戦争は退屈だ。非常事態も。
昨年は、何も無かった。
一昨年は、何も無かった。
その前のとしも、何も無かった。
そんな面白い詩が、終戦直後の或る新聞に載っていたが、本当に、いま思い出してみても、さまざまの事があったような気がしながら、やはり、何も無かったと同じ様な気もする。私は、戦争の追憶は語るのも、聞くのも、いやだ。人がたくさん死んだのに、それでも陳腐で退屈だ。 ⇒私の人格形成には、戦隊モノは確実にあるし、横山光輝三国志も確実にあって、思春期や中二病期にはファンタジーのラノベの戦記的なものもすごく読んでいて、だから「戦争のある世界でドラマチックに英雄の人生を生きてみたい」というある種の言葉にならない欲求みたいなものがある。 でも、実際には、戦争になったら私のような庶民はあっさり死ぬ。
生きてられて、英雄だとしても、退屈なのかもしれない。
「最優先事項」がいつも頭の中にどっかりとある状態では、気晴らしの幅も小さくなるし、そもそも不安が大きすぎて気晴らしも不完全になるはずだから。 これは別に、当時の日本の、
情報統制とか、愛国心教育・非国民圧力とか、配給制度とかそういう直接的なことだけが原因ではないのだと思う。