2023/11/26-2023/11/30
やらなきゃと思うと敵が大きく見える。やりたいと思えば小さくなる。
大丈夫、俺は逃げない
それ以上に現実感のないくらいのヒーローをやってる、かもしれない。
「やりたくない」んじゃない、「がんばった」んだ
私の生存になんの価値もないのであって、同じく私の文章になんの価値もない。だけど、仮に、そうであるにもかかわらず、私の文章や私の心情が誰かの心に足跡や爪跡となって残るとしたら、それは利益によるものではなく、共感によるものだろう。
▷ここ数年でばたばたと家電を代替わりさせたんだけど、最近の家電は、電子レンジも洗濯機も、「終わりましたよー」って自己主張をしないのね。
子の運動会
自分では何もすることができなくて、ただ見守るしかない感覚。自分はもう、世界の主人公じゃないんだな、という実感。
あれは、子が保育園とか、そういう小さかった頃。
親としても日々、あれこれに振り回されて、走り回されていて、仕事でだって、「人任せにするな」「受け身になるな」とせき立てられ、ある種の自己責任を常に意識づけられる中で、あの「自分にできることがもう何もない」感覚は大きかった。
いや、公園で子供を遊ばせるとかだったら、ボールを投げてやるとか、転ばないようにすぐ近くて気を配っておくとか、やることはずっとあるんだけど、運動会の演目で手を貸すことはできないからね。台無しになっちゃうし。
晴れの舞台に立っているのは子で、親の世代はお呼びでない。観客でいることしかできない。共時性はそこにあるのに。
勇者の父親的感覚を持ったし、最近は寿命もまた意識するけど、内的世界は物語を求め、それは記号的な人格やできごとの流転に感情移入する。
▷子供がもっと小さい頃は、あったイメージ。はじめてのおつかい的なものを見て、「無茶させんなよ」とか。 中高生の恋愛模様を見て、「初々しいねー」とか「元気だねー」とはよぎらないなぁ。
▷@norixnori しかし、物語を読むときには、主人公に乗り移って読んでしまう。「親目線で主人公を見守ってしまう」が起きてこない。
▷日付が一つ、ノートブックが一つというメタデータしか持たないとしても、それだけあれば《「考える」が起動した》ということなのだろう。
昔のミニノートを読み返したり、そこから発見を得たりがあるか? といえば、ない。
ないんだけど、じゃあ、当時使うメモ帳がブロックメモで、書いた端から捨てていくんでよかったか、同じ効果を当時持ったか、と言えば、それも違う。
▷ムカつく要素を一つ、人の中に見つけたら、他にも見つけて、「○○するやつは、こういう点も××」と思いたくなる。あれはなんなのかな。
▷子供につい服をたくさん着せようとしてしまう。保育園通い時代の発想だなあ。 別に、もう中高生になったなら、寒そうな格好をして風邪をひいたって自業自得でよかろうもんなのに。
▷やや開いて、肩幅くらいですなぁ。完全に膝を付けて座ってると、妻はおろか娘ですら、違和感を表明してきます。
なぜおっさんは電車で脚を開いて座るのか。
最大の理由は「周囲のことを考えないから」
だが、別の理由に「脚を閉じて座ると『オカマ』だとわれる文化の中で育ってきたから」というのがある。
あれは色々な意味で最悪の文化だった。
おっさんよ、脚を閉じる。今は和だ。もう誰もあんたを嗤わない。
▷自分の子供が高校生になろうというのに、高校生が主人公の物語を読むし、高校生男女の恋愛を読む。
その意味で、高校生女子のヒロイン、というのは、ある魅力と性格構造を載せるためのアーキタイプというだけのことであって、若いから好きになっているとか、青春懐古ということではない。
私が、恋愛物語という道具立てを好むのは、餌がものすごく大きいだけで、人間関係のお話でもあるから。
殺人事件とかと同じで、想像力をたくさんは使わなくていい、とか、バトルものと同じく快感のつぼが分かりやすそう、というのもあるけど。
そこに、実社会を生きるのに転用できそうな地続きさを無意識に欲していると思う。
男女のチョロい系恋愛スタート
どちらも、美男美女に言い寄られるとぐらつくわけなんだけど、女主人公の方が、相手役に、何かしら
「良くしてもらえると好きになる」
要素がある気がする。なつかれると好きになるとか、言い寄られると意識する、ということでは微妙に足りてなくて。
お前は、待ちで受け身なだけでなく、姫かよ、なんで貢いでもらえる前提なんだよ、お前のほうが身分が上なんかよ!
好きになってもらえたら好きになる、
男主人公のほうが、そこに女の子の表象があって、「今なら私が手に入りますよ、だって私はあなたが好きですから」と示してもらえたら、それだけで好きになる、という単純な生を生きている気がする。
不公平なことだ。
▷そういう見立てで言えば、日本は聖地としておいて、海外に日本教を布教していくのもありなのかもしれないが。
▷日本人が他の宗教に不寛容なのは、それが分派みたいに見えるからなのかもな。日本全体が、特定の風土、特定の言語で寝食を共にし、信心の修行をする、修道院みたいなものなのかもしれない。
▷@rashita2 Showなんですね。viewではなく
▷@rashita2 なるほど、コマンドだったんですね。主語:私 がそれを見るわけじゃなく。
⇒しかし、コマンド選択が日本語に訳されるときは、「開く」と訳されるだろうし、ドラクエだって、「はなす」「たたかう」「にげる」となっていて、「開け」「はなせ」「たたかえ」「にげろ」ではない。日本人の文化性もある?
▷『クッキングパパ』って漫画があって、あれを読むと、結構仕事をビシバシやって、そして家に帰って料理をするんだよね。 仕事はほどほどにやって、家を重視して、料理のある暮らしを楽しむ、って感じじゃない。
▷文化の移行期には、両方の美点をやらないといけなくなるんだよね。そうしないと、旧文化からの反発が強くなりすぎて、新しい価値観を布教できなくなる。
いろんな面で日本と韓国は似てると思う、東京と大阪が似てるくらいには。
仕事には指揮系を重視する人が多いが、指揮系の重視も費用対効果で評価していいもので、実際の仕事は、指揮系で動かすより、オーケストラと指揮者のように単一情報と調整で考えた方がうまく行くことがある。
仕事の指揮系のなかで、そのステータス自体に個別の仕事以外の権威を誇示する人が現れると、仕事は全体最適化されなくなる。
日本にはスティーブ・ジョブズがいないのではなく、マイク・マークラがいない。
日本にはジェフ・ラスキンとビル・アトキンソンはいるのか問題。
日本近代の家父長制の権力実態は、漱石の文学から見えてくる面もある。特に『明暗』。
一般的には、民主主義(民主制)の反対は、独裁制と理解して良いが、実際には民主主義は独裁者を生み出しやすく、これを念して、連合国は日本の憲法を定めるにあたり、独裁者となりうる大統領を生みださないように、国王を残し英国的な議会制の民主主義とした。
民主主義(民主制)を、独裁者を生み出しやすい類縁性から考えると、民主主義の反対は貴族制とも考えられるし、政教分離の要請根幹にある対比で考えるなら、民主制の反対は神聖政治ともいえる。
民主主義とは何かということは、柔軟に考えてこそ意義が深まるものだろう。
最強の主人公であるはずが、魔法を詠しなければならないなんて、という感想を読んだが、まさに詠唱する時間がかかるということに、この魔法世界のポイントがある。すなわちそれは、言語による「減速」が問題になっているということだ。それこそが、破壊神に対する抵抗なのである。
80年代の漫画なので、破壊神というのは核兵器のイメージだと思うが、そうした最終破壊兵器ではなく、文明をより便利にしていく数理化や、物事の非曖昧化の進展にこそ、「今日的破壊神」の作動を見ることができるだろうし、バスタード=私生児たちの抵抗は、今そのように再解釈されるべきだろう。
バスタードとは私生児であり、正当な系譜から外れた者たちを描く。だから全体として倒錯論である。アンスラサクスは死の欲動の形象化であり、DSは死の欲動にドライブされつつそれでも生きる、ということを担うダークヒーロー。人間みな私生児でありダークヒーローなのだ、とこの作品は言っている。
破壊神アンスラサクスは科学的存在で、科学文明が行き着いた死の欲動の純粋化であり、それが世界を破壊した後に魔法の世界になった、というのも深読みすればできる。つまり、数理が行き着くところは(文明の飽和としての)死であり、それに続く魔法の世界とは、「言語」の世界のことだと思う。
バスタードに見られるような悪さ、けしからんさは、人間味あふれるものだったが、その後、そういうものをなしにする方向に進み、同時に、それと関連していると思うのだが、かつてよりも、身も蓋もない「殺伐とした悪」がはびこるようになった。クリーンな世界と殺伐とした悪はセットだと思う。
世界を隅々まで非暴力的っぽくしようとするのは無理であり、悪手だと知るべきだ。そうした規範を行き渡らせるというのは「超自我」の強化を意味するが、それは善き目的だけに働くものではない。強すぎる超自我は残酷なものとなり、過剰な攻撃性となり、かつ、その管轄の外はより殺伐たる荒野とな
る。
社会運動は社会規範が変わりつつあるときに起こる。『親密圏と公共圏の社会学』
欧米の人のほうが「モテ」のために服を選んで着ているというの、そう言えばそうなのかもだけど、なにかもっと広く「ルール」で服を着てるのかなという感じがある。そのルールの中に「モテ指向」が含まれてるのかなあ、みたいな >RT
世界のファッション関係者がもっともファッショナブルな都市に東京を選んだ理由として、その多様性が挙げられることが多い。
欧米ではファッションを自己の肉体的(性的)魅力をアピールする手段=モテるためのツールとする価値観が支配的であるのに対して、日本はファッションを自己表現の手段として楽しむ層が分厚い。世界中のファッションシーンを見てきたUAの栗野氏が「こんなにモテない服を着ている人がたくさんいるのは日本だけ。」と言っていたが、実際理想化された肉体や性的イメージに囚われているのはむしろ欧米の男女の方だろう。
きっと、うっかり助けを求めたらその後の自分の境遇がよりいっそう悪くなる、というのを、その人は予期しているんだよね。だから弱みを見せられない(弱みを見せるとその後の周囲の自分への扱いが悪くなるから)。そんな人に「プライドのせいだ」とか言うことになんの意味があるのか。
こうした圧には厄介なとこがあり、「自分の立場が弱くなるのが怖いので助けを求められない」と口にすることもまた「悩みを打ち明ける」「弱みを見せる」ことになる、という構造になっている。なのでそうした人たちは「プライドがあるから」という表現を選ばざるを得ず、自ら自己責任論に陥らされる。
気合いの入った世俗主義でもないくせに、ちょっとした宗教団体を気軽にカルト扱いするから、「日本人は無宗教」と「日本はカルトに蝕まれてる」という認識が同居するようなことになるんだろうなと思う。
日本人にとって食は、割と形式を問わない純粋な快楽の領域に属しており、形式こそが命だったりする社交や文化の領域に属していないということが、高級料亭会食へのポピュリズム的情激の背景にあるのかもしれない。純粋に嫉妬できちゃうというか。
「見栄は張りたいけど金は使いたくない」という本邦左右の有権者に通底する俗情がどういう回路を通って噴出するかの違いにすぎないのかなと。「文化に金を使え」と「政治家は料亭に行くな」を矛盾と思わないのが左翼、「日本すごい!」と「大学に税金使うな」を矛盾と思わないのが右翼。
本質的に不穏当なことを考えている人の確信犯的穏さの方が信頼に足る局面というのはある。逆に言うと、素朴に穏当な人が周囲の雰囲気に流された末にたどり着く不穏さみたいなのはとても危ないことがある。
次第に可視になってきたが、ウクライナから国外脱出した人にはロシアの攻撃からの避難民以外もそれなりにいただろう。
人は普通、輪廻転生を思うとき、精神が連続し肉体を乗り換えると考えるが、三島由紀夫はこれを逆にした。心を肉体の器として、肉体の同一本質転生を想像した。
「生きづらさ」というのは、66歳にもなってみたが物心がついた4歳のころから変わらない。人生良いこともあったが、総じて見れば、「生きづらさ」に敷きのめされるばかりだった。が、逆に考えるなら、「生きづらさ」の原因を外界に求めることもなかった。外界にそれを宝物として見つけた者らは堕ちた。
自分の人生は、人として生きられる根幹のある感覚を失ったまま生存した未路のように思う。世人が持ってる「あれ」はなんだろうと思う。太宰治もそんな人だった。彼の何を読んでもその喪失が滲んでいる。でも、そんな文学も世代越えて大人気なので、「毒は孤ならず必ず隣あり」である。
人は誰かを憎んでいると救われるよ。憎しみが共有できたら甘露だよ。地獄はつらいと思ってる人は多いが、そんなふうに居心地はよいのかもしれないよ。
⇒人のせいにできる、連帯感を持てるというのもあるけど、「人生に目標ができる」「人生を物語化できる」というのもあるのかも。
現実というのは、いろいろとしょぼいものである。偉人もしょぼい。スピノザもカントも、しょぼいところがあり、テキトーに書いてしまったところがあるはず。そういう世俗主義が僕にとって基本的。
偉大な哲学者は自分にはとても考えられないような途方もないことを考えていたという態度をとらないと、自分の限界を超える思考はできない、と言っていた研究者がいた。まあ、過去の哲学者にはそういう面もある。しかしそうじゃない面もあるはずで、この「もある」という現実主義が大事だと僕は思う。
すごい技芸をすごいと思うことと、それを神秘化しないことは両立する。到達できないと思えることは、基本的には、超複雑なことが高速で処理されているからで、それには先天性もあれば、データの蓄積もある。それのどこまでをシミュレーションできるか、あるいは、その一側面を別の形に変換できるか。
大きな仕事をした人にもしょぼさを認めるというと、すぐ過小評価につなげる語りが出てくる。それは、理想/しょぼさ、という対立がマウンティングと結びついているからだろう。マウンティングなどやめる。いわば、たんなる「粗食的現実認識」として、人のしょぼさを認める。
理想化しない、過小評価もしない。建前を建前とわかる。現実には身も蓋もない事実があることを認める。建前を守る必要性は普通に社会人として認める。文系も理系も、何かが特権的な真理だと思わずに普通に勉強する。
何事も練習すればある程度はできるという前提に立つ。などなど。
ADHDのお嬢様、日常タスクはまるでこなせず、部屋はぐちゃぐちゃらしいのだが、ハマってるゲームの世界では部屋のアイテムをきちんと買い揃えて美しくコーデし、毎日あるゲームのタスクもきちんとこなしているそうな。オイッ😅