死亡フラグ
死亡フラグ
さてここは、「『死亡フラグ』についての、ニコニコ大百科」的なページである。
そこに書いてある通りなんだけど、それを物語er的に書いてみる。 すると、結構重要な要素として出てくるのが、「主人公のことはまだそんなところでは殺すことはできない」という、すごく重要な「物語上の要請」という要素の存在だ。 例えば、戦記と名の付く連続アニメの序盤で、まだ若い主人公が英雄戦争に参戦するとする。 そうするとやっぱり、跳んだり跳ねたり、戦争、というか戦闘シーンってなんか格好良くなってしまう。 もちろん、戦争は悲惨なものだし、そこにいる誰にも、死はひとしく近くにある。
しかし、物語の主役として配された者は、まだそこでは死なないのだ。少なくとも次の巻のアニメビデオのパッケージイラストに同じ主役のイラストが描かれているなら、この戦いで死ぬということは起きてない。 戦争を美化して語るのは、あるいは「戦闘の楽しさ」を描写してしまうのは、物語の作り手として避けたい事態なのだ。なぜなら、物語作りの現場は安全な場所だから。 別に、戦後日本のGHQ教育ということだけでなく、安全な場所にいて戦争を称揚するのは、人間の美意識からしても引っかかりを感じるものなのだ。
しかし、主人公は(まだ)殺せない。
そして、ただのモブが死体として描かれても、おそらく視聴者(読者)には響かない。そこは残念ながら、「物語」というメディアの限界だ。視聴者が同一化している人物か、思い入れのある(感情移入した)人物の死でなければ。 そういったギリギリのところで、「主人公が参戦した一兵士と会話して『俺、この戦争が終わったら、ずっと付き合ってた恋人と結婚しようとおもってるんです』と言われる」みたいなシーンが挿入される。
そう。意味があるのだ。意味があり、意図した効果がある。
ここで、「では主人公でなくとも、その人に近しいキャラが死ぬという展開はどうか?」という発想はありえる。しかし、同じく近しいものもまた、殺されにくいのだ。
彼らは、後々、方針の違いから反目したり、主人公と恋仲になったり、師弟の絆や、自己犠牲のシーンを演じたりといった、物語に要請された、より大きな役割があるから。
絶対神(作者)によって生かされる。
結局、古くからいる人ほど死ににくく、ポッと出の人の死で、悲劇性や悲惨さを表現していくことが起きやすい。 三国志(演技)なら、関羽が死に、張飛が死に、劉備まで死んでも物語が続く。 これは、思いを継ぐ者の存在もながら、(悪役となった)魏 v.s. 蜀という、巨大国家同士の対決の構図のおかげで、蜀勢力全体が主役、という感覚を持てることが大きい気がする。
それでも、「将がみな小粒になってしまった」という感慨は生まれるだろう。
とはいえ、戦争は美化されずとも、「戦闘」は美化されてしまっているが。
あれの要請は、「信念や思想のぶつけ合いを絵的に見せる」ということなだと思うけど。 だから、信念の強さが戦闘力になり、信念の正しい方が勝ち、しかし、負けた方もその善戦により、信念の強さと人格の高潔さは認められる。
現実には肉体同士の戦闘だって、ごく物理的に強い方が強いわけだから。信念の正しさとは関係なく。