新説・日本書紀㉚ 福永晋三と往く
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2019年(平成31年)3月30日 土曜日
斉明天皇が筑紫君薩夜麻の母であり、皇極天皇が豊君天智天皇の母であることが分かってきた。また、斉明元~7年と天智元~7年は実は同年代であり、斉明・天智紀に7年のずれがある重出記事の多い原因でもある。したがって、皇極と斉明は女帝ではあるが、全くの別人となる。 同年3月に、唐王朝は、大使の郭務悰や百済佐平禰軍、また捕虜の筑紫君薩野馬ら総勢2千人を47隻の船に乗せて大宰府に派遣した。大使らは大宰府に筑紫都督府を置いた。唐朝の羈縻政策(異民族内部の行政組織をそのままにして異民族を統御する政策)の一環だ。 続いて、書紀の10月記事に、「大きに菟道(香春阿曽隈社)に閲す」とあり、天智は唐軍を閲兵している。天智は決して敗戦国の王ではない。 赤村の琴弾瀧の伝承に、「天智天皇の一行が訪れて、命婦石川色子(日本)と季氏(唐)が滝の岩上で別れの秘曲を奏でた」とある。おそらく唐の将兵らを日本(豊国)の景勝地でもてなしたのであろう。 大海人皇子独立を志す
671年9月、天智は病床に伏す。10月19日、大海人は仏道修行に入りたいと願い、20日に吉野宮(中津市山国町)に、入った。ある人は「虎に翼を着けて放てり」といった。この時にすでに謀反を計画していたようだ。 壬申(672)年6月24日、大海人は東国(平尾台周辺)に向けて徒歩で吉野宮を出た。壬申の乱の始まりである。 近江朝は大海人の東国入りに驚き、大海人に味方し反乱に加わる恐れのある者に使いを出し、近江朝につかない場合は殺せと命じた。筑紫大宰の栗隈王は「大宰府は対外防御の城だ。内乱に兵は動かせぬ」と強く拒否した。この栗隈王はあるいは大海人の実の弟かも知れない。 近江軍と大海人軍は一進一退の攻防を繰り返したが、7月4日、大海人軍は「上道(みやこ町犀川大坂から赤村小柳への道)に当たって、箸陵(赤村内田の前方後円墳)の下で戦い、近江軍に大勝」した。 7月23日、「大友皇子、逃げて入らむ所無し。乃ち還りて山前(小竹町山崎)に隠れて、自ら縊れぬ」。 673年2月に即位。天武天皇である。唐からの独立を得た天武も、686年6月、「草薙劒に祟られ、病床につき」、病が癒えず、9月9日に崩御した。 2019年5月1日、「剣(草薙剣)璽等承継の儀」が執り行われる。 =おわり 百済佐平禰軍(678年没)の墓誌銘。「日本」とある
大原の雪景色。吾が里に 大雪ふれり 大原の 古りにし里に ふらまくは後(万葉集103天武天皇)