熊鰐
境内の案内板~西円寺(さいえんじ)と熊鰐(くまわに)の由来 日本書紀によりますと、四世紀頃、仲哀天皇と神功皇后が熊襲征伐のため九州にお越しになる事を聞いた当時遠賀地方の支配者だった熊鰐は九尋(約十六メートル)の船に鏡、剣、玉を飾って周防の沙麼の浦、~でお迎えし、北九州に渡る水先案内を努め、魚や塩をとる区域を献上いたしました。よって熊鰐は、仲哀天皇に対する忠節を認められ岡の県主となりました。往昔の遠賀郡は、現在の北九州市の戸畑区、八幡東区、八幡西区、若松区、中間市を含む地域でありました。熊鰐の遺跡は北九州市と岡垣町に数多く残されています。八幡東区の皿倉山には熊鰐を詠んだ野口雨情の詩碑があります。「洞の海辺の船もよい 船も帆がなきゃ行かれない お供についたくまわにが 山で帆柱きりました その時きった帆柱は 帆柱山の杉でした」 熊鰐は別墅のこの地に子孫を残されました。お寺の裏山を熊山(七十二メートル)といい、山頂に岡県主熊鰐公と刻んだ石碑があります。また、遠賀・中間医師会病院(岡垣町手野)がある場所は、昔は沼地でしたがここは熊鰐が神功皇后をもてなした「魚鳥の池」の跡地として伝えられています。熊鰐第二十二代熊太が最初の僧となり、第三十代熊亮が伝教大師最澄の教えを受けてこの地岡垣町三吉に寺を建立しました。最初は星住庵といい天台宗でありました。土地の人はこの寺を熊の精舎と呼んでいました。その後、第七十三代熊玄が慶長の末(一六一〇年頃)浄土真宗に改宗し、寛文六年(一六六六年)、第七十八代吟雪が上京し、寺号・木仏を許可され寺号を西円寺と改めました。熊鰐姓は岡の県主熊鰐公より現在に至まで約千七百年にわたり九十三代に及びます。浄土真宗本願寺派西円寺としましては、熊鰐第七十八代吟雪(西円寺住職第一世)より、現在熊鰐第九十三代薫修(西円寺住職第十六世)に至るまで三百四十年の法灯が受け継がれています 鰐といえば因幡の白兎伝説がある さて熊鰐姓だが この西円寺ご住職家族 そして近在の数家族だけが その姓を名乗っておられるそうだ 本堂を見下ろす裏山に岡県主熊鰐公の石碑があるという わに
遠賀郡
遠賀町