新説・日本書紀㉘ 福永晋三と往く
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2019年(平成31年)3月2日 土曜日
飛鳥時代② 日出処天子と蘇我馬子
7世紀前半の倭国両朝
崇峻の暗殺後、豊国の皇位は1年間「完全に空位となった」と推古紀にある。豊国年号では、端政5(593)年をはさんで、推古が吉貴元(594)年に即位する。以後の筑紫王朝を倭国本朝、豊国王朝を倭国東朝と呼ぶことにする。先に、蘇我氏が物部氏総本家を倒した後、遠賀川流域の物部氏が筑紫側に付いたせいか、今日の筑前と豊前の国境へと大きく変化し、倭国本朝(筑紫側)が中心の世となった。
馬子が多利思比孤に臣従した結果、東朝の百済仏教文化が本朝に伝播し、盛んに寺院が建立されたようだ。法興6年(推古4年、596年)に「法興寺(太宰府市観世音寺か)を造り終わった」とあり、馬子の長子善徳が寺司に任命された。また、高麗の僧慧慈・百済の僧慧聰の2人が住職になる。
600年、隋に使者を送った多利思比孤はすでに冠位十二階の制を定めていた。2王朝制をとがめられた多利思比孤は、法興14(604)年4月に、「和を以て貴しとす」や「君をば天とす」で知られる憲法十七条を発布し、倭国の天子となった。
607年、日出処天子の使者は、煬帝を「海西の菩薩天子」と呼び、「僧侶数十人を引き連れて仏教を学ばせようと思ったのです」と言っている。
翌年、煬帝は文林郎裴世清を倭国に派遣した。彼は「竹斯国に至り、東の秦王国に着いた」と『隋書』にある。
法興18(608)年4月に、小野妹子(中国名蘇因高)が、大唐(隋が正しい)の使人裴世清を連れて筑紫(倭国本朝)に至った。この時に鴻臚館(福岡城)が造られた。推古16(608)年8月に、唐の客を海石榴市(行橋市)の巷に迎えた。「秦王国」とは「倭国東朝」のことである。
同年、煬帝の家臣が琉球国から「麻の鎧」を持ち帰った。居合わせた倭国の使者が「これは夷邪久国(屋久島)の人のものだ」と言った。煬帝は結局、琉球国を滅ぼし、倭国(俀国)との国交が断絶した。
617年、隋が滅び、翌年、唐が成立した。『旧唐書』には、「倭国」・「日本国」の2国が併記され、倭国の記事に「冠位十二階の制」が書かれ、日本国は「倭国の別種」とある。
中大兄皇子蘇我入鹿を討つ
法興31(621)年、倭国本朝の日出処天子が崩御した。
推古34(626)年、倭国東朝で権勢をほしいままにした馬子も死んだ。蝦夷が跡を継いだようだ。
推古36(628)年、女帝も崩御した。陵は、みやこ町黒田の綾塚古墳(女帝神社)であろう。
推古の死後、蝦夷は一人で皇位を決めようとし、人望のある山背大兄王を退け、田村皇子を629年に即位させる。舒明天皇だ。舒明は翌年、飛鳥岡本宮(赤村光明八幡神社)に遷る。
641年に舒明が崩御すると、蝦夷の子入鹿が国政を牛耳り、舒明の妃、中大兄皇子(後の天智天皇)の母を皇極天皇として、642年に即位させる。
翌年、皇極天皇は飛鳥板蓋宮(行橋市福原長者原遺跡Ⅰ期)に遷り、この年に入鹿は山背大兄王を攻め、王は自害する。644年、蝦夷・入鹿は板蓋宮を見下ろす甘樫丘(馬ヶ岳)に家を並べ建てた。蘇我氏の権力はついに絶頂に達した。
この間、中大兄は蘇我氏に反感を抱く氏族と語らい、645年6月8日に入鹿を大極殿に閉じ込め、ついに入鹿を斬った。蝦夷も甘樫丘の家で自刃した。乙巳の変である。
次回は6日に掲載予定です
三ツ塚古墳(みやこ町)の図。1号墳(右)が蝦夷、2号墳(中)が入鹿の墓と思われる。2・3号墳は削られて今は無い
現在の三ツ塚古墳
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