崇仏論争
大和朝廷の豪族の中には原始神道の神事に携わっていた氏族も多く、物部氏・中臣氏などはその代表的な存在であり、新たに伝来した仏教の受容には否定的であったという。いっぽう大豪族の蘇我氏は渡来人勢力と連携し、国際的な視野を持っていたとされ、朝鮮半島国家との関係の上からも仏教の受容に積極的であったとされる。欽明天皇は百済王からの伝来を受けて、特に仏像の見事さに感銘し、群臣に対し「西方の国々の『仏』は端厳でいまだ見たことのない相貌である。これを礼すべきかどうか」と意見を聞いた。これに対して蘇我稲目は「西の諸国はみな仏を礼しております。日本だけこれに背くことができましょうか」と受容を勧めたのに対し、物部尾輿・中臣鎌子らは「我が国の王の天下のもとには、天地に180の神がいます。今改めて蕃神を拝せば、国神たちの怒りをかう恐れがあります」と反対したという(崇仏・廃仏論争)。意見が二分されたのを見た欽明天皇は仏教への帰依を断念し、蘇我稲目に仏像を授けて私的な礼拝や寺の建立を許可した。しかし、直後に疫病が流行したことをもって、物部・中臣氏らは「仏神」のせいで国神が怒っているためであると奏上。欽明天皇もやむなく彼らによる仏像の廃棄、寺の焼却を黙認したという。 物部世真古.icon ↓、通説の矛盾が出てる
以上が通説であるが、近年では物部氏の本拠であった河内の居住跡から、氏寺(渋川廃寺)の遺構などが発見され、神事を公職としていた物部氏ですらも氏族内では仏教を私的に信仰していた可能性が高まっており、同氏を単純な廃仏派とする見解は見直しを迫られている。一方、蘇我氏の側も神事を軽視していたわけではなく、百済の聖明王の死を伝えに訪日した王子・恵に対し、王が国神を軽んじたのが王の死を招いたと諌めたのは蘇我稲目であった。結局のところ、崇仏・廃仏論争は仏教そのものの受容・拒否を争ったというよりは、仏教を公的な「国家祭祀」とするかどうかの意見の相違であったとする説や、仏教に対する意見の相違は表面的な問題に過ぎず、本質は朝廷内における蘇我氏と物部氏の勢力争いであったとする説も出ており、従来の通説に疑問が投げかけられている。 物部氏は有力な軍事氏族である。物部氏は日本に伝来した仏教に対しては強硬な廃仏派で、崇仏派の蘇我氏と対立した。ただし、物部氏の本拠の渋川に寺の跡が残り、物部氏そのものは廃仏派ではなかったという説もある。 物部世真古.icon この論理でOKなら何でもありになっちゃう
物部世真古.icon それに対して、物部氏の本拠地・遠賀川流域は見事に廃寺の空白地域 地図の赤丸のエリア、遠賀川流域には、廃寺跡が無い。この廃寺の空白地域は、神道を大事にした筑紫物部氏の故地である。遠賀川沿いに廃寺が無い謎が解ける。 https://gyazo.com/3b73f64ecb218e68b0a95666456ace0a