野暮
「それを訊くのは野暮だ」という主張がなされると、言われた側は反論しようがない
なにが野暮かは主観的・定性的に判断され、「なにが野暮か野暮でないか」を語ること自体が野暮という論理も通用する
その先はすぐさま語ること自体が禁止された領域になり、会話における一種の立入禁止標識と捉えることができる
「野暮」が発生するもの、野暮に対置されるもの
かつて「良さがある」という言い回しをしていたことがあります。2010年前後にネットスラングとして一部で使われており、自分もそのうちの一人として使っていました。ややニュアンスが異なりますが、「エモい」なども漠然としたポジティブな表現という意味では近いかもしれません。使わなくなってからしばらく経ち、なぜ使っていたのかを冷静に振り返ることが出来るようになってきたと感じています。そこで、このスラングの反省文を初回のテーマとすることにしました。
まず、このスラングの前提を確認しましょう。
「良さ」とは、過剰にプレーン且つポジティブな表現を使うことによって、当然そんなシンプルな言葉では言い表せないハイコンテクストな良さが背後にあるということを際立たせる強調表現である。
「野暮」とは、説明することができる良さと説明することができない良さの中間領域の中で、後者寄りの領域の説明を試みて失敗することである。
(中略)
良さがある、の話に戻しましょう。このスラングは説明が簡単にはできない良さが背後にあることを示唆するためにあえてプレーンな表現を採用していると述べました。説明が難しいということは、単純にプロトコルを多数共有していないと理解が難しいというものもあれば、説明をしようとすると野暮になる領域を含んでいる場合があります。今回主に取り扱いたいのは後者です。
「良さ:🍩」は、ドーナツとその穴に似ています。🍩は価値判断出来る任意の対象で、単体の作品でもよいし、作品群でも価値判断が可能な対象であればどんなスケールでも構いません。説明することができる良さは🍩の実体部分、小麦粉で出来た部分で、穴の部分が説明することができない良さを指します。穴は見ることも触ることも出来ませんが、穴の周辺の形によって規定できるし、認識することができます。実際には言語が不完全であること、個人の能力の不足など様々な理由によってこの🍩が完成されることはありません。しかしながら、ぼろぼろとした🍩の欠片をナプキンの上に並べれば、🍩の直径や、穴の内径はおおまかに知覚することはできるでしょう。そして、あまりにも穴の輪郭を攻めた説明を試みるとそれはしばしば野暮な行いとなるはずです。