九条良経
〈日本大百科全書〉
早く政界に入ったが、1196年(建久7)父関白 (かんぱく) 兼実の失脚に際しても九条家のうちひとり朝廷にとどまり、近衛家執政のもとに累進して摂政、太政大臣に至った。その女立子は順徳天皇の中宮となった。すなわち東一条院である。しかし良経は元久3年3月7日父に先だって頓死した。 一歌人一首しばりのところを二首選んでいたり
故摂政はたけをむねとして諸方をかねたりき。いかにぞやみゆることばのなき歌、ことによしあるさま不可思議なり。百首などのあまりに地歌もなくみえしぞ、かへりて難ともいひつべかりし。秀歌あまりに多くて両三首などはかきのせがたし。 略歴(途中)
嘉応元年(1169)
一歳
十一歳
二十歳
兄良通の急死。
文治五年(1189)
二十二歳
歌壇的詠歌活動の本格化
建久二年(1191)
二十三歳
建久三年(1192)
二十四歳
建久四年(1193)
二十五歳
建久七年(1196)
二十八歳
建久九年(1198)
三十歳
三十一歳
正治二年(1200)
三十二歳
三十三歳
建仁三年(1203)
三十五歳
元久元年(1204)
三十六歳
教家本には、もっとも新しい歌『北野宮歌合』(元久元年十一月十一日)と、十一月二十五日発病し三十日に死去した藤原俊成・慈円らの加点が存在するため、成立は元久元年十一月十一日~同二十四日と推定される。〈日本古典文学大辞典〉 元久二年(1205)
元久三年(1206)
三十八歳
三月七日、睡眠中に急死。
参考
「九条良経」日本大百科全書
2021-10-24 16:37