[エッセイ]牛がいた頃(兵庫県但馬編1)昔の但馬牛
2023年7月22日(日)前編。但馬へ行く。浜坂駅からオレンジ色のバスを乗り継ぎ、途中湯けむりの漂う風情のある温泉街を経由して、山の方へと抜ける。山といってもなだらかな丘のような様子で、そこにずっと見渡す限り田んぼが広がっている。遠く周囲を山に囲まれ、とてつもなく広い区画の良い田んぼは、少しずつ段差をつけて重なることで、なだらかな緑色の勾配を作り、但馬地方特有の景色を形成する。 目的のバス停で降りると、真夏の正午の炎天下は溶けるというよりも焦げそうだった。田んぼ道から山道へ。広い景色は暑い中歩いても歩いても本当に目的地にたどり着くのか、地図が示す道を頼りに心細く進む。人はいない。車が一台だけ通る。そのうち柵の中に放牧された子ヤギが現れる。兵庫県立但馬牧場公園の敷地で、一生懸命に草を食べている。子ヤギは熱中症にならないのか、この暑い中でも元気そうだった。
但馬牛博物館へとたどり着く。長らく来てみたかった、日本で2つある牛の博物館の内の1つだ。今回の農耕牛の調査において、花脊や園部各所で耳にした「牛は但馬から来ていた」の謎に迫る。 野田副館長さんに但馬牛の解説と質問に長い時間付き合って頂く機会に恵まれる。野田副館長さんは長年但馬牛を研究されている獣医で研究者で専門家だ。だけど、難しい言葉を使わずにわかりやすく楽しくお話し頂く。
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現在、但馬牛を一言で言うと、兵庫県内で生まれた黒毛和牛で、その先祖が全て兵庫県内の牛だけの血統の牛になります。そのうち美方郡の但馬牛はさらに特別で、美方郡内純血です。現在繁殖用のメス牛は2230頭程います。その郡内純血が100年以上にわたって続いており、貴重な遺伝資源として、但馬牛は今年2023年7月5日にFAO(国連食糧農業機関)より世界農業遺産に認定されたところです。世界農業遺産は伝統的な農業を行う地域の保全を目的としています。 但馬地方の山奥にはイヌワシが飛んでいるのですが、イヌワシとは多様性を象徴する動物で、綺麗な山奥でないと生息できないとされています。生物の頂点となって、ウサギなどの野生動物を食べます。但馬では裏山に牛を放牧することにより、生物多様性が保たれる環境があります。放っておくと強い草だけ伸びて、弱い草は廃れてしまうけれど、牛が野山の草を食べることでみんな平等に育ちます。そういった但馬地方の牛の文化は、どのようなもので、どのように引き継がれているかの話です。
まずはこれまでの牛の歴史から。日本に牛がやってきたのは4世紀末から5世紀くらいと言われています。そこから牛と人間との歴史が始まります。その頃は主に、人や物を運ぶのが牛のメインの仕事になります。牛乳利用の面では、大和時代(4世紀–8世紀初頭)の偉い人が食べていたものの中に、乳製品があり、当時からチーズがあったことも記録されています。
『続日本紀』に、平安時代(794年–1185年)から但馬牛は万用で、車や物の引きや食用に適すという記述もあります。京都の貴族のマイカーを引っ張る牛車の話は、『駿牛絵詞』『国牛十図』という鎌倉時代(1185年-1333年頃)の2冊の牛の見本帳があります。 豊臣秀吉が1585年に大坂城を造った時、石や瓦や資材を運ぶために、各地から牛が集められました。そこで但馬牛がよく働いたという話もあります。もともと但馬牛は大人しくて人懐っこい。牛の中には足場板を登っていく際に、しんどくてへたったり、叩いたりすると暴れて落ちたりする牛もいたけれど、但馬牛は辛抱強く荷物を運ぶので、豊臣秀吉がいい牛だと全国に広めたと言います。
牛が庶民一般のものになり、本格的に田んぼで働き出したのは江戸時代(1603年-1868年)です。特に美方郡の田んぼは山の中で、今は機械が入れるように圃場を整備してるけれど、昔は細長い小さな田んぼばっかりでした。そこで働くためには、小柄で小回りがきいて、人の言うことをよく聞いて、よく働く牛がいい牛です。調教もして。暴れ牛だったらこんなことができません。
それからいい牛の条件は他にも、牛の性格が良くて、おっぱいがよく出て、子牛を毎年産んで育てられる牛でした。体があまりに大きすぎる牛は、たくさん食べるので餌代がかかるからダメ。昔は農耕牛としての役割があったので、性格も選抜の基準に入っていました。牛は選抜を繰り返すことで改良します。そうすると結果的に肉質の良い牛が出来ました。最初から肉質のいい牛を作ろうとしたわけではありませんでした。日本で牛の肉を食べ始めたのは明治時代以降の文化なので。
但馬牛は性質温順なので、子どもと一緒に写真に写っている農耕牛がたくさんいます。
だけど今の牛はそうはいかない。肉さえ良ければ性格はあまり重要視されません。
兵庫県の日本海側、美方郡を中心とした場所でお母さん牛を飼い、種付けして、子牛が生まれたら売ります。子牛は収入になります。生まれた子牛は売り買いされながら旅をしていきます。昔は歩きです。そこに家畜商という役割を持った人が出てきます。
お百姓さんは子牛を買って、そこで1年か2年働かせたら家畜商に売って、家畜商がまた別の場所に持っていき、また買ってもらって、また次に行くといった流れがありました。基本的には近所に売り、流れていきます。各場所場所に家畜商がいて、その場所に牛を広めるような感じです。直接買いに来る家畜商もいるけれど、自分の地域内だけで牛を売り買いする人もいました。
面白いのは江戸時代から、ここ但馬地方は子牛を産ませるところ、他のところは牛を使うところだったことです。但馬以外の地域では、お母さん牛を繁殖用に持っていません。今でも滋賀県の近江牛や三重県の松阪牛があるけれど、流れ着いた但馬牛が、お肉になったのがはじまりです。大津や松阪にはお母さん牛は少ないです。今でも但馬で買った牛を持って帰って、太らせて、近江牛や松阪牛となります。その歴史は昔も今も変わっていません。 それから神戸周辺の三田や有馬の人が年貢を納めに代官所に米を持っていく時、太った牛の背中に乗せて持っていくと、ご褒美をもらえました。お米一俵のご褒美です。それはなぜかというと、太った牛を作れるのは篤農家の証で、牛を可愛がって大切に育てている優秀な農家とみなされたからです。まるまる太った牛を作るとご褒美がもらえるので、江戸時代から神戸の周りの農家は牛を太らせる技術がありました。どうするかというと麦をやります。麦をやると太ります。ここら辺の但馬の農家にはその技術はありません。なぜなら冬になると但馬地方は雪が降るので、米のあとの二毛作ができず、冬に麦を作れないからです。神戸には太った牛が昔からなんとなくいました。三田なんかもメス牛の肥育が上手です。それがそのまま今でも続いています。江戸時代は牛は食べませんけれど。 牛を食べるようになったのは幕末に横浜が開港されてからです。外国人が横浜に来て、肉が食べたいということになり、当時東日本は田んぼの主役は馬です。西日本は牛だった。じゃあ、西日本から太った牛を持ってこようかな、ということになると、牛は神戸にいるので、神戸港から牛を積んで、横浜に持っていき、食べたら非常に美味しかったので、外国人が神戸港から来た神戸ビーフと名付けたのがはじまりです。
江戸時代の牛の大きな仕事はウンチをして、堆肥を作ること、それから田んぼを耕し、荷物を運ぶことです。
牛飼いの技術とは、普段からいかに自分が牛だったらこうしてほしいかな、と牛の身になって物を考えたり、観察力がものをいいます。太った牛が作れるというのはそういう人で、そういう人が牛を飼うのが上手な人でした。
江戸時代の末期になると、香美町の一番山奥の小代という場所に、但馬牛の世界では偉人と呼ばれる人がいました。その人は、いいお母さんからいい娘が生まれて、いい娘からいい孫が生まれる。どうも牛を見ていたらそんな感じだと気付いて、自分が実際に小代の周辺から牛を集めてきて、お母さん牛の娘や孫を地域に広げていったらみんなが豊かになると思い、実践したのです。それが前田周助さんで、同じような特徴を持つメスグループのことを蔓牛といい、周助蔓というメス牛の系統を作りました。昔の牛の改良の主役はメス牛でした。周助蔓がもととなり今の但馬牛へとつながっています。
その蔓牛はどうやって作ったかというと、昔、交通の便が悪かった頃、集落は山あり谷あり、北は日本海、谷には川が流れているので、土地が区切られていました。その川筋の中で牛が代々繁殖されて、似たような牛ができるようになります。隣の川筋では別の似たような牛ができるようになります。その似たような牛のグループが蔓牛です。他にも沢山の蔓牛がありましたが、有名なのはあつた蔓、ふき蔓、よし蔓です。昔は雌の系統が重視されましたが、人工授精が始まると主役が種雄牛に変わります。あつた蔓から出てきた種雄牛が今の土井系、ふき蔓から出てきたのが今の熊波系、よし蔓から出てきたのが城崎系となります。前田周助さんの時代は、学術的にメンデルの法則(1865年)が出てくる前のことになるのです。
明治の末期に国と県の政策で、牛を改良するのに外国種を使いましょうという指令が出ました。もうちょっと大きくて、肉が沢山取れて、乳量も多い方がいいな、ということになったからです。美方郡にも外国種が来ました。ブラウンスイスという大きな牛が来て種付けをしたら、大きな子ができて、一時、雑種ブームになります。普通の牛よりも二倍三倍で子牛が売れる。みんながいいないいな、となったけど、できた子牛を田んぼで使うと、いうことを聞かないし、肉になっても肉が良くありません。なのですぐにブームが終わり、純血に戻していきました。
だけどその雑種ブームの前、美方郡の各村役場は牛の戸籍を作っていました。戸籍簿があったので、雑種と純血が管理されていて、純血に戻す作業が容易でした。全国初の牛の戸籍簿です。明治31年でした。雑種が始まったのが、明治36、7年なので、それよりも前に牛籍簿が出来ていました。そのあとに全国的に牛の戸籍簿を置くようになっていきます。その現物は博物館に二冊だけ残っています。他は役場が統合するときに行方不明になっていったものが多いです。この二冊には博物館周辺の7つの集落の牛が出てきます。
大正10年に「但馬種」と呼ばれる純血の牛ができ、そこからずっと現在に続いています。
あとは、トラクターや耕運機ができると世界がまた変わります。田んぼで農耕牛が不要になるので、役用と肉用の両方だった牛が、肉用専用の牛になります。
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【質問】
質問:博労さんってどんな人なんですか?
回答:博労さんは、昔は商人でありながら、獣医さんもやっていました。
基本的に家畜商は生きた牛馬しか扱わないです。昔はね。死んでしまったら昔は別のものでした。ここら辺の家畜商は、農家に牛を売ります。農家が牛をいらんって言ったら買い取ります。それで儲けます。牛を処分して肉にしたいと言ったら、肉の業者に持って行きます。
質問:農家さんに牛を売る博労と、牛を買い取る博労は一緒ですか?
回答:一緒の場合もあるし、肉専門の博労さんもおったかもわかりません。だんだんと、牛を売ったり買ったりして儲ける人は、家畜商という資格が必要になっていきます。
質問:家畜商の資格はどこから与えられるのですか?
回答:兵庫県から与えます。各都道府県から。ちゃんと講習を受けテストに合格した人に免許証を与えます。
家畜商の免許は昭和24年からできた家畜商法に書いてあります。戦後間も無くの法律です。家畜商自体は江戸時代からあります。一番有名なのは大阪の石橋孫右衛門さん。大阪の大博労で、近畿圏内の牛はうちのとこを通してディベートをもらわないと商売をさせないと言ったりして、天王寺の競市を仕切っていたそうです。養父の家畜商と天王寺の家畜商が裁判をしたという、大阪での裁判の記録が残っています。但馬牛も全部「うちを通さなあかん」って石橋孫右衛門さんが言って、喧嘩になったので。
昔の牛の世界は仁義の世界のようなところがあります。この辺も二大博労の縄張り争いがあったりしました。
今は、ジェントルマンになりました。
質問:但馬の博労の人が牛を連れて旅する時、泊まっていた宿は牛専門の宿でしたか?
回答:人間が泊まる宿の裏に必ず牛の宿がありました。それはどの宿もそうなのではなく、昔は牛や馬の専門の宿がありました。牛宿は、今はないです。牛宿はおそらく江戸時代から。牛の流通経路は決まっていたので、昭和になってトラックが登場するまではあったかな。
質問:但馬地方の人々の基本的な暮らしはどんな感じですか?
回答:このあたりの人は、稲刈りが終わって冬になると雪深い地域なので出稼ぎに行きます。灘や伏見の酒作りとか。一戸あたりの田んぼの大きさは大体50アールぐらいで、母屋の中で牛を1頭か2頭飼っています。牛の収入と田んぼの米の収入と冬の出稼ぎの収入で生活をしていました。ところが減反政策などで米の価格が安くなってきたら、今までの生活ができなくなり、牛を増やすようになって、多頭化が進むようになってきます。多頭化の目的は、子牛を売るためです。農耕用ではなく。今も一頭だけ飼っている家もあります。多頭化する場合は、家の裏に小屋を作って牛を飼うようになります。
質問:家で飼う農耕牛の数はどうやって決まりますか?
回答:牛は大体田んぼが少なければ1頭で済むけれど、牛も1頭だけだと酷使したら疲れるので、田んぼをたくさん持っている人は牛を2頭持っている人もいました。
牛を借りる風習は但馬地方でもあります。お金を持っていない貧乏なお百姓さんは、自分で牛を飼えないので、牛を何頭も持ってる昔でいう庄屋さんなどに年貢(年貢米)を払い、牛を借りた人もたくさんいます。預託(よたく)牛といいます。牛を預かって使わせてもらう。貸す方も子牛を産んだら貸主のものになるというメリットがあるので貸せます。でも、堆肥と農耕の能力は借りた人が使えます。
質問:追い金のシステムが、いろんなパターンがありそうなのですが、どうでしたか?
回答:牛を引き取って松阪へ持っていくのに、肥やすとお金がもらえたということは、借りた牛の飼育代を渡したこともあるのかもしれません。
牛を借りた方が、牛を出すときに追い金を払わないといけない、というパターンもあるようです。タダで牛を貸していても商売にならないので。
使っている牛が老いて、若い牛に変えたい時などは、牛の替え賃に博労側にお金を払う必要もあります。
質問:牛のお墓ってどうしてましたか?
回答:今は牛のお墓は無いです。生きた牛をお肉にするには屠場に持っていくし、死んでしまった牛は指定の処理施設に持っていきます。
質問:食肉の文化がなかった頃は?
回答:屠場が無かった時代は亡くなるまで待ち、亡くなれば集落ごとの牛の墓場に埋めていました。
質問:家族同然に過ごしていたので、人みたいに葬るということ?
回答:おそらくそうです。
質問:その場所は特定できますか?
回答:知っている人がほとんど死んでます。
(野田さんの)自分の村のことは子供の頃の記憶で覚えています。野田さんの村には病気や老衰で死んだ牛の共同墓地がありました。村の人10人くらいの男で、長い竹で出来た大きな天秤棒のバケモンで、牛をぶら下げて担いで運びました。牛は300㎏から400㎏くらいの重さがあるので、1人や2人で運ぶのは無理です。
質問:ただ埋めるだけですか?
回答:牛の場合は、お経を唱えたりしないで、埋めるだけですね。
質問:農耕用の鋤はどういったところが作っていましたか?
回答:鋤を作っているのはだいたい「〇〇製作所」という名前だけれど、今はおそらく残っていないです。
質問:土地の性質と農耕牛の特徴には関係がありますか?
回答:柔らかい土地ならメス牛でも耕せるけれど、硬い土地ならオス牛でないと耕せません。もっと硬かったら馬で耕します。馬の方が力が強いので。関西圏の土地はメス牛でほとんど耕せます。奈良の一部の土地なんかは歯が立たないから、オス牛を飼っていたという記録が残っています。
質問:川で牛を冷やしましたか?
回答:こっちの方では方言で「川出し」といいます。川に行くことです。夏場は暑いから牛は川出しに連れて行ったら喜びます。それでついでに洗ったりして。夕涼みなどもします。ひと夏に数回は絶対していました。
質問:(博物館に展示されている川出しの写真を見ながら)何頭もいっぺんに連れてくるんですね。
回答:あ、そうそう。みんな放牧場から帰る途中で、休憩して帰ります。牛も5、6頭以上いるでしょう。他にも人間がいると思う。だいたい1人1頭も牛を連れますから。
質問:牛を連れてわざわざ川へ遊びに来たと言うよりも、移動中なんですね?
回答:多分放牧場から帰る途中に川に入って、涼んでから家に帰ります。
村の裏山に放牧場があって、そこに牛を出すと自分で草を刈ってこなくてもいいから、労力も省けます。それから放牧すると運動になるので、難産が非常に少なくなるメリットもあります。
この写真の頃の牛は農耕牛ですね。だから、春の田んぼの田植えが終わったらもう牛はすることがないので、あとは山に放り出します。毎日朝に出して、夕方帰って来ます。これが但馬式放牧です。
質問:牧場は囲われていて逃げないですか?
回答:昔は牧柵は特になかったけど、牛は逃げなかったですね。(野田さんの)村には牧柵の代わりにお堀がありました。深さ1メートル幅1メートルくらいの溝です。周囲をみんなで掘って、それが牧柵の代わりになります。けど、博物館の近所の村なんかは牧柵なんてありませんでした。なくても牛は逃げません。
https://gyazo.com/f1d2a1e818d8ee7192b90e1299e08178
但馬の集落の風景
https://gyazo.com/75dc91abd0decf29f8e20c5dc7a3603c
兵庫県立但馬牧場公園内のヤギ
https://gyazo.com/aef560bacd487c09023e8139f4c91ca0
但馬牛博物館
https://gyazo.com/8fa0ad09b773f09137675de2cdde48e0
牛籍簿(展示より)
https://gyazo.com/c78b94f0fe0b25b1c89c71b2db8ea719
あつた蔓系図(展示より)
https://gyazo.com/8eb6e2be4a5b819367c486b19d70317e
但馬地方の川出しの風景(兵庫県立但馬牧場公園但馬牛博物館提供)
※但馬牛博物館野田副館長に多大なご協力をいただきました。
野咲タラ