。そして第三にこの音楽は、鑑賞者である自分が介入し、もっぱらその身体動作によって決定されたものである。相手のものとして読み取ろうとしている気分は、実のところ自分自身の投げかけの残響でもあるのだ。自己と他者とその内奥、さまざまな層を行き来しながら、この音楽は揺れ動く。
ノスタルジックで気の利いた演出のおかげもあり、シンプルながらさまざまな思考を喚起し、またそれに浸ることのできる面白い展示だった。
面白そ~
フロクロさんのグッズが買えるみたいなことを聞いて買うつもりだったけど売り切れてたのかそれらしいものがなかった
ルーズリーフとか自分で市販品にマーカー塗って作れそうだし自作しようかな
この「自作しようかな」って発想が出来てしまう時点で本来マーケティングで目指されるべき付加価値的なものが否定されててちょっとおもろい。そこまで意識してたのかはわからないけど