2023/09/06-2023/09/10
ぼっち
▷「みんなやってるから」の“みんな”は、顔色を見れる、同調圧力的な意味での“みんな”だけでなく、自分の判断基準の源泉となる、“今まで見てきた無数のサンプルとしての“みんな”」という、文化的側面もあるのだろうな、その人の自我的には。
▷やっと仕事が終わって存分にやっていい時間帯になったとしても、1時間とかぶっ続けで没頭したいわけじゃなかったりする。
▷仕事をしている最中に、「マンガ読みてー、ゲームしてー」っていう雑念が浮かぶんだけど、それは仕事のつらさやプレッシャーから逃れたいという衝動なのであって、それそのものをすごくやりたいわけじゃないんだよね。
▷「たとえ○○であっても、 〜」というときの“たとえ”って、「喩え」のほう?
▷iPhoneのフォトライブラリの文字認識、早いし正確だし、本当に頼りになる。 縦書きには反応しないし、表組は貫通しちゃうし、ダメなときはダメなんだけども。
▷まず異性としてドキドキしてしまってから、コミュニケーションのために、人間性というプロトコル、プラットフォームを使うのであって、逆ではない。 人間として好きになった人の上に、異性としてのときめきがスパイスとして乗るのではない。
▷それでも、ある限られた範囲において、“吸気をある方向に整えると、出力が上がりやすい”とか“排気の中のある粒子が燃費のベンチマークになる”みたいなことは起こりえる。
▷知的生産をエンジンにたとえてみたとき、生み出したいものは回転であって、熱や排気ガスではない。 燃料の種類で燃費や出力が変わるとしても、高い燃料を使えばそれに比例して出力が出るというほど相関があるわけでもない。 ただ、いずれにせよ吸気や排気は必ず必要だ。
▷藤子・F・不二雄先生のSF短編、Kindleで単話売りしてくれないかな。 週刊連載漫画が、一冊にまとまる前に売ってくれてるみたいな感じで。 お願いしますよ小学館さん。
▷『宇宙船製造法』の三段階のリーダーの2段階めとかを見て、「権力の暴走」「の腐敗」「権力は人を豹変させる」みたいな印象を受けていてはだめですよ、彼は圧倒的に正しい。統治は常に必要。
▷@rashita2 それが本一冊分の分量に。 どんな思念が展開されているのか、楽しみです。
▷「○○仕事術」ってタイトルで、編集さんgoを踏むんだ。 確かに、そろそろぼちぼち、一周回って新しい、感じもする。 息長くキャンペーンされていってほしいな。 とりあえず、Kindle版出たら買います。 #ロギング仕事術 twitter.com/rashita2/statu… ▷あれは、藤子Fさんの短編の中では「少年」向けに書かれているので、ラストはかなり明るいクライマックスが付いているけど、中盤で作者がやろうとしているのは、かなり「統治」の話だよね。
▷藤子F不二雄SF短編集の『宇宙船製造法』みたいな風景。 twitter.com/finalvent/stat…
▷finalventさんが「新しい古典」で紹介しているようなとっつき難度の一群はスキップされてしまっていいのだろうか。 twitter.com/finalvent/stat…
▷昔、花粉症で立体マスクをしていたときに、耳が痛くなりにくい発泡ポリウレタンみたいな耳掛けのやつを使っていて、耳にかけたりはずしたりをしているだけなのに伸びていく実感があったからさ。
▷マスクを一時的にはずして歩くときに、腕にかけておいたりするじゃん。で、それを手首じゃなくて肘のあたりにキープしていたりして、そのほうがたぶん作業中に引っ掛かったりしにくいんだと思うんだけど、耳ゴムが伸びないのかな、あれ。
▷「マスクに本人への予防効果はない、自分が潜在的に保菌しているときに撒き散らさないため」というのを本人が了解しているのだとしても、「よし、基本動作を徹底しよう」という日々の動機づけに対して、「コロナって怖いんだなあ」というような情動やムードが燃料として機能していく部分はあるる。
▷怒るべきじゃないときなのに怒らずにいられないのは、ビール瓶の底にたかる虫と同じ。 どれだけその衝動が自分にとって切実なのだとしても。
▷変化への適応とか競争とか、ワクワクするシチュエーションと疲れたりやさぐれたりする環境は紙一重。
支配的悪意者と人任せ者のネガティブな安定
悪意者が混ざっている世界のほうが、オファー提出時に公正になる
協力者が違反者をいつも処罰しようとすると、コストが高すぎて協力者も死に絶える。しかし、2回に1回だと、違反者は排除されるのに、協力者も生き残る、不徹底なランダム性の勝利。
考慮しないように」と指示すると
p139《自分たちを
ストレッチ目標:《経営難の企業ほどリスクの高い行動に出がち》そして逆も真
「エリートになりたいと野心を抱く、不満を抱えた人々」
暴力という選択肢があり、神聖な価値が刺激されると、
フリスビー、サイバーボール実験
p196社会的疎外によって、
世界は善意にあふれ、たいていのことは見当がつく
みんなの中央値をみんなが採用する(平均値じゃないところがポイントだよね、ふっかける人を排除できる)
長いあいだ迫害されてきた集団がこうした考えを持つのはよくわかる。
美徳シグナリングをもじって「美徳クライミング(登ること)」
p221《創造的な考えを指示する環境の場合、気難しい性格と創造性とのつながりは弱くなる》
ミノタウロスの皿の回帰直線からの外れ具合。
絵柄や主人公の設定年齢の軸とラストの救いのなさの相関からの。
昔、大学の授業で、過酷な自然で無法地帯に数十人程度でやっていくために必要なものは何か考える授業があり、私はそこに銃を入れた。授業指導者は「野獣とか危険だからですか」というので、私は「リーダーに治安権力を委託するためです」と答えて、全員にどんびかれた。どんびかれて自分も驚いたよ。
日本のジャニーズ報道の異常さや周辺芸能人の立ち回りが批判されること多いけど、何よりジャニー喜多川が気持ち悪すぎることを絶対に忘れてはいけない。これほど気持ち悪い人間が他にいるだろうか。
⇒ナチスの絶対悪化というのもこういう感じなのかもな。「ユダヤ人差別は確かに他の欧州の国にも当時あった。でも、大ボスを叩くことをやめてはいけない」みたいな。
中道+左派の広範な連合が形成されないのは、「リベラリズムの理念に背を向け急速に全体主義化しつつある急進左翼に問題がある」という立場と、「進歩の理念に背を向け急速に保守化しつつある中道の方に問題がある」という立場とがありますという図式を、左派の側から俯瞰しましたみたいな書評記事。
⇒自由(公権力の抑制)と弱者保護が、本質的に両立しないからね。そういうことかな。感情的にはすごく近いんだけどね。「搾取する王様は許せない」という方向で。
「他人の痛みにも、自分の痛みにも鈍感」という安倍さんによる岸田評。しみじみ芯を食っている感じがいや増してきましたね。そういう人じゃないと外交なんてできないかもなというところまで含めて。
最近、割と気をつけるようにしている二重否定。一定数は本当に取れない。「そういう人じゃないと外交はできない」を「そういう人なので外交ができる」ではなく「そういう人は外交ができない」の意に取ってしまう。 ⇒マジで?!
⇒“そういう人”“外交”“できない”みたいなキーワードだけを目が拾っちゃってるのか?
⇒「朝、起きられないことは恥ではないよ。まあ、褒められたことでもないがね」くらいの苦味ばしりを表現できない? その辺の感情をまとめて圧縮して、「ドンマイ!」って声をかけなきゃダメ?
自民党にも極右思考の議員から、限りなく中道の議員までかなり隔たりのある思想が呉越同舟している部分があり、この点においてはリベラル系政党と実はそれほど差異はない。ただ、保守サイドにいる人間に共通するのは、正規のプロセスを経て決定が行われたもの(いわゆる機関決定)に対しては、それをまた正規のプロセスをへて覆すまでは「飲み込む」という一種の性質がある。これは「規範重視」「プロセス重視」の保守思想を持っている人間達の共通する性質であり、それ故に自民党は決定のプロセスにおいては激しい論戦を繰り広げたり、小競り合いがあったりはするものの、一旦決定した事に対して反旗を翻したり、なんならその決定プロセス自体をぶっ壊そうとするようなことは(あまり)起こらない。これは各政治家の支援者サイドにも言えることで「努力叶わず、今回の決定では私の思いは届かなかった」という政治家の申し開きに対しては、大抵「捲土重来で頑張りましょう」なぞと、寧ろ同情的に受け止められるのが多くのケースだ。
ところが、それが出来ないのが規範やルールよりもイデオロギーや理念を優先しがちなリベラルの政党だ。彼らは、自身の掲げる理念の実現の為であれば、正規プロセスを経て行われた機関決定に抵抗を続けることに「美しさ」を見出しがち。自分の理想に沿わない機関決定が下されるくらいなら、その決定プロセス自体をぶっ壊しにかかるという行動を取りがち。またリベラル系支援者も、その様な抵抗を続け、反旗を翻すことを政治家の美徳?として評価しがちであるため、結果的にいわゆる左派特有の「内ゲバ」に発展しがちで、纏まるものも纏まらない。
自分の考えとほぼ一緒だ。民主党系列内の議論がすぐ一任になるのは、プロセスを踏んだ議論で妥協することができないからで、だから引用ツイにあるように一任で決まったことも平気で覆す。なので政党間で約束したことも守れないし、仮にそれで政権を取れても、当然連立が長続きしない。
「リベラルが個別政策の差異を乗り越えて大きな「塊」を作るという構図自体が、基本的に難しいのでは?」
この見方は妥当だと思う
この「野党」の中で共産党がかなりの団結を誇るのは結局、個人と党の政策の乖離を許さないというやり方だからだろう
⇒まあ、“政治的現実”に妥協して自分を矯めさせることを許せるくらいなら、“生活的現実”に流されることをやめて、わざわざ異論政治家になる意味がない、って部分はあるだろうけどな。
だって、「“党の他の誰かの主張”を、自分の本音であるかのように、今後数年間はしゃべらなくてはならない」って、人間にはそれなりに苦痛ですよ。(正当な手続きの中で)負けたからって、「現実はこれだよ」って手渡されて、「はーい」って受け入れられるなら、そもそも異論を掲げないだろうし。
感染対策で面倒なのは、感染患者の対応ではなく、感染対策を講じる為、あれこれと組織に働きかけていく事。
何せ職場にはいろんな考え人達がいるし、能力も違う。
そして、金も物も必要なので、色々と摩擦が必ず起きる。その対応にうんざりするし、面白いと思う事もある。
"フィンランド教育は失敗だった"、とフィンランド政府が公式に認めました|北欧の理想と現実
うれしかったのは、RPG千夜一夜のクロちゃんに、「フォーチュン・クエストはコロンブスの卵ですね。誰もが考えついていいのに誰も使わなかった世界観を使ってる」と言っていただいたことです。
「こんなのファンタジーじゃない」と言われ、すこーし気にしてた私の励みになりました。
本格的はロードス、ギャグ全振りはスレイヤーズ、ライトが親しみやすいフォーチュン・クエストっていう布陣があらゆる層の心を掴まえて強すぎた
私の最初の感想は「ズルい!」だったな。パーティーメンバーそれぞれに明確な得手不得手があってやいやい言い合いながらもクエストをクリアしていく。
多少はみ出し者でも特異な能力者ではなく一般的だからメインキャラだけでも世界観が飛び込んで来る。
毒ガスの噴射口がついた沼のある箱の中で猫が暴走するトロッコのパーツを一部品ずつ入れ替えている。この時落雷が起きて化学反応により猫の手元にあるトロッコと全く同じ組成のトロッコが沼から生まれたがこれらのパーツを全て入れ替えた時どちらのトロッコが本物と言えるか
⇒シュレーディンガーの猫、トロッコ問題、その他
つまりは、強調とは『ここ一番』って時にやらないと(普段はしないで、たまにすることで落差をつける)意味が無いというか、単なる読みにくいだけの文章になる訳だが、書き手としては大抵、一行一句に精魂込めるので、初心者はついつい大量に句読点をうって強調しがちなことも。
英語が話せる人はみんな頭の中でコレやってるんだよね
東浩紀さんの最新作を「世界から周回遅れ」と切って捨てたある学者のツイートを見て、大正期のマルクス主義者が吉野作造の民本主義を切って捨てたことを思い出した。「自分は最新の動向を把握している。それなのにこの国ときたら、こんな時代遅れの説を有難がっている」と論難する言説は昔からある。
ポル・ポトはカンボジアの独裁者で、原始共産制とかいう知識を持つことは悪ということで大量虐殺した人です。
チャウシェスクはルーマニアの独裁者で、出生率の低下が起きたたため、避妊と中絶を禁止した人です。その結果首都ブカレストでは治安の低下がおきました。
ここで駿台予備学校英語科トップの大島先生のお言葉を見てみましょう
大人は「最短距離」がベストだと思って誘導したくなりますが、子供にとってはそれが必ずしもベストな道筋ではありません。
たとえば、私が教えている駿台予備学校のデータで、「5教科受験の生徒」と「3教科受験の生徒」の「3教科の成績」を比べると、「5教科受験の生徒」のほうがよい。本当は教科を絞ったほうが成績は上のはずですが、結果は逆になっています。
ものを見たり、言葉を読んだりがトリガーになっていろいろ連想したり語ったりするのを、ポエムだとか、無駄だとか言うのは、自分の意志ではなく自動生成的に頭の中で言語列やイメージが展開し、行為主体としての主体性の手綱を手放しそうになるのではと恐れているからだと思う。
⇒そういう側面も確かにあるかも。
⇒ただ、他人のポエムに厳しくなるのは、具体性がないから参考にする情報にならなかったり、「本当は安全じゃないのに安心させられてしまう」ことを恐れている、とかもありそうだけど。
「強くて尖った言葉を使わないと相手の心に届かない」と思っていた時期が自分にもあったのだけど、そういう言葉が届くのは「そういう言葉が好きな人たち」だけだということに気づいてからは、つまりちゃんと使い分けられるようにならないといけないなという話だとわかった。
う~ん、所謂「面白さ」は…私はそんなでもないですかね…笑 偶に嬉しいことはありますが、どちらかというと、自分が感じたことを書いて発表するというのが、自分を世界に出現させることそのものと感じていて、自分の心のためにやるしかないから駄目って言われたらしんじゃう、という感覚ですかね…🤔
いやそうなんだよな、オタクのテンションみたいなのは本当にオタクだけの話で、オタクたちはTwitterやってる人間みんなそういうテンションみたいに思うけど、別に全然そんなことはなく…。
「書いて/描いて発表しないとしぬ!」みたいなのがたくさんいる世界だと、その表現行為が自分にとって如何に大事かというのがあの手この手で表現されるので、そういう語彙が自分の中にどんどん溜まってしまうという。
文が文を生むという反応に依存しているということなので、「依存」ですからフリーじゃないというか。
その中でも書く時の頭の働きをフリーライティングに「寄せて」、脱線を増やすということはあります。生成AIでランダム度を調節するみたいなことです。そうしてみると、脱線が増えるとともに、核心への気づきも増えるように感じます。枝分かれもしますが幹も太くなるというイメージです。
①「何か書かねばならぬ」→②「○○を書かねばならぬ」→③「これを使って○○を書くべし」という過程の、②からスタートする人もたくさんいるわけですが、①からスタートしている人間が、②からスタートしている人の話を聞いて③に行ってしまおうとしても、②を飛ばしているわけなのでどうにもならないということがあると思います。
建前としては、読了=善となっています(そしてそれにも一応の理由があります)。
多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである。
ソーシャル時代においては、この「我遅れじ」な気持ちが強くなりやすい傾向があるのではないでしょうか。その気持ちに押されて、むやみやたらに本に手を出してしまう。特に読みたくもなく、読んでみても満足度の低い本を手にとってしまう。