影とのたたかい
影とのたたかい
(ページタイトルは、ゲド戦記のタイトルの一つが頭にあって思いついてしまったわけだが、その感想を書くページとして立てたわけじゃない。
生きているあいだ、私の頭の中にへばりついている、ある種の面倒な自己イメージについて書きたい)
何から話そうか。
人生は旅だ、とか人生は戦いだ、とかそんな言い方がある。それは戦いのメタファーがいかに物語として強力か、ということではあるんだけど、そういうことだけではなしに、何か生きていて頭の中に立ち込めて覆いかぶさってくる感情が私にはある。
「戦い」だなんて男の私が言うと、「何と戦ってんだよ」というツッコミが女性から入るのは、昔のジェンダーでは定番のポジションだったかも。「君を守りたい」と言って、「何からだよ」みたいな。
それくらい妄想じみては いるし、私の強迫観念みたいにはなっているのだけど、それが必ずしも私一人でもないようには思う。
例えば
〈!↑書きかけ↓!〉
BUMP OF CHICKENの曲、『sailing day』のPV(youtubeでも見れた)を映像なんかを見ていくと、2:00分のあたりで、歌っている主人公達が黒ずくめの悪者達に取り囲まれて銃を突きつけられる。その中で、「くそう、苦しい状況だろうが、俺たちは歌うのをやめねーぜ」という姿を具現化したような映像になる。
まあ、黒ずくめ達は、冷静に考えれば警察から逃げるために人質として主人公達に銃を突きつけているのであって、「おい、歌うのをやめろ」とは劇中で言っていないと思う。歌を止めたいなら、遠くから黙って撃てばいいし。
ただ、作中(映像中)全般で、「向かい風の苦しさ」を可視化するかのように、色々なものが主人公たちに向けて浴びせられていくことと合わせて考えると、やはり「自分が何かしようとすると、なんだか知らないけど、なんだか分からない恐怖や嘲りやそんな気持ちが湧き上がってきて、自分の邪魔をする。でも、そんな苦しい中でも自分の生命力の根っこは歪めずに生き抜いてやる」というイメージを映像化する中での、「まとわりついて邪魔をしようとしてくる、悪者」なのだろうと思う。
そして、私にとっての人生も、ただ生きているだけで、そんな感覚を常に持っている。
敵が自分の中にいる。
そんな内側での自分との戦いをするだけで精いっぱいで、外側の現実の世界に貢献していく余力が残らないくらいへとへとになる。
別に、戦争も起こらない、こんなに平和な国で。
だから、「人生は戦いだ」という感覚は、なんだかんだ馴染みがある。
家を出るときには、「七人の敵がいる(七人の敵あり)」というような勇気を呼び起こしていたし、まるで「出頭する」ような緊張感で職場に向かう。
そんな、自分にまとわりついてくる感情は、恐怖だけじゃなく、怠惰であったり、疲労であったり、惰性であったりする。
嫌われたくないとか、怒られたくないとかだったりもする。
「どうせ」とか諦めの気持ちだったり、逆に有能に見られたいとか、悪しき完璧主義だったりする。
そういったものに、負けたくない。
脅かされるなら、目にものを見せてやりたい。
抜け出したい。自由になりたい。自由を手に入れたい。
そう、そこから、単に楽になるための工夫ということだけでなく、ある種の高潔さのようなものも自分のどこかに感じられて、それで少し頑張れる。
そんな思いの中で、今日も生き残ろう。
それ以上のリードを稼いで、勝ち上がりに近い戦果をあげられたら、なおさらいい。
この感情は、どこからくるのだろう。『サピエンス全史(上・下)』的な、臆病な(不安になりやすい)サルの種から進化したからだろうな。
そんな私が、『ホモ・デウス(上・下)』的な、拡張して、幸福を追求するという発想に近づくのは、いっそ当然な帰結かもしれない。
タグ 僕の内的規範、知的生活者の幸福と道徳、絶望、虚無感、無力感
from 20181108-20181109