僕の内的規範
妻さんと、「独身でいると、世間からあれこれ言われるから、結婚して子供を産んで、『もう、これで何も言わせないぞー!』みたいなことを考えたことがある」 か?
という話をしていた。
まあ、引いて見ると、「女の人って大変ですね」という話題なのだけど、
(ちなみに、妻が最近『コンビニ人間』を読んだので、そういう「普通にしていないと世間が色々言ってくる」という話題になったのだと思う)
しかし、私だって同調圧力は嫌いだし、「女」ではないとはいえ、オタク(から普通を擬態しながら生きている)ではあるから、そういうことを強く感じていないのは不思議と言えば不思議だと思えた。
ここで例えば、私は「結婚せねば」「子を残さねば」「私のせいで今まで続いてきた血脈や遺伝子や家系を途切れさせたくない」というような重い制約を感じて生きていたことはある。
また、「女らしくしてろよ」と“言われた”ことはないけど、他方で「男は男らしくないとモテないんだろうなあ」と思ってはいたと思う。
そういう意味で、私にとって私自身の自責の声は、世間が実際にかけてくる声よりも、はるかに強い強度で私を縛っていただろうということは考えられる。
自責の念 > 神の存在・神の感覚 / 運命の感覚 ≫ 世間からの声 > ありのままの自我
こんな感じだろうか。
自責の念=自分の倫理観=私の正義感
ということでもある。
私の価値観に照らして、共同体に対して破壊的であるわがままを振り回している存在は、私が殺すとしてもいいし、
私の倫理観に照らして、政治を迷走させるほどの無知である大衆は、私が殺しても大義があるし、
自分の感じる基準にそぐえないのなら、私自身が生きている資格がない、と感じる。
いいか悪いか、ではなく、意見や感想をもし くださるのなら、生きづらそうであるか否か、とか幸福になれるかそうでないか、という視点で見ていただけるとありがたい。
タグ 宗教心、正義、超自我、規範の内面化