職業でなく「生き方」としてのアーティスト
TAKRAM RADIO の Vol.185 と Vol.186 を聞いて勇気をもらった。自分の人生にとって大事な考え方がふんだんに含まれていたので、あとから参照できるようにページをつくってメモしておく。
ゲストは中山ダイスケさん。東北芸術工科大学の学長であり、株式会社ダイコンの代表取締役社長。
https://open.spotify.com/episode/4EkbsidwnNJpcQZQ4J4EYm
https://open.spotify.com/episode/34I4XrMyfPEBRwOphLyiM8
こんな人が学長なら、自分も通ってみたいな〜と思った。とても好みな会話だった。
一連のお話の中で語られる「デザイン」はおそらく「工夫」くらいのニュアンスで言及されていて、誰もが工夫を取り入れながら生きているんだから、みんなデザインをやっているよね、という話に聞こえた。
「職業」ではなく「生き方」としてのアーティスト、という Vol.186 のエピソードタイトルにもなっている視点は、今のぼくにビビッと響く。これは小説家になる/ならないというより、やる/やらない程度のことや人と行為の固定化は分断のリスクをはらんでいるなどで繰り返し扱ってきたことでもあるし、最初に名前を名乗るようにしているというぼくのスタンスを肯定してもらえた気もしている。
上手だからやる・下手だからやらない
得意だからやる・苦手だからやらない
役に立つからやる・役に立たないからやらない
意味があるからやる・意味がないからやらない
…のような軸から開放されて、ひとりひとりが「楽しいからやる」的な手の伸ばし方をできるようになれば、あらゆることがもっともっとハッピーになれるのに、と思う最近。子どものころに「足が遅いから体育はきらい」とか「ピアノの練習が厳しくて楽しくなかった」なんて気持ちになった人が、大人になってから自分の意思でそれらと再会したとき、ただただ「楽しむためにやっている」を成立させている。イヤになって離れてしまっていた時期はもったいないのではないか。
中山ダイスケさんには、とにかく「専門の箱から、デザインやアートを解き放ちたい」という強い動機があるように感じられた。初学者や入門者を寄せ付けない閉鎖的な雰囲気が強まるとその業界自体が痩せ細っていくってのがあって、それの逆をやりたいのだろうなあ。
日本に足りないのは「めっちゃ楽しそうにサッカーをする下手なおっさん」 欧州で目撃した、勝利(とビール)を真剣に目指す大人たち - 海外サッカー - Number Web - ナンバー
「街の中の芸術、生活の中の芸術」という文脈だと、これも TAKRAM RADIO で知ったミュンスター彫刻プロジェクトや直島の話を思い出したりしたな。アーツ・アンド・クラフツ、民芸、民具といったトピックともつなげられそうだ。このあたりはこれから掘っていくところ。
元気な街って話の中で黒磯の SHOZO の話が出てきたときは、那須塩原市に住んでみた人間としてただただ誇らしく、うれしかった。あそこの通りはおもしろいよねぇ。
『コ・デザイン』をあらためて読もうかな、という気持ちがわいてきた。
hr.icon
自分用メモ
聴きながら書き殴った、整理する前のやつね。
東北芸術工科大学
実務をやっている教員が多い
地方の芸術大学、町の人たちに啓蒙する
町の中でプロジェクトをつくったり
株式会社ダイコン
6人の会社、アートディレクション
築地本願寺の案件をやっている
カフェ、お坊さんの選書
食料品のリ・パッケージ
ドレスコードみたいな、デザインコード
山形のものを東京の百貨店で売るとき、デザインコード
生産者と百貨店の間の、通訳
広告の仕事は受けていない
デザイナに頼んだことのない、という人との仕事が多い
築地本願寺、400年の間、デザイナに相談したことがない
デザインの仕事に学生を巻き込んでいる
コンペで負けたプレゼンを学生に見てもらう
学生が課題に挑めるようにしている
理論のあとに実践じゃなくて、並行してやる
学生のうちから、市民の目に触れるようなデザインワークに関わっていく
山形県というおもしろさ
東北にはナチュラル・クリエイターが多い気がする
山形県、課題先進県
仙台に憧れがち
そこから脱却した方がいいよね、という話
世田谷区の人口に抜かれそう
強い政治家が出てこないと道路がつくられない、みたいな昭和な思考だけじゃなくて
そこの人々が工夫をやっていけるように、そうやってできた大学
デザインショップも広告代理店もない
都会ではない地域におけるデザイン・アート
山形にしかない風土などなど
アーツ・アンド・クラフツ運動
宮沢賢治、農民芸術概論
SHOZO ストリート
june29.icon ふつうに聴いていたら SHOZO の名前が出てきて、ワイ歓喜
山形、卒業生がカフェを開いて地価が上がるほどの成果
大学の数が多くない、ひとつの大学を街が大事にしてくれる
「みんなでつくる」をどのように実現する?
フェーズ 1
丘の上に謎の芸術大学がバーンと出現した
都会からやってきた人々が、よくわからんことをやっている
フェーズ 2
この地域を題材にしよう
街の人から見ると「デザイン?アート?」
フェーズ 3 (現在はここ、という話し方だったかな)
第二期の反省
街にあるものを題材にそれの見せ方を示すアートとか
歩み寄っていく感じ?
街の人の方が詳しいようなこともたくさんある
学生が作品を自分のおじいちゃんに説明する
わかるように工夫する
壁も塀もない、開かれたキャンパス
山形県は、都道府県で唯一、県立美術館がない (と聞こえたけれど june29.icon は裏取りしていない)
財団が運営している美術館はある
山形美術館 - Wikipedia
大学がアートセンターの役割も担う
美術大学・芸術大学の未来は?
政治家など、意思決定層が芸術を学んでいてほしい
アート・デザインを必須科目とする大学がいくつも出てきた
芸術大学というカテゴリはなくなればいい
いろんな領域で、教養として修めればいい
「工夫」は誰もがやる、専門家が独占するものではない
入試で絵を描かせないことにした、インタビューを重視している
世の中の見方、世界との付き合い方を学ぶ
最適解ではなく別解を提示できる人を育て、社会のいろんなところに送り込むことを目指している
それが東北芸術工科大学
美大・芸大における、古典的な「勝ち組・負け組」みたいな捉え方
絵を描く、なにかをつくる、ライフワークでいい
どこに就職したか、だけじゃない
「明日、つくりたいものがある」ってのがすばらしい
東北芸術工科大学は、就職率が 90% 超え
就職したら負け、という価値観にしない
渡邉康太郎さんのお義母さんのお話
ずっとあたためてきた物語、児童書を執筆している
職業アーティストだけじゃない
「つくりたいものをつくりつづけられる生活」をデザインできる人になってほしい
東北、そういう人が多い
ニューヨークでの話
郵便屋さんが詩を持ってきてくれた
自分の家をきれいに飾っているおばあちゃん「わたしはアーティスト!」
みんなアーティスト
それが馬鹿にされない
卒業生には、そうやって胸を張っていってほしい
生き方じゃなくて職業がアイデンティティになっている
そうなっている日本人は、少なくないかも
「絵描き」とか「酒飲み」とかがアイデンティティでいいじゃん
子育て中の人もたくさん工夫をやっている
「何者でもない主婦で」なんてこともない
お取り寄せが届くのを待っている時間、いい音楽を聴いている時間と同じ
小沢健二
君が作業のコツおしえてくる 僕の心は溶けてしまう
母を美術館に連れていくと、素直な見たまんまの感想を言う
アートを正確に伝えよう、だけじゃなくていい
自由に感じていい
ひとりひとりがアーティスト
学生ひとりずつがメディアになって、アートのことを伝えていってくれたらうれしい
その先にどんな世界がある?
大学のことを説明する機会、意外と少ない
整理する機会になった
今あるものを活かす建築、とか強み
生き方としてのアーティスト
デザイナひとりがバーンとやってもプロジェクトはうまくいかない、納得されない
ともに考え、ともにつくる、という伴走スキルが大事
マンズィーニ: デザインってのは歌を歌うようなこと
誰でもできる、やっている
主体性をもって関わったときにそこに顕現するもの
デザインを専門の箱に閉じ込める
素人さわってくれるな、と高いところに置いておく
業界が苦しくなっていく
各位が、自分の工夫にもっと自覚的になるとよいのでは?
「うまさ」を唯一の軸にしない
もっとうまい人がいるから、をやらない理由にしなくていい
「上手だね」しか褒め方を知らないと、上手と下手の世界に引きずりこんでしまう
声かけのバリエーション: おもしろいね、きれいだね、たのしそうだね
足の遅い同級生が陸上部に入った「走るのが好きだから」
他者の表現に対する解釈にもクリエイティブを活かせる
学生の作品のほめかた、開発中
学生同士で批評、講評しあう よくやってもらう
教官から一方的にフィードバックするだけではない
学生同士で盛り上がって、教官の出る幕がなかったりする
国語・算数・理科・社会・デザイン
子どものころに「これは楽しくない」「これは苦手」となると可能性が閉ざされる
世の中の問題は、科目にわかれて訪れてはくれない
シュタイナー、モンテッソーリ
「経済格差」よりも「柔らかい教育を受けたかどうか」の格差の方が深刻では?
まわりの人をやわらかくできる人、それがデザイナ