カルトからは逃れられない
宗教というものが世界各地で同じように存在するということ
進化論的に、なぜ宗教が発生したのか、というのはとても興味深いトピックスです
宗教という言葉をなにかを揶揄する目的で使用することが多いので、それについては注意が必要
言葉に対する繊細さを捨てないこと
宗教とは何なのか理解できているのか? という意識、重要
よくよく考えてみると、広い概念として宗教で、その中で異端だったり過激だったりしたものがカルトってことなのかなあ
といってもカルトかどうかの線引きってすごく難しそうで、自分からしてみれば夫婦別姓とか同性婚に頑なに抵抗を続けているどっかの党はカルトだと感じるし、一方で自分のことも誰かからすればカルト的に感じる側面があっても不思議ではないのでは 統治に抵抗を感じるのは、自分の考えと違うことを押しつけられることに対する不快感が源泉なのかもしれないが、多数の考えを持った構成員からなる集団に属している以上、100%自分とシンクロしたコミュニティにはならないだろうし、なったとしてもそれはそれでメチャ気持ち悪い感じもする
そこのバランスもすげー難しそうで、自分は結局のところ30代のコンフォーミストのおっさんていう割とマジョリティの側に立っているせいかもしれないが、何かをラディカルに変えたいというモチベーションはないし、自分がこれが正しいとおもうことでもそれが他人にとっても同じように受け止めてもらえるのかは甚だ疑問とおもいながら生きているので、例えば「婚姻は生殖の保護のためのシステムです」ってのにえーって感じるけどその感情を誰かに押しつけようみたいな気概がない 100分de名著の太平記の最終回でめちゃめちゃ感銘を受けたのが「文化というのは、文で化成するが元になっていて、この文というのは加飾することで、化成とは変化によってよりよいものにすること」なんだという 例えで挙げられていたのが満天の星空を見上げてもただの粒々だけど、そこに星座というツールを持ち込んだらそこに形が見えてくる、そしてこれが「天文」という学問なんだと
この世界では、ひとつの生命体の認知能力ではとてもまかないきれないぐらい大量の事象であふれているが、そこに意味を見出すのは結局のところ世界を認知している生命体(自分)なわけで
その定規として何を使うかというのが難しいところで、人によってはこれが宗教なんだろうけど、自分は文化なんだとふとおもった
それすらも宗教なんだと言われると何も言い返せないが...
吉田茂の国葬の際にも政教分離だったりなんだりで反対の声はあったらしい その前までは天皇の意向で国葬するっていう仕掛けになっていたので反対すらできない状態だったらしい
それが国家神道ってやつなんかなあと
そういう意味では安倍晋三の国葬に賛否が分かれるというのは明治には戻ってないということだし、逆に戦後からは何も変わってないということでもありそう 宗教という言葉自体は、人間を超越した存在を信じて、なんらか行動したりすることらしい
それだけみると全体主義とメッチャ相性いいんだなと改めて そして教団みたいなのはえてして家父長的な世界観を持ってたりするので、頂上にいるのが教祖なのか総統なのかというぐらいの違いしかないのでは