[エッセイ]牛がいた頃(京都園部編1)
2023年6月20日(火)
人伝で紹介してもらった園部の農家の方に電話をする。早々、電話越しに「丹波の農耕牛は但馬から来て、松阪に行くことは当然知っているか?」と聞かれて驚く。先日花脊で聞いた農耕牛の話と同じだ。だけどその続きを不意に提示される。農耕牛の行き先が松坂で、しかも食肉になるという話だった。農耕牛のその後について、調べていくうちに薄々気付いていたけれど、なんとかそれを否定したく、大きくなった牛はより大きな馬力のいる土地の広くて硬い地域なんかで、第二の牛生を過ごすこともあるのではないかと、その辺を探ろうと思っていたところだった。この仮説は電話よりも直接確認しようと思い、週末園部へと向かう。 2023年6月25日(日)
市内からJRの電車に乗り、園部駅で降りるまで、道中の車窓は田んぼの生き生きとした緑色が視界の先まで広がる景色が続く。その景色を見ながら地面は平らだ、と思うのは花脊みたいに山間地でもなく、交野みたいに住宅地の合間の田でもなく、田んぼだけ、しかもサイズの大きなものが広々と広がるからだ。
電車からバスに乗り換える。園部駅付近は街の中心部で、市役所や資料館など主要な建物が集まる。けれどそのエリアを抜けると、またひたすらに水田が続く中をバスは進む。より近くで田を見ると解像度が上がる。水田の苗は綺麗に均等間隔に植えられている。田の区画により苗の成長具合は様々だ。苗が少し大きく育った田もあれば、まだ植えたての小さな苗が並ぶ田もある。よく晴れた日の下で見る田は水面に反射する太陽の光の効果もあるのか、緑色が輝いている。
Hさんの家に行くと、玄関を入ってすぐの一番手前の机が置いてある客間に通される。大きな昔からのいわゆる日本建築の民家だ。Hさんからお伺いしたお話は、園部の農耕牛の記憶でもあるのだけれど、同時に特徴的だったのは、思想を通した農耕牛であり農業の話という印象だったことだ。以下、Hさんの話の要約。
園部の農耕牛は、水稲、麦作、畑をしながら、1年365日を人間と同じ共同体で暮らす。だから、農耕牛の生活空間は、どのように農耕牛が飼われていたかを実証するもので、つまり間取りが重要だという。で、玄関を入ってすぐの客間用の座敷(つまり今話を聞いている場所)の反対側が農耕牛の部屋だった。農耕牛の部屋が人が住む同じ空間にあって、玄関口のいい位置にあるのは、それだけ牛を大事にしていたからだ。部屋は、牛が居心地が悪くならないように、藁を敷いたりして床を工夫する。藁を敷いた床の下は尿溜になっていて、牛の糞は田畑の大事な肥料になる。
玄関から入り牛小屋とは反対側は、客間用の座敷の隣は、神仏を祀る部屋になる。田の字型の家の造りでは、襖を外せる仕組みになっており、そうすると区切られていた空間が一間になる。そうするとたくさんの客が入れる。そして、家族が普段生活するのは奥の部屋で、そこで寝たりご飯を作ったり食べたりする。
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Hさんの家では、お正月を祝う時に牛にも小さい餅を牛の餌である飼い葉にちょっとだけ一緒にいれた。これは風習とか、儀式というよりも、「生きとし生けるものは一緒」という考え方に基づく。そして人間と牛の関係は、家によって思想が違うとHさんは丁寧に説明する。
家畜を同等だと思う意識が難しいのは、人間より劣るという意識があるからだ。牛を大切にする・慈しむことと、鞭で打つ、使う、使われることを同時にしている。農家は養蚕、豚、鶏など、流行りで生計を立てるところもある。
園部でも昭和30年代後半まで牛がいたけれど、昭和40年になるといなくなるのは、機械が導入されるからだ。全国的にみてだいたい一緒の頃に牛がいなくなる。だけど、田が小さい山間部などの地域だと耕運機が入る道がなくて、牛が長くいたかもしれないということだった。田んぼは、等高線に沿って出来ている。だから山田の場合は段々畑になり、そういう畑は水持ちが良いそうだ。等高線は自然の形なので美しい。農耕牛も平野部と山間部で異なる。田は南北に長く、太陽、日照、水量を調節する。この園部の地方は南が水神ということになる。
農耕牛の使用期間は、田植え前になる。牛は田を梳く、土をこなす、すきかえる。土を細かくする作業をする。トラクターと牛は同じ作業をする。
秋の麦まきの前も使う。二期作は同じ作物を年2回植えるけれど、二毛作だと米(5月)、麦(秋)と別の作物を植えることになる。それ以外は厩に牛がいる。現在トラクターも年2回しか使わない。
そして農耕牛はどこから来るかというと、園部の農耕牛も但馬の牛馬商、家畜商が連れて来ていたそうだ。Hさんは「バクラハン」という言い方をしていた。博労が方言のように変化した言い方だろう。博労は牛を10頭ほど繋いで、歩かせて追う。牛を連れて移動することを「追う」という。
園部にやってきた牛は、3年~5年農耕牛として田畑を耕すために飼われる。牛は歳をとると動けなくなるので、3年~5年で飼っている農耕牛は交換する。交換した後の牛は殺せないので三重県の松坂※へと流れるという事だった。松坂は言わずと知れた肉牛の産地で、丹波から距離が近い。Hさんに気になっていた件、松坂へ行った牛は、大きくなった牛として働くかどうかを聞いてみた所、Hさんも実際のところは松坂に行ったことがないので、わからないという。
農耕牛の主目的は、米や麦を育て、飼い葉をやって牛の糞から作った肥料を田畑に撒く事になり、農耕に不可欠な必須事項なので、選択肢ではない。また、農耕牛それ自体で儲ける訳ではないけれど、中には餌をやって牛を肥やして、追い金を値切る場合もあるという。
農耕牛と一言で言っても、牛にはいろいろ種類がある。雄牛と雌牛と去勢した雄牛。去勢していない牛は闘牛と一緒で危険だそうだ。また、大きい牛というのは、体重が大きい牛と、老いた牛という二つの意味があり、また精神的な老いと、年齢的な老いもある。若い牛は、田の鋤き方を知らないので、教育する必要がある。畝立ては端から順に鋤く。
農家ごとにどういった牛を飼うかを検討する。
Hさんは小学校五、六年の頃に父親に牛の扱い方を教えてもらったそうで、小さい牛なので力もそれほどないので、小学生のHさんにも扱うことが出来たという。手綱を引っ張ったら良い。鼻持ちは牛と人間の呼吸のあり様が現れる作業だという。Hさんは若い小さい牛の鼻を持って、牛に歩く順路を教えていたそうだ。牛の手綱さばきは人によって違うので、手綱の持ち主が変わると牛は暴れることもある。ひと畝を作るのに牛を鋤くために7回で仕上げる。
この辺りは牛は1頭か2頭いる家が多い。牛は田を守る、田を鋤く、田を耕す。
田植えは、5月から6月頃に5、6人を1週間~10日程で終わらせるのが通常である。子供が2、3人いるような手のある家なら作業は出来る。だけど、そうでない場合は、早乙女という季節労働者を、繁忙期に農業の人手の足りない家は雇うこともある。他にも人手のいる農作業には、稲を植えたり、草刈りをしたり、稲を刈ったりなどがある。
以上がHさんの農耕牛の記憶の話だ。
廃藩置県で明治時代の短い間(1897年–1876年)に豊岡県が廃止される時には解体され、豊岡は兵庫県に、園部のある丹波と丹後は京都府に編入される。豊岡は但馬がある地域で、丹波との近さを示す。実際に園部に行ってみると、広い平地に広がる田んぼは、農耕牛と共にがひたすら耕す作業をする人の手間も、山間の土地である花脊とはまた異なったものを想像させられる。 追い金のシステムが、花脊で聞いた話と、園部で聞いた話とでは少し違うような印象である。花脊では、牛は博労から預けられ、3年ほど農家側で飼い、その飼育の手間賃として博労から農家がもらうお金と思っていた。一方で、今回の園部では、農耕牛は一旦購入するようだ。この辺りの博労の商い方法が地域により差があるのかが気になる。
補助線:神様と牛
Hさんは雑学としての牛についても教えてくれる。人間の間近にいる動物には馬でありそれらは同等になる。よく言われるのが牛は南(西日本)で、馬は北(東日本)、この辺は牛になる。時代祭りには牛車が登場するし、天神さんは牛である。 園部にある生身(いきみ)天満宮は日本最古の天満宮で、菅原道真が存命中に建てられたので、その名前がついた。園部は菅原氏が支給され、支配していた土地のため、邸宅もあった。菅原の道真が太宰府に流されることになり、武部源蔵が菅原道真を祀ったことが始まりとされる。さらに不遇の死去で怨霊になり、政変が乱れさせるということで、北野天満宮が建てられる。北野天満宮の神使は牛で、菅原道真と牛については伝承が多くのこるとされる。 また、摩気神社にはお田植え祭りという秋祭りがある。農耕牛を連れて行き、御旅社の周りを3回まわる。牛と一緒に回る時、人は農耕に使う鋤とひょうたわしという道具を一緒に持って回る。現在では農耕牛はいなくなったので、牛を模倣するために二人ひと組で、前の人は角と面をつけ、後ろの人は前の人の足を見る。牛が神に仕え、祭りの一端を担っていたことが、神社の行事として残っている。この地域で人と牛と神様とが一緒に生きてきたことの証明の一つになっている、とHさんの話である。
補助線:トラクターと有機農業
Hさんは有機農業をしている。農耕牛は耕運機やトラクターといった農耕機械が登場したことによっていなくなるけれど、農耕牛がいなくなることは、牛の糞から作られた肥料がなくなることでもある。そのため耕運機と同時に誕生したのが化学肥料だ。だから、農業の近代化とはトラクターなどの耕運機と化学肥料の両方が普及したことを指す。一方で、農業の近代化とは農業の工業化とも言える。その農業の工業化が引き起こした問題、日本の四大公害病のうち「水俣病」は日本窒素肥料、「新潟水俣病」は昭和電工、「四日市ぜん息」は石原産業や三菱モンサント化成など、農薬や化学肥料を扱う企業が含まれている。トラクターや化学肥料によって農作業の効率が上がり、食料の増産が進んだのは確かではあるけれど、工業化の実験台になったのも農業になる。
有機農法にも様々な種類があるそうで、有機農法は有機肥料、例えば石油からではない肥料、骨粉などを使うけれど、農薬は使って良い。Hさんは無施肥無農薬農法で、農薬も使わない。
減反政策で休耕田もしていた。減反政策ではお米が過剰供給されることへの政府の対策で、お米を作らないことで補助金がもらえる。地域でバランスを取り、平等に作付け面積を減らす。田は動かせないので、作付けをする圃場をローテーションすることになる。田を作ることが特権とも言える。Hさんは自分の持つ田んぼのうち、他の田を休耕することで無施肥無農薬栽培を保っていた。
野咲タラ