新説・日本書紀⑬ 福永晋三と往く
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2018年(平成30年)7月7日 土曜日
垂仁天皇② 任那の帰化人、外交で活躍
香春に3年、敦賀へ
日本書紀の垂仁紀に、卑弥呼が治めた邪馬台国との関わりがうかがえる1人の渡来人が登場する。香春町採銅所にある現人神社の祭神、都怒我阿羅斯等。豊前国風土記に「昔、新羅の国の神、自ら渡り来たりてこの河原に住みき。すなわち、名づけて鹿春の神と曰う」とある神のモデルでもある。
記紀に沿って年代を補った垂仁紀の一節の要約はこうだ。
200年、額に角のある人が越国の笥飯浦(福井県の気比浦)に停泊した。そこを角鹿(敦賀)と名付けた。意富加羅国(任那。後の新羅)の王の子、都怒我阿羅斯等と名乗る男は、日本に聖王がいると聞き訪れた。198年に穴門(関門海峡)で会った伊都都比古に「私がこの国の王だ。私以外に王はいない」と言われたが、王ではないと思い、島々浦々を伝って角鹿に来た。
穴門で会った伊都都比古が崇神の後を継いだ垂仁天皇とすれば、都怒我阿羅斯等は、崇神が死去する直前に穴門に着き、垂仁に仕えて3年後、卑弥呼が共立された年に日本海を東に巡り敦賀の気比に至ったと考えられる。都怒我阿羅斯等がこの3年間に滞在した場所こそ、香春町の現人神社だろう。垂仁紀には、都怒我阿羅斯等と香春との由縁をうかがわせる話もある。
都怒我阿羅斯等は日本に来る前、寝室に置いていた白石が美しい童女となった。喜んだが、留守の間に童女が消えた。足跡を追って海を渡り、日本に来た。童女は難波に行き比売語曽神となり、豊国国前郡に到り、比売語曽社の神になった。
豊国国前郡を豊後の比売語曽神社(大分県姫島村)とする説が有力だが、豊前の香春神社(香春町香春)とする説も古くからある。縁起の一節に「韓地に於ける大姫命の霊は、実に白石の玉と示し給う。しこうして、この三山は、白石幽妙の神縁なり。けだし、上古より、この山に臨座有り」とある。真の倭三山(香春岳)はかつて白石の山だった。「太宰管内志」には「香春ノ神は又比売語曽神社と号す」とある。
卑弥呼の遠交近攻策
香春にいた都怒我阿羅斯等は卑弥呼の側近だった可能性もある。
当時、邪馬台国は南の狗奴国と緊張関係にあった。卑弥呼は後漢書にある近畿の「東鯷国」と友好関係を結ぶため、密使として都怒我阿羅斯等を派遣したのではないか。238年、卑弥呼が魏の帯方郡に使者を送ったのは史実だが、共立された時からすでに外交政策として遠交近攻策を採っていたとも思われる。垂仁紀には、東鯷国が倭国に使者を送った話も記されている。
垂仁紀には、都怒我阿羅斯等と同工異曲の伝説がある。
天日槍が但馬国(兵庫県)に定住した。5代の孫が田道間守である。使者となり、1年を経て常世(豊)国から「八竿八縵の非時の香菓」を携えて但馬に帰国したが、聖帝は死んでいた。陵の前で「おらび哭き」、自死した。
八竿八縵の非時の香菓が、どうやら豊前の串干し柿・つるし干し柿のようだ。田道間守は但馬国と豊前国とを往来したようである。あるいは、卑弥呼は干し柿を大物主神にささげていたかもしれない。
次回は21日に掲載予定です
香春岳の一ノ岳南側にある香春神社
香春町採銅所地区で古くから作られているつるし干し柿
(1996年ごろ。森下重和さん提供)
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