2023/12/01-2023/12/05
推しがあって、グッズが出るたびに、苦しかった
(社会には確かにそういう問題はあるけど、それは)「仕方ないですね」と諦めることは、フェイルセーフブレーキみたいなもので、「何か解決策はあるはずだ!」とアクセルを踏むことがいつでも正しいわけじゃない、というのを心情面で納得しないといけない。
三国志
フジモリ大統領
感性が理性と本能を凌駕してこそ恋愛物語は物語として高度化・精緻化できる。
しかし、そうしてできあがる物語は、文化ではあるかもしれないけど、リアルにまけてしまう局面が必ず出てきてしまう。
理性や本能が全くない人間とその人生はないわけだから。理性だけの恋愛は、取引と打算ばっかりになってしまうし、本能だけの恋愛は、盛って・GO!しか残らないから、さすがにそれで文化を作るのは無理だろうとしても。
▷恐怖やめんどくささややりたくなさといった感情も、6秒待ったらしずまってくれるならいいのに。
▷ロシアは悪だし、先制攻撃は許されてはならない、は完全に保持したままで、でもそれはそれとして、ウ側の人命も無限に続くわけではないし、「悪なんだけど、対等の交渉相手と認めて和平交渉」「許さないままなんだけど、停戦して合意が成立する条件で和平」ってことを考える必要はあるんではないか。
▷ブックカタリスト・ブックの倉下さんサイドから3冊、何かの切り口でまとめるとしたら、切り口は何になるだろうか? 言語、読書、脳、うーん。 きれいにつながる3回(分)てのが予想しにくいなあ。
▷地位財にコミュニティから高い税金をかける政策がありえるということは、ソシャゲの課金というのは、むしろ「罰金」みたいな側面をその精神性において見ることができるだろうか。
▷10年単位とかで、最終的に対外支援の収支がどれくらいプラスになっているのか(なっちゃってるのか)見やすく表示されたグラフとかないものなのかな。
▷これで条件がアンタイドじゃなくて、使い道を日本企業が受託必須になるように紐付き案件にしてあったらすごかったけど。
▷office365って、言いたいのはデイリーセルフオーガナイジング、とかそういうことなのだと思うけど、「仕事場に1年中」というふうに、やっぱり読めてしまうよね。
▷「役目を終えてこのたび自由になりました団」のユーフラテス感……。 番組がピタゴラスイッチになったかと思った。
カウンターエリート
最近私は、「どんな情報が保存されているのか」ではなく「保存されている情報がどんな風に私の目に入り、それがどのような作用を及ぼすか」という観点でデジタルツールを見るようにしています。
移植されてきたものが上部を占めることになります。その結果、Evernote上で「最近」作ったものが下部に押しやられます。端的に言えば、タイムラインがかき乱されてしまうのです。
デジタルツールを考えるとき、たとえば買い物リストなら究極なんでもいい。文章書くツールだと、少し選択が入ってくる。「自分のノート」だと、さらに要件が増える。その辺の選択観も整理できそうではある。
世の中には「そんなにヒドいなら見に行ってやるか」みたいな足の向け方もあるみたいだけど、金かかってるなりの大作映画なので、見りゃそこそこ楽しめはしますよ。なんだ、そこまでヒドくないじゃんってなるだろう。
でも、金払って見るならもっと他にいいナポレオニック映画ありますよ
物量戦で勝てないと少数精鋭を言い出して
わかりやすい少数精鋭が巨大兵器なんだと思います
不祥事について、制度を知らない人が語ると、時として全てが悪いことになる。しかし、制度を理解している人は、何が悪くて何が悪くないのかを正確に切り分けようとする。TVは「被害者に寄り添う」とか「権力の監視」という美名の下に前者を是とする傾向があるが、それは能力不足による誤報でしかない。
言われました。
貯金と時間を支払って学んだことは、「小説を書くためには情熱が必要だが、情熱で小説を書いてはいけない」ということです。かなり高い買い物であった気がします。
しかしもう一つの目的である「自分の中に詰まっているものを吐き出し切る」という目的は達せられました。私は→
がかかりました。落選初は、人生すべてを否定されたような気分になっていたものですから。
仕事のアテもなく、頼れる人もいない東京で無職というのはかなりリスクの高いことなので、おすすめはしません。個人としてはやってよかったと思いますが、反面、不器用すぎるし極端だと思います。→
表現活動の基本は、ある程度の「嵩をかせぐ」ことである。おそらく、社会活動もそうであり、人間にとって意味をなす活動のすべてがそうなのかもしれない。
⇒説得力、権威化、迫力
それにしても若い人たちの因果律や物語化に対する懐疑は根深い。これは世間が歴史性を失い悪質な物語が蔓延った結果であり、ひろゆきの「あなたの感想」も、サブスクや
TikTokにおける断片的視聴も全部繋がっていそうだ。「あなたの物語には付き合いきれない」と。
若い世代の女性と話していて、男性の場合と違う事が多いな、と思うのは、「その会社」に対してコミットする姿勢みたいなものなんですよね。
⇒職務にコミットでもなく、能力にコミットでもなく、会社にコミットする姿勢が大切。
よく昔のビジネス書とかで言われてたように「2つ上の職階に出世した時に自分がどうすればいいか常に考えている」みたいな準備が行われがちで、その「考えてきた積み重ね」が将来役に立つ。
日本の会社は女性役員を増やさなきゃと皆思ってるんで、今、30代の子育て中の女性とかが、「その会社で出世する意志」を示すと、凄い優遇してもらえる可能性がぶっちゃけあるんですよね。
もうひとつ、「文通」で話していて、若い女性の場合男性と違う部分として、
ある種の「ポータブルスキル」を持った「専門職」的人材像に囚われすぎ
「専門」はどこでも必要とされるので、将来も転職しやすいし食いっぱぐれない…みたいな話ね。
で、もちろん「その会社でしか役に立たないスキル」しかないのも問題ですよねという話はあるので、ある程度そういう「I」の縦棒部分は大事なんですよ。
ただ、「I」の部分だけで高給が得られる仕事って、実はかなり限られるんですよね。
⇒この感覚を、ライフハックとかがブームになってたような空気の中で、一貫して理解してるような人格が必要
「Tの横棒」的なジェネラリスト部分が、今の若い人が考えるイメージに比べて何倍も実は大事だったりする。
特に「普通の人」のキャリアにおいてはね。
つまり、「その会社で出世しようと思う」にあたって、「他人を巻き込んで仕事を進める方法を学んでいく」「その会社の今何が問題で、結局どうしていけばいいのかちゃんと自分で普段から考えておく」部分が想像以上に大事なんですね。
で、「そこの部分でちゃんと考え続けている部分がある」という信頼感が上層部との間であるなら、多少出産関連とかでタイムラグがあろうと、必ず「その会社で必要な人材」にはなれるはずなんですよ。
⇒まあ、リストラとか、やりがい搾取とか、さんざん“裏切られた”気持ちになっている、例えば氷河期世代にこの物語を信じろと言っても、受け入れられないところはあるかもしれないけど。
「上の世代(50代とかの、そろそろ子供が巣立つ頃の世代)」と「下の世代(20代、30代のこれから子供を持つ、あるいは現役子育て世代)」では見えてる世界がかなり違うってことなんですよ。
端的に言うと、「50代」頃のキャリア志向の女性と「日本の会社」の間にはちょっと単純には語れない感情的なシコリが残っている部分も大きい。
普段はサバサバしているようでも、そういう話題になると急に処理しきれていない恨みつらみが消えずに出てきてしまうみたいな人も結構いる。
⇒「単純には語れない感情的なシコリ」「処理しきれていない恨みつらみ」
⇒団塊の世代や新聞世論が退場するのを待つのと同じくらい、この声が世界から消え去ってくれるのを待たないといけはいか。
人間、だいたい1日12~13時間くらい仕事をする日々を続けるとヤバくなってきて、15時間仕事みたいな生活になるともう人間でなくなる
仕事以外には睡眠しか時間がなくなって、そうすると、睡眠(無意識とか夢)の水位が余力を失って、現実をあからさまに補完し始めるしかなくなってくるのね
「うしお殿は自分は獣の槍に頼っていたといっていた。槍なしでも強くなりたいと。
でもそれは思いちがいだ…うしお殿はただ槍を十分に使いこなしていなかっただけだ。
巨大な敵、白面の者は獣の槍でしか戦えぬ。そして、それを振るえるのは――うしお殿、君だけなんだ。
その槍から離れるのではなく、その槍とともに強くなってゆくことこそ、正しい道なんだよ。」
よく日本の極端な左派や親中派(便宜的に区分)からも、台湾も戦争の脅威あるより統一した方が幸せでしょと言われるが、国を失い支配されると自由や人権を失い、差別され、支配国のための犠牲を強いられることを台湾は経験してきた。宗主国だったのだから加害
側としてそれくらい知っとけよといつも思う。
全方向から怒られるうえに、謝り方が悪い、反省が足りない、さらなる「教育」が必要では、と確実に食いつかれる。いやはや、教科書に載せたいレベルの最善手を打ってますね、KADOKAWA。さすがです。
私個人としては、こちらは体勢側として断固権力を振るうが、しかし他方、学生諸兄諸姉らにはそれに反抗したりやり過ごしたりする自由がある、というホッブズ的構図の方がすっきりしていると思う方かな。
田村さと子先生の授業でテキーラを飲んで詩を味わった身からすると、大学における自由の幅を身をもって拡大して見せる講義の実践には敬意を払いたいと思いますが、「配給された自由」というか許可されて食う鍋の味は美味いのか問題というのは他方であるよな、とも思うところです。
「仲間以外の人間が書いている本、読まなくても無価値とわかります!」の時代なんですよね。右も左も。著者のバックグラウンドとタイトルと惹句しか読めない時代ということでもあります。
本屋がどんどん減ってSNS経由でアクセスできる(ということはせいぜい数千部の)固定客を頼りにした本の売り方はきわめて危うい。昨日のいろんな出来事はそのことを教えてくれた。ではどうしたらよいか。それぞれ持ち場で考えて、黙って実践するしかない。
出版と図書館、書店はリベラルデモクラシーをつくり、支えてきた制度。それが瓦解したらネットとSNSは絶対にそれらを代替できない。それどころか、まったく逆のことが起きる。せめて制度の側にいる人くらいはそれを自覚してほしいです。
単に本が売れないんじゃなく、雑誌と文庫と新書が売れないって話なのか電子書籍や電子コミック、単行本や専門書がネットや都心の大型店で買われ、需要を失った地方の中小書店が消滅
それが原因で中小の主力である文庫新書が売れなくなり、部数が絞られたって半歩進んだ話?
「文庫化された旧刊拙著の発行部数を教えられてビックリ!単行本の、それもハードな専門書の部数じゃん!原因は急激に進む地方や郊外の新刊書店の消滅にある。危機が川下から川上へ遡及しつつあるのだ」と鹿島茂先生が書いていてビックリ!
書店の消滅は本が売れないのが原因、と思い
きや逆なの?
私が日本社会の将来にそんなに絶望していないのは、出版の仕事を離れて大学で実務教員をやってるからかもしれない。大学で出会う若い世代の感覚には健やかさと常識を感じる。できるだけのことは伝え、あとは未来を託したい。SNSだけ見てたら悲観的になるばかりだが、現場の感覚はまったく違う。
日本の知的ソサエティは近代化の始まりの時点から、現在までずっと偏頗している。いわゆる「読者大衆」が存在したことの意味は、それらに対するバランサーでもあった。そして出版、書店、図書館は、そのような知的中間層を育て、再生産てきた。でもいまのネットとSNSはそれを破壊してる。
まー、控えめにいってもかなり事態は危機的だけど、大学の学部教育もある意味そのためにあるのだから、そこでできるだけのことをしてる。厳しいなかで出版に関わる人も頑張ってほしい。勇気と知性の、どちらも手離さずに。
SNSに戻ってから、論理的な批判はともかく、怒りやネガティヴな感情は書かないことにしている。他人の怒りに便乗する人があまりにも多いから。怒りは一人で静かに燃やしたい。
SNSことにTwitter (X)は弱者や貧者の対抗的ツールでもあるが、その本質は公共性に関
心のないビリオネアが生殺与奪を握る金儲けのためのプラットフォームだ。この非対称性がおぞましい現代の実相。私は書物の読み書きの長い伝統を、この構造に従属させてよいとは思えない。
雑誌市場がごっそり消えた結果取次とか書店が維持できなくなってるわけで、もう DXがどうって話でもないような。従来の仕組みの維持にこだわらずに考えるなら、コミケとか文フリみたいなイベント型マーケットを定期開催して、そこに来られない人をネット書店とか電子書籍でフォローする形になるのかも。
「直接会って謝罪したいという強い思い」は、執拗なパワハラを可能にする性質それ自体から来てることが多いからなあ。関係性への執着と何かアクションを起こして自分が「スッキリしたい」という衝動強めの人格。
土下座含めて頭を下げることに躊躇はないが、その屈辱感はしっかりと蓄積されていて、次の「スッキリ」の機会を窺っているという悪循環のタイプ。
あとは、対面であれば状況をコントロールできるだろうという楽観と過去の成功体験。
これだけだとなんともいえないけど、いじめられっ子が別のいじめの道具に使われるというパターンじゃないのかな。「あいつ、マジで行ったよ」と手を叩いて笑って見てるのがいたんだろう。
そう、和解せずに仮に懲戒処分まで無効になったら今度は処分側の責任が問われるので、そこは何としても避けたかった (そのほかの部分は譲る余地があった) というのが組織としてのこの件の見え方だろうなあと。
岩倉はともかく(私も一人しか思い浮かばない)、リーガルリスクの高そうな無理筋処分
案を、ボードメンバー中の声の大きい特定少数が他を押し切って出してきたときの、管理職としての身の処し方とかって、想像するとなかなかこれは身につまされるものがありますよ。胃が痛くなるだろうなあ。
学生に異性からの推薦や同伴を求めるの、おそらく旧制高校以来のホモソ文化に対するアメリカ的な「カップル」文化導入の試みとして、その意味では当時は「進歩」的な試みだったのではとも。今から見ると確かにアウトっぽいですが。
戦後民主主義の洗礼を受けた世代の先生方の中には、「サシでじっくり飲む」のではなく、「お連れ合いの方と一緒にどうぞ、私も家内を連れて行きますから」でお食事会的な人、割といらっしゃったなあという記憶。
「内情を知る事者の(カメラの前での)涙の訴え」にびっくりするくらい弱い人がいる。
社会学、哲学、文学等を専門とする学者なのに、涙に逆らえない人たちがいる。「公衆の前で勇気を出して、これだけ心に刺さる言葉で語れるのだから、真実に違いない」、と恥ずかし気もなく言ってのける。
つくづく「なにが好きか」ではなく「どう好きか」が大事だと、30代の終わりにわかってからも、そのメッセージを表現するのにひどく迂遠な経路をたどってしまい、真逆に受け取られることの多い人生でした。
身近にいないのでSNS上の評判でしか知らないが、撮り鉄って迷惑かけてるらしくて、そうなのかーと思うけど、遠征先で撮り鉄どうし意気投合して初見の喫茶店とかにいっし
よに入って云々みたいなブログとか読むと羨ましいというか、輝いてるよな。
アイドルやお笑いやアニメ、ゲーム、ホビー関連は「歳とると楽しめない問題」、つきあいかたの変化、卒業を伴うライフステージ移行などを語る愛好者が増えたけど、文学やアートや「シネフィル」は自己目的化すると世を拗ねることを正当化してくるから怖い。永遠の「新歓コンパの2年生」がゴロゴロいる
心が弱るのはだれでもあるんだけど、ずっと弱ってる人は投影の対象をめちゃくちゃ強い言葉で持ち上げたりするのよね。
これは芸能より文学の場で起こることなんだけど。
統合された像がないだけで、みんな、それぞれの持ち場で工夫や発見をしているな、という印象はある。
あとはそれを紡ぐだけではないか、と。
そういう思いもあったが、反面マスクを外した人々の笑顔も社会戻るよさもあった。
人類の行く末については、老いた僕は、若い世代を頼して託すしかない。老人の世界への絶望は傲慢の謂であるかもしれないし。
ヨブ記が教えることは、世界と己の存在への呪詛が人の傲慢であること。ヨブは神に会ってそれを悔いた。
神を畏れるということは、絶望という宝具の限界を知ることてもあるだろう。
80-90年代に、機能主義的でミニマムなデザインの日用品を買うのって、難しかったんですよ。
今では、ほんと、山崎実業なんて、「モダニズムのハードコア」じゃないか、と。
まだ運動でもすれば、少しは巻き返せるような気もするのですが、それがなかなか。
社比でいうと、齢とって病んで回復すると、あー一段落ちた感はある。トホホ。
風邪は抜けたようだが、病み上がり感がすごい。歩くのもだるい。
こ、こ、これがコロナ後遺症?
でも、頭の回転が鈍くなったとか、体がだるいとか、物覚えが悪くなったとか、昼間眠いとか、目が悪くなったとか、平成の時分からだしな。
こ、これが、コロナ前老化?
情報を得るための読書というのもあるし、何かしらの考えに触れる読書もある。しかし、よりディープなのは「世界に入る」読書だろう。
「ファンネル」とか「犬笛」って、21世紀インターネットにおける戦術革命を知らないと全く文意不明な言葉になるだろうな、この時代を扱う後世の研究者にとって。
昔なら「鉄砲玉」だった。右も左も分からない無知な若者(下手に賢くない方が良い)に
「こいつが悪いやつだ」と写真と武器を持たせてやる。今は同じように何も分からない無知な輩(しかし今や老人も多い)に「インフルエンサー」がスクショを示す。
鉄砲玉にはせめて「一人一殺」の美学めいたものがあったけれど、今やそれもなし。虫の大群のように対象に取り付き、傍目には明らかな誤謬を指摘されてもそのまま飛び続ける。無知ゆえに「痛覚」そのものがない人を武器化しているわけですね。
あと、議論の建て付けとしては、「左派の経済政策はめためただったけどそれはたぶん移民・難民因子とは関係なくダメだったから」ということで、「移民難民を入れると経済がうまく回るよ!」という左派はさすがに欧州広しといえどもはやそんなにいないような気もするんですが、どうなんでしょう。
前原誠司という政治家は重要な局面でほとんど常にトホホな選択をする。
なんでそうなっちゃうのか。人文科学的な興味は湧く。
キャリアの話でよく出てくるアレ
わかりすぎるwwwなんならwillがぼやけて
たり無い時もある
あと本気出したらのcanと実際に動く canと
か
個人的にはWillが不鮮明で
canが小さい
mustがクソデカ
な感じがします・・・
一篇の詩のようですね。「やりたいことは満載で、求められることは曖味で、できること
は極小の、私」
有料記事なので読めなかったが、「ライシテについて慣用」というのは、非宗教的な公的空間が狭くなることではないかな。
ロシアを叩こうとした西側先進国はロシアにはでなく非先進諸国に世界秩序の点で敗れた。この世界を再構築するには、ロシアの位置を再定義して非先進諸国を再統合するしかない。
ギャル男が一番黒かったのは2008年前後で、2010年代に入って男女ともにガングロは終わった。ギャル男の最後の段階は装飾過多なデリッカーだった(と思う)。その頃からオラオラ系が出てきて、男性のモテ志向はよりゴツい感じになっていった。
ギャル男が終わり、2010年代に、男は男らしく、となっていく。それが印象的だった。
90年代から2000年代には、マジョリティにおいてもジェンダーの両義性と戯れるよう
な面があった。
モテの新たな規範として、2010年代という新時代を切り開いたのは、三代目JSOuIBrothersではないかと思う。
細かい話はいくらでもできるが、その効能も細かいものに留まる。それよりも大枠がきちんと機能していることの方がはるかに大切。
社会にとって必要なのは「何を好ましく思うか」であり、「どう好ましく思うか」はどうでもいい。だから社会の要請に大人しく従うなら「どこがどう」を自分に問う意味はないだろうし、何かを好きということをいつかは「卒業」することが重要になる。その流れに負けると自分の「好き」は容易く軽くなる。
「オレの授業なら授業中に鍋やっていいよ」と言い続けてきたがようやくほんまに鍋やってくれた学生(一回生)が現れました。や一大学とはこんなふうに手間暇かけて自由であることのディテールを確認する空間であるべきやと思うねん。自前でそれをやる見所のある若者たちである。がんばってくれたまえ