2024/2/1-2024/2/5
▷あるいは、まっすぐ下ろした腕と地面の間に長さがおさまるような、ゆる折りたたみ傘というジャンルがありえるだろうか。
膝→肘
▷肘を曲げ続けて体の前側に持ち上げてキープするか、傘の先端に車輪でも付けて、引きずるインセンティブが働くようにするか?
▷しかし、傘の取手のやや付け根部分をつかみ、燕尾のように、ななめに傘の長さをやや後ろに逃すような持ちかたをしている場合でも、ちょっとでも腕が振れると、やっぱりあぶない。
▷たたんだ傘を持って歩くとき。 傘の中ほど、身ごろのところをグーにつかんで腕を振ると、水平に石突きが突き出されて論外に危ない。
▷っぱ、ノーリスクしか勝たんわ、挑戦とか投資とか心の健康にわるいよね❗️まあ古いまとめだけど。>ネトゲ運営したけど『リスクを許容し、勝利を目指すプレイヤーは全体の5%にも満たない』……ゼロリスクで長時間、同じ作業を繰り返すファーミングプレイヤーが殆どだった togetter.com/li/2096779
▷「ホエイ豚」って、なかなかの違和感
⇒「そりゃそうやんなあ」という感想になる。だけど、逆にそれがそうじゃなかったというのなら、それまではどうだったのか、という話なんだろうな。
⇒公私は無理に統合しなくていいの話とか、対蹠人とのコミュニケーションの話とか。 リベラルな理論家は通例、そうではない。(ページ84/107)
⇒w
《感情教育(sentimental education)》ふむ。
⇒これだと、日本のニュース報道の、「卒業文集」や、センチメンタル報道にも意味があることになってしまうな。
sentimental
1 someone who is sentimental is easily affected by emotions such as love, sympathy, sadness etc, often in a way that seems silly to other people
2 based on or relating to your feelings rather than on practical reasons
A sentimental person is strongly influenced by emotional feelings, especially about happy memories of past events or relationships with other people, rather than by careful thought and judgment based on facts:
『アンクル・トムの小屋』
現在では黒人の描き方が
ステレオタイプだとの批判もある本ですが、こうした黒人奴隷の悲惨さや悲しみを描いた小説がなければ、その後の奴隷解放や公民権運動につながる流れは生まれなかったかもしれません。(86)
・p74に、ヘイトスピーチに関連することが書いてあり、攻撃させたい希望がなかったとしても、危ない引き金になってしまう可能性について書かれている。
⇒ところで、このメカニズムから考えると、「安倍死ね」的なものも間違いなくヘイトスピーチたりうるよね。「権力勾配の下から上への向き」であっても、ヘイトスピーチはヘイトスピーチ。だって、殺せちゃうもん。その手段はあるのだから。体格差や立場差に関係なくそれができるような方法は。
⇒まあもっとも、政治家、というのは、デスノート的欲望の結果として、何ひとつ扇動されなかったとしても、「殺していい対象」とは思われがちだけどもね。
⇒目の前に、体温のある肉体があって、そこに刃物を突き立てられるか、といえば無理だけど、たぶんパイプ爆弾を投げつけるとかそれくらいだったらたぶんできてしまう。
人口に膾炙した箴言にある通り「君は戦争に興味が無くとも、戦争の方では君に興味を持っている」のだから。
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日本語の書字の困難さは読書の効率化に寄与してる。
「褒め上手な人」とは、今目の前にいる人の「〇」を見つけることができる人やと思います。褒める行動は行動レパートリーに注目されがちですが(どんな技やフレーズがあるかなど)、褒める行動の刺激性制御がとても重要。
そして肯定的な眼差しを受けたその人が良いところを伸ばしたり、良いところが増えたりしたその後で過去を振り返り「今振り返ると、あの時が✕に見えてくるね」というのが「〇からx」。
これなんですよ、皆さん!この視点がないと、目の前の人を永遠に否定し続けることになってしまうんです。
望月先生が仰っていた「〇から」というのは、今そこにいる目の前の人を肯定するところから始める、その人の良いところに着目する、その人の少しでもマシなところに着目するという意味。行動分析学でいうところのシェイピングですね。
「xから〇」というのは、相手のダメなところをあげつらって、そのダメなところを良くしたり、少しでもマシにしようという目標を設定するスタイル。
言い方がちょっときついですけど、学校教育においては、ほとんどがこのスタイルで目標設定していると思います。
自分が大学院生だったとき、集中講義の講師としてこられていた望月先生が「対人援助においては、相手をから〇にするのではなく、〇から✕にするんだよ」と仰っていた話を最近よく思い出す。初めて聞いた時は「このおっさん何言うてるんやろう」と思ったけどW、今の自分には金言である。
自分が大学院生だったとき、集中講義の講師としてこられていた望月先生が「対人援助においては、相手をから〇にするのではなく、〇から✕にするんだよ」と仰っていた話を最近よく思い出す。初めて聞いた時は「このおっさん何言うてるんやろう」と思ったけどW、今の自分には金言である。
何やって生きてても、生きて、人生が終わればわり、というか。
そういうとこ、マクルーハンって馬鹿だなあって思う。彼は、その馬鹿力が、いいとも言えるけど。
マクルーハンが『グーテンベルクの銀河系』で表音文字は表意文字に優るから西洋文明は中華文明に優るとか言っててもによる。
「もてる」「もてない」というのは、人が、汎化を受け入れた後にくる。
「童貞」は性によって汎化される。
こうしたことは、汎化への恐怖がまずある。
面のいい人や頭のいい人に憧れる・嫉妬するという心性は、一般的ではあるが、ゆえに、汎化の結実でも、あって、僕のように、汎化それ自体を恐れる人間には、薄気味悪い。
「就職氷河期」の人の社会への不満は理解もできるが、僕らの世代は、就職できなかったら、それはそういうもんだし、自分の人生は就職に距離をおきたいという感覚はあった。
桐島聡は僕より3つ歳上で、でもここ全共闘世代後の大きな断絶がある。
とはいえ、反資本主義のある感覚の連続はあって、反資本主義なんだから、金なくても生きていこう、といった感覚は共有してる。
相手の「最善の相」に付き合うという態度を常に取り続けることで、その相手に現在の自分の至らない部分を勝手に自得させてしまうタイプの教育者、おられますね。私にとっては松澤弘陽先生がこのタイプの理想型かな。
別にそんなことは一言も言わないんだけど、「(今のあなたは本当に本来あなたがそうあるべきあなたなんですか?)」という心の声の「圧」をこちらが勝手に感じてしまうタイプ。ある意味で究極の権力。
初めて子供が産まれたとき、すごくびっくりした。
嬉しいというにもあるんだが、自分が契機で人間が生まれるのかという驚愕。その後3回あり。四人成入し、自分から離れて、再び、自分自身に向き合うようになった。なんだろう、人が産まれる世界なら、人も死ぬだろうし、自分も死ぬんだな、この流れで。
コロナ騒ぎで、どうしても引っ掛かっているのが「このウイルスの人造説」で、残念ながら、自分にはこれを判別する能力がない。これは、どっちでもいいと看過できるものでもない。陰謀論かすらわからない。
「米国のリベラルは自らが理想とする社会改革を推し進めるため裁判所に依存し過ぎた。このようなかたちで司法の力を梃子としてきたリベラル文化左派への反動として米国で「何が生み出されたのか」は贅言を尽くすまでもないだろう。
渋谷とか立川とか、駅前に立つと異世界感がある。
新宿は、世界は終わった感がある。高田馬場の駅前は、なんかほっとする。
そういう意味では、いかに面白かろうが源氏物語は絶対許さん!という儒者みたいな人の方が一貫はしているのである。
(現在から見ると) 有害なステロタイプに満ちた過去の作品について「別様の読み」の実践を提示していくタイプの論者が、現在の作品におけるその手のステロタイプを非難しているのを見るといまいち釈然としない。古典には適用される解釈的慈愛を現代の作家に及ぼさないのはただの権威主義なのでは。
日本では平均余命も長くなっているのに、若い人は浪人もやりにくくなっているし、やれインターンだ就活だと休むことなく最短時間で社会を目指し、社会は履歴書の空白すらも認めてくれません。若い人の問題というよりのんびりすることを許容できない社会に問題は大きいと感じます。
この世は単一のルールでは記述できないから、この縛りのなかで生きる人にも同情するし、外に出て勝負した結果破れてゆく人にも同情できる
そういう仕事や企画がないから脚本家がオリジナル作品を書けないという話
PVのためにはGoogleの広告収入に頼らないといけないから自由に発信できないみたいな話に似てる
鍵のかかっていない老獄だけど外では生きていけないから出ていけないといったような
日本語に主語がないという指摘について、岡道男が面白いことを言っています。例えばギリシャ語では、人称代名詞を省略しても動詞の語尾変化により「私・あなた」を明示できるのですが、日本語では敬語法がそれを兼ねているように見えるというのです.確かに「召し上がる」の主語は普通は二人称です.
一人称 いただく
二人称めしあがる
三人称たべる
政治改革大綱については、字面だけ読んで「いいこと書いてあるじゃん!」という人と、金権腐敗批判が選挙制度改革へと水路づけられていくまさにその過程から生まれた妥協の産物として読み込める人とでだいぶ評価の仕方が違うというのは思うところです。
自らの主張貫徹の障害となりかねない「リベラルな諸原則」(適正手続や表現の自由その他)が(これまで人民大衆を巧妙に抑圧してきた)構造的差別を隠蔽し温存してきたという意味でむしろ当面の主敵とすべきなのだという、「社会ファシズム論」ならぬ「リベラルファシズム論」ともいうべき潮流。
まず、機械的に余分なところをカット。脂身を取り除く。次に、最小限で包丁を入れる。その後、もう少し補う必要があるかを考える。それも最小限で。
魅力の位置は、美から崇高に寄っていくスペクトラム上にある。加齢と共に、崇高性が受け入れられるようになる。
自然言語の文の意味を規定するフレームは多重になっており、それがある部分では一枚にしか見えなくても、大規模構造において多重だったりするので、その一部分だけ見て、あーここは直そうと思っても、先を見るとオッケーだったりする。
「プーチンの戦略目標はウクライナを属国化すること」はそうだと思う。ただ、この「属国」は比喩的でもあって、日本が米国の「属国」というのと質的な違いはないと思う。
「本当に感性の合う人がいたら」怖くなってしまうし、自傷行為の延長みたいなことしかねない、と、思った。
感受性が強いと、自分の中にいる複数の自分と対話が成立します。死者とも対話が成立します。だから寂しくないので群れたいという発想が湧いてこない。
感受性の強い人ほど群れないんだよね。自分と合わない人といると疲れ切っちゃうから。たまに折り合いがつく人がいるからそんな人と少し会うだけでいい。もしも本に感性の合う人がいたら大切にしてね。それは奇跡のようなものだから。
哲学を学ぶというとき、哲学の先生のように学ばくてもいいとは思う。哲学という学問は現在、実質、「哲学史」の上に載っかって、交通整理や批判をおもにしてるけど、それは、哲学の学者さんにまかせておけばいい。
哲学の学者さんでも、プラトンと王陽明の両方を研究することは、実質不可能だし、哲学議論の接点を見出すのですら、学問的に難しい。が、ここには、学ぶ点は多い。
世界の危機という点では、ロシアは中期的に衰退するが(人口減少)、米国は瞬時に瓦解しかねない(内在対立)。瓦解しても10年くらいで戻るだろうが。中国は、わからない。
日本の報道は、ガザに焦点化してるが、世界情勢的には、連動する中東全体の不安定化が問題で、まあ、端的に言えば、イラン問題。
「甘え」は同性愛心性なんですよね。
くしたがってソシュールの考え方、「人間は言語という記号を使い、世界に区切りをつけることによって世界を認識する」という思想>
これは、langueとlanguageを誤認してて、正しくは、
人間は、差異の記号体系である言語(langue)を使い、言語活動(language) する
ソシュールについて、いわゆる知識人が語ったものに、まともなものがほとんどない。『一般言語学講義」をきちんと読んでないからか、あれを思想書や文学書のように読むからだろう。あれは、一種の技術書に近いので、緻密に体系的に読まないと理解できない。
生成文法から言語学に入った言語学者さんはチョムスキーの方法論に載っかっててソシュールをきちんと学んでないことがある。あと、その後の認知言語学系の人はその双方の基盤もない。学問はなんらかの方法論が確立していれば自由に行えるが、「言語学」と呼ばれる学の基盤は危うい。
学問と学問でないものの差は、端的に、方法論なんですよ。学間というのは、こういう方法論によって、これが言える、これ以上は言えない、というだけのもの。
方法論がなければ、なんでも言えちゃうし、言うのは自由なんだけど、それはただ学問ではない。
⇒経験則
学問的な「喜び」なんて、ぶっちゃけ変態的な喜びでしかない。でも、そこから、世界というものが、まったく変わってくる。街を囲んだ壁の向こうに海が見えるような。あれを見たか見ないかを人生の価値とするか、まあ、そんな、もん。
では、どうやって、方法論を学ぶかというと、これは、もうもう、うんざりするような演習を通して、なんというか、一般的な考え方の派生を叩き潰すまでやるしかない。くそ、面白くもない。淡々とするしかない。で、そのなかで、ある種、変態的な喜びが沸き起こってくる。
一時期、「独学」が流行って、「わかりやすい入門書」が紹介された。まあ、それはそれでいいんだけど、入門書は一般大衆への啓蒙書であって、方法論を訓練する書籍ではないんですよ。つまり、「入門書」は知的関心の導入にはなるけど、学問の入口にはならない。
その後すぐ、難民申請者達がたり前のように嘘をついている事も、難民申請ブローカーがいることも知った。
泣きながら感謝を伝えてくれた人すら、保護費を貰いながら隠れて就労したり、最終的に日本でがっぽり蓄えたお金を持って「戻ったら殺される」はずの母国に普通に帰国した。
一気に冷めた。
『平家物語』というと、例の、盛者必の理、とか連想するけど、事者的な、建礼門院右京大夫集とか読んでると、じがたいほど大変なことにだったんだなあと思う。
黒澤明って、明治時代の人だが、その映画には、明治時代の人の感性が感じられない。まあ、個人的な感覚かもだけど。
ただ、人生の進路にかかわる大きな決断というのはえてして事前にリスクを計算していたらとても踏み出せないもので、いつもそうでは困るが、人生で何回かは直観にしたがって「えいや」で良いのではないか、くらいは言ってしまうかもしれない。
要するに「ぼけー」としていたわけで、しかし、学生さんに「ぼけーっとしていなさい」と言うわけにはいかないという。
最終的に世界ではなくもっぱら自分に興味があるんだろうなというタイプと、先回りしてリスクを考えて不安が亢進していくようなタイプは、どんなによく勉強していても、おそらく(研究者養成系の) 大学院には向かないだろうなと思うことはあります。
上川外相が自分にとっての政治的得を取って麻生氏の持つ有害な女性ステロタイプを批判しなかったことが批判可能であるなら、週刊誌報道に接してのヒカキンやわかしんの身の処し方も同程度に批判されるべきだと思う。本人にとっては合理的だろうが明らかに過剰適応で、謎の規範を強化している。
「わー、足長い、肌白い~」みたいなやつ。しかし、それを突き詰めると「わー、頭良い~」とか「わー、人格者!」は本当にOKなのかというややこしい話になる。
該属性をカテゴリカルに貶すことはもはやアウトであることはいかに彼らとて自覚はあるわけですが、「褒める」というのは難しいもんで、どこを交めるかで当人の差別意識を炙り出しちゃうことがある。ルッキズムが典型ですが、これからの主戦場は「めの中にある差別」ですね。
逆にいうと、世界に対する関心の強さと、自己に対する関心の薄さ(要はボケーとしている)が適度に組み合わさった人間には大学院ほど楽しい環境はない。
桐島聡とされる人物の報道を見てると、『PERFECT DAYS』を想起してしまう。あの映画はちょっと乗れなかったんだけど、心のどこかに引っ掛かる部分もあって。平山という男の執拗さ、ラストの表情。「丁寧な暮らし」とかではなく、なんらかの事情でそう生きるしかなかった男の映画にも見えるのだ。
やっぱり何かする時は「参照する」ことが必要なので二つの画面を扱えるようであってほしい
↑そうだ、それだよ!という気付きでいっぱい。現状を抽象化してとらえる仕事が増えてきて、現状メモと成果物を並べたいストレスが高まっていたと自覚する。
自炊始めた人で、カンピロバクター含めしょっちゅう胃腸炎かかる人は色盲の検査も受けたほうがいいです。肉の焼けた色が見えてない可能性があります
(実体験
MeToo運動みたいなのに賛成が左翼・リベラルで、違和感を持つのが右翼・保守。今までだってそうじゃないかというのはそうなんだけど、それのみが識別力を持つようになったというか、「フェミニズムなにそれ?ガハハ」だけどバリバリ戦闘的な労組のおっさんみたいな人たちが絶滅危惧種にということか。
組織の背景がない個人の告発を安易に歓迎するネット世論、それに異様なパワーを持たせようとするプラットフォームの仕組みや文春的ジャーナリズムも本当によくない。そういう告発者は結局、世論の「おもちゃ」になってしまうし、その告発者自身の幸せには誰も意を払わない。
ステロタイプが有害な場合があるのは確かだろうが、すべてのステロタイプが有害だと主張する人は少なそうなので(「政治家は汚職してる」というステロタイプはそれほど有害ではないだろう)、結局、この手の話は「何が有害なステロタイプか判定する権力を我に与えよ」ということなのだと思っている。