愚管抄_三条天皇の悲運
愚管抄_三条天皇の悲運
一条院は七にて位につかせたまひて、廿五年たもたせをはしまして、卅二にて寛弘八年六月廿二日かくれさせをはしましけり。六月十三日に御譲位、十九日御出家、御戒師慶円座主なりけり。三条院は卅六にて位につかせ給。御母は大入道殿の御むすめなれば、御堂は外舅さういなし。
一条院位につかせ給てのちに、三条院を東宮に立まいらせられけるこそ、いかなりけるにか。当今は七歳にて、いまだ御元服もなくて、寛和二年六月廿二日受禅なり。東宮は十一歳にて、やがてその七月の十六日に御元服なりて東宮にたヽせ給。さて廿五年が間三条院は東宮にて、一条院の廿五年たもちて卅にてうせさせ給ふ時、
三条院は卅六にてまちつけて位につかせ給にけり。それも五年、程なくて、御目にことありて位ををりさせ給て、次の年御出家ありけり。この次第いとヽヽ心ゑがたき事也。されども世の人の思ひならへることは、大入道殿すこしの御はたくしもなく、めでたくはからはせ給けるにや。
九条殿のめでたき願力にこたへて、冷泉院いできてをはしませど、天暦第一の皇子広平親王の外祖にて元方大納言ありけるが、この安子の中宮にをされまいらせて、冷泉・円融など出き給て、広平親王はかいなき事にてありけるを、をもひ死にして悪霊となりにけるにや、冷泉院は御物怪によりて、中一年にてをりさせ給ぬ。さて円融院の御方めでたけれど、花山院の御事などあさましと云もことをろかなり。その御弟にて三条院をはしますを、いたづらになしまいらせんとをもひて、かヽるやうどもは出きけるにや。
愚管抄_三条天皇の悲運
一条院は七にて位につかせたまひて、廿五年たもたせをはしまして、卅二にて寛弘八年六月廿二日かくれさせをはしましけり。六月十三日に御譲位、十九日御出家、御戒師慶円座主なりけり。三条院は卅六にて位につかせ給。御母は大入道殿の御むすめなれば、御堂は外舅さういなし。
一条院位につかせ給てのちに、三条院を東宮に立まいらせられけるこそ、いかなりけるにか。当今は七歳にて、いまだ御元服もなくて、寛和二年六月廿二日受禅なり。東宮は十一歳にて、やがてその七月の十六日に御元服なりて東宮にたヽせ給。さて廿五年が間三条院は東宮にて、一条院の廿五年たもちて卅にてうせさせ給ふ時、
三条院は卅六にてまちつけて位につかせ給にけり。それも五年、程なくて、御目にことありて位ををりさせ給て、次の年御出家ありけり。この次第いとヽヽ心ゑがたき事也。されども世の人の思ひならへることは、大入道殿すこしの御はたくしもなく、めでたくはからはせ給けるにや。
九条殿のめでたき願力にこたへて、冷泉院いできてをはしませど、天暦第一の皇子広平親王の外祖にて元方大納言ありけるが、この安子の中宮にをされまいらせて、冷泉・円融など出き給て、広平親王はかいなき事にてありけるを、をもひ死にして悪霊となりにけるにや、冷泉院は御物怪によりて、中一年にてをりさせ給ぬ。さて円融院の御方めでたけれど、花山院の御事などあさましと云もことをろかなり。その御弟にて三条院をはしますを、いたづらになしまいらせんとをもひて、かヽるやうどもは出きけるにや。