2023/02/01-2023/02/10
#採掘場
「私に政治を任せると、感情的で浅学な判断でぐちゃぐちゃにしちゃうのが怖いので、かしこい人(冷静な人)、たのんます」と言う人はいない。
朝の洗面所が取り合いになる。時間制
図々しく、でも礼儀正しく
苦手だ。
ピンチに際して
善でありたいと言う気持ち
原発事故の時も
コロナの時も思ったし、
キーウ防衛戦みたいなことが東京としておこったら、俺は戦争に行くし、相手が騙されて連れてこられた新兵だったとしてもためらわず引き金を引くぞ!とも、当時思った。
男はインテリも嫌い
金持ちもだが
女がゲイがそこにいても好意的なのは、そういう優男の極端系かつ自分のターゲットでもないからで、
男にとっての、きっぷのいい「オカンみたいな女」に近い気やすさなんではないだろうか?
ゲイに感じる男にとっての気持ち悪さは、寄ってこられることよりも、身近な存在が○○になることでは?
娘や妹が身だしなみを気にするようになることを気持ち悪がって、「お年頃なのね」「色気づいちゃって」と、つい無神経にも口にしたくなってしまうような。
男はイケメンのことも嫌い。とくに、線の細い感じ。
じゃあゲイが平均して男よりも体格がよくて、言い寄られたらその時点で勝てないとしたら?
それは気持ち悪いではなく、怖いでは?
オタクに優しいギャルの魅力は、まあもちろん、ヤれそうな美人、ということもあるかもしれないけど、それ以上に、「相手のコミュニティに所属していて相互扶助の義務は必要ないのに、コミュニケーションは難しくなさそう」ということなのでは。
泣かせてしまうかもしれないから、気を遣って接さなきゃいけないとか、ムーディーなところへ、お金を使ってエスコートしなきゃいけないとか、愚痴を何時間も聞いてあげなきゃいけなさそうとか、そういうことをあまり求められなさそうという。
ある種、日本語ペラペラな外国人とかそういう両立感。
人情で社会や制度を変えようとしないこと、
だが人情で変えない理由として良い。
我ながらダブルだが、これはカウンター的発想だから。
サイレントマジョリティの本音
外国人の憲法下での人権の記載
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https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20230130/1675058120
本当は、そういう目立たない苦手を抱えながら案外たくさんの人が生きていたりするのかもしれない。
しかし今、私たちは力を合わせて苦手をカバーしあうのに都合の良いような繋がりと、お互いに深く気にしないようにして生きる常識感覚の、双方を失っているようにみえる。助け合って苦手をカバーするすべも、お互いの苦手に寛容になる常識感覚もなくなれば、あれこれの苦手はカバーされることも許されることもない。社会にあっては好ましくないもの、個人にあっては能力的に問題のあるものとみなされてしまう。
https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/2301230a/2
ぼっちちゃん自身はあまり自覚していないものの、ぼっちちゃんには「こうなりたい」という明確な理想像があり、また、それを実現しようという志がある。そして、それを大事に守る自己愛がある。
この自己愛とは、ネガティブなニュアンスではなく、自分を大切にしたいという思いであったり、自分を肯定しようとする心の働きを指す。
高い理想を抱くが故に、理想の自分と現実の自分のギャップに苦しみ、「理想の姿になれない自分はダメだ」と自己評価を下げてしまう。自分を卑下したり、責めてしまう。
こんなダメな自分は悪く思われても仕方がない。悪く言われても仕方がないと思ってしまう。
しかし、心の奥底では、他人から否定されるという、「決定的な否定」に直面することを怖れている。だから、「誰かに傷つけられる前に自分で自分を傷つける」という、不健全なかたちで自分の心を守ろうとしてしまうのだ。
⇒「傷つきたくないから、自分から突き放してしまう」忘れてたなあ、そんな言語化。
その姿には、時々自分自身の体験や苦悩が重なって心が痛む場面はあるものの、とても共感できるし、やたらとオーバーでコミカルに表現されるので、その様子をフィクションとして受け止めて、消化できる。
だからこそ、ぼっちちゃんの奇行やネガティブすぎる妄想が面白おかしくて、愛らしいと思える。
他を寄せ付けない気迫と拒絶を見せるぼっちちゃんだが、その意地に火を付けたきっかけは、路上ライブでファンになってくれた二人の期待に応えるためであり、観客に結束バンドの本当の実力を見せたかったからである。
自分本位の激情だけではなく、「誰かのために」奮起することこそが、ぼっちちゃんの強さであり、そんな姿が虹夏にとってもギターヒーローと重なって見えたのだろう。
ぼっちちゃんは物語開始当初から、過去のつらい記憶が何度もフラッシュバックしては苦しんでいた。
そんなぼっちちゃんが文化祭ライブまでの思い出を振り返るとき、フラッシュバックするのは美しく輝く記憶だけで、眩しく光る朝に、未来への希望を感じている。
光る朝が 朝が
あまりに眩しい 眩しいからさ
ちょっとさ らしくはない
未来も信じちゃうよ
(結束バンド「フラッシュバッカー」より引用 | 作詞/音羽-otoha-)
ネット社会となった現代では、誰もがSNSなどを通じて、他者と自分を比較し続けることを強いられる。その結果、「自分は特別ではない」、「◯◯に比べれば自分は大したはことはない」というように、つい自分を否定してしまいがちだ。
実際には、ネット上の他者のキラキラした発信も、「その人の生活のほんの一部でしかないもの」であったりする場合も少なくはないのだが、なかなかそれをうまく割り切って生きていくのは難しい。
理想と現実のギャップと戦い続けるぼっちちゃんを見つめているとき、自分が感じている生きづらさや苦しさも同時に見つめている。そうして、ぼっちちゃんに共感することで、自分の気持ちを乗せて物語に入り込める。
気がつけば、後藤ひとりのファンになっていた。自分の気持ちを乗せて応援することで、自然とポジティブな気持ちが湧いてくる。それによって、「自分もがんばろう」と勇気付けられる。活力をもらえる。
自分と同じような苦悩を抱える誰かを応援して、花開いていく姿を見届けることで、苦しかった「あのときの自分」を、少しでも救えた気がする。
TVアニメ版を最後まで視聴して、その勢いのままに原作を最新巻まで追いかけて、放送終了後の名残惜しさをごまかすようにアルバムを聴き続けるなかで、そんなことを考えていた。
実在の人物にせよ、非実在のキャラクターにせよ、何かを好きになって「推す」ことで、「自己と推し」の関係を築いていける。
「推し」という対象に愛情や情熱を注ぐことは、自分自身への愛情を育むことにも繋がり、新たな願望を抱いてモチベーションを高めたり、自分の人生のために努力しようと思えるのではないか。
さらには、好きなもの、推しているものを伝えて共有することで、ポジティブな気持ちをシェアしたくなる。
誰かと体験を共有して語り合うことで、推しへの愛情と、推しとの関係によって育まれる自己愛をより強固なものにしていける。
「ぼっち・ざ・ろっく!」には、そんな風に人を元気づけて、前向きにしてくれるエネルギーが満ち溢れている。
⇒そう、「自分達の(集合の)中から生まれたヒーロー」って感じで、押し上げたくなるんだよな。
https://togetter.com/li/1795324
https://mobile.twitter.com/ichimatu33/status/1454063283044958211
ボカロPとかも最近はそんな感じらしく、一発目がバズらなければ転生して曲発表みたいで
こつこつ積み上げるよりも
「最初からすごい」ってのが今の時代重要なのかもしれん
絵描きもめちゃくちゃ上手い絵描いてる人がフォロワー0とかだったりするとだいたい転生してるとかなんとか
https://twitter.com/f8iso100/status/1454049439950147590
ボカロPが一発目からいきなりヒットした事を装う為に転生するという話面白い。
カメラマンは腕以上に今まで撮って来た相手や作例などの積み重ねが重要なのでそんな事をしてもメリットないが、
音楽の世界だと一曲ヒットすれば充分地位を確立できるので、過去に左右されずそのまま再始動できるわけか。
⇒どっちの心理も、感覚としてはわかる。
https://togetter.com/li/1661489
m @agtnxpgdmt
私の知ってるジャンプは『友情・努力・勝利』なんですけど、いつから『裏切り・地獄・永眠』にシフトチェンジしたんですか?
河上ケイ @koalakko711
むしろ友情と努力と勝利の尊さを引き立てるため、敵はいくらでも謀略するし、主人公たちは地獄のような窮地に立たされるし、友情を築いた仲間がいっぱい永眠する。
昔からそんなもんなイメージ。
ヤシュクク @yasyukukumo
恥ずかしながら数十年読んでる個人の感覚として、もともと『裏切り・地獄・天与の才』だったのが黄金期に『友情・努力を装った天与の才・勝利』っぽくなり、現実世界の熱量低下と共になんかまた元に戻ったな、という印象がある。(あくまで個人的な感想)
https://honz.jp/articles/-/52946
114億時間、アメリカで国民が連邦政府のための書類作成に費やす時間である。
書類作成負担の軽減に取り組みはじめたが、遅きに失し、不十分だった。退任後も継続して書類作成負担のもたらす弊害について学び、成果としてまとめたのが本書である。
スラッジはまだ厳密に定義されていないし、ナッジとの関係性も整理しきれておらず、その時々のコンテキストによって変容する。定義されきっていないコンセプトだからこそ、その揺らぎに面白さがあり、自分なりの発見と結びつける余白がある。
なお、ナッジの批判に対する応答は見られない。ナッジを批判することよりも費用対効果の面で解決するべきこと、つまりスラッジがあるということなのだろうか。
https://bucchinews.com/society/7100.html
柴田 実は高価格帯の太った人向けのアイテムってブルーオーシャンだったんです。今まで太った人はコンプレックスがあるから店舗で服を買わないし、おしゃれをしないっていう発展途上の領域だったから。そこで見出されたのがプラスサイズ市場。なのに、新しい美とか差別反対とか、高尚なことを言うわけじゃないですか。いかにグローバル市場で儲けるかという根本的なことを、口当たりのいい言葉でパッケージしてるだけだと、ポリコレに対しては思っています。
柴田英里(以下、柴田) ポリコレの裏の目的をみんな語らなすぎるんですよ。例えばアメリカのプラスサイズ問題。アメリカって肥満と過体重を合わせると人口の7割を超えるんですよ。だからそもそも「普通」の体型の人なんていないじゃないかっていう話で。
ペドフィリア(※1)を擁護するような発言をしています。ポリコレどころか、犯罪者予備軍とも言えるペドフィリアに寄り添ったところで、得することなんてないように思えるんですが、どういう意図があってのことなのでしょうか。
柴田 それはふたつ、大きな理由があって。ひとつは、もともとセクシャルマイノリティの運動には、ペドフィディアも含まれていたんです。一対一の異性愛で再生産をする、それ以外の欲望として、特に男性ゲイのコミュニティで少年愛者団体があったんですが、国際レズビアン・ゲイ協会が国連の諮問的地位を獲得する条件として排除された。
「まなざされたくない(客体化されること)」って、それはほぼ、成人の女性視点なわけです。「まなざしてくれるな」っていう感情を「私は嫌だ」じゃなくて、子どもに投影してる。いま現在も、公園にカメラを持ったおじさんが来ていて、「子どもたちをまなざすな」っていうのとは違うわけじゃないですか。子どもにお菓子をあげて連れて行こうとするような人が公園にいたら、そこはしかるべき判断が必要だと思うけど、そうじゃない。
――多くの人々は、子どもを性的対象と見る人のことを危険だと考えるし、いうならば「気持ち悪い」って思ってしまうと思うんです。
柴田 「他者ってどこかしら気持ち悪いでしょ」って思うんです。マジョリティ同士だって、趣味が違う、性癖が違うってなったら、どこかしら「気持ち悪い」っていうのはある。
表に出てこないだけで、それを楽しんでる人はいる。表に出てくる言葉だけが全部なわけでは絶対にない。だって表立って「実話BUNKAタブーを読んでます」なんて言わないでしょ(笑)。
男児の欲望が加害的なものにならないように、幼い頃から訓育するっていう価値観ですよね。かつて「女なんだからおしとやかにしろ」と、受動的であれ従順であれという抑圧をされて、自分たちが嫌だったことを、自分より小さな男の子に「男は加害的な存在だ」ってやってるのって、“復讐する毒親”みたいな感じ。
太田啓子さんって、離婚とかDVとかの「男性が加害、女性が被害」っていう案件に日常的に携わっている人で、さらに自分も離婚なされていて、シングルマザーっていう背景があるから、彼女の視点って、かなりバイアスがかかってると思うんですよ。弱い立場の女性に寄り添う姿勢はご立派ですが。
柴田 ♯MeTooも同じで「こういう体験をしました」っていう、その一次情報がどれだけ正当なのかを精査しないまま、リベラル系メディアが、いかにもこれは正しいエビデンスだっていうように二次利用、三次利用で拡散している。
https://bucchinews.com/mobile/society/7101.html
あの人って女子校出身で、かっこいい女性の先輩に憧れもしたけど、「私は女なんだから男の人と結婚して、子どもを作らないといけない」って必死にがんばって思い込んで今の道に行ってる人だから、あの人が「男同士、女同士はおかしい」って言うたびに、非ノンケ的くそレズしぐさだなって(笑)。燃えるのもわかってて、あえてアレを言わざるをえないっていうのも、クイア(※4)だと思うんですよね。
――ご本人に「クイアですね」っていったら顔を真っ赤にして怒りそうですが……。
もちろん餓死したり、補償を受けたいのに受けられないのは、社会的な問題として是正されたほうがいいと思いますけど、
柴田 「社会に貢献したい」とか「生産性を向上させたい」っていうマイノリティも、そこまで多いのかは疑問です。
もともと社会の生産性なんてクソくらえって思ってる人もいて、彼彼女らに、「あなたたちは可哀想な存在じゃないですよ! 怒れ!」って言ったところで、「そうですね、生産しないですね、フリーライダーですみませんね」で終わる話。
⇒支援を打ち切られるとかの実害がなければ、「非生産的」という汚名というか蔑視を向けられることはどうでもいい、という人もいるはずだと。そうかもしれない。
まあ、支援を得続けようと思ったら、実際には大義名分や貢献が必要だろうとは思うけど。
杉田発言が無条件に燃えることが親LGBTなのかは考えた方がいい。
フェニミストの方たちの怒りの矛先が向かってきそうですが、「名誉男性」とレッテルを張られることについてはどう思いますか?
柴田 「名誉男性って、どのような基準で決めてるのか教えてください」って言っても、誰も教えてくれないんですよね。それこそが客観性じゃなくて、自分の認知の上で主観性で他者を判断してる証明だと思うので、「イエーイ、名誉男性です」って言いたくなっちゃう(笑)。
実はインセル(※5)の主張なんかは両義的で、表面的には女性差別言説でしかないんですけど、逆走してフェミニズムみたいになってるところがあるんですよ。かつてフェミニズムは、一対一の異性愛の規範的な家庭を、ラディカルに壊そうと闘っていた頃があったんですが、インセルの「すべてのモテない男に女をあてがえ」っていうのもラディカルな破壊です。だって、「人間としてやっていくことはどうでもいいんだ、俺は動物として繁殖したいんだ」って、もはや「人間」であることからの撤退ですよ(笑)。この人たちの意見を100パーセント尊重すると旧来の社会規範は壊れるし、「動物」的欲望も無視できない。
⇒まあ、そういう主張をする人は、交配したいというよりは、そんなふうに規格的につなぎ合わされても家族にとしてやっていかせてもらえると思っていると思うが。つまりむしろ、“合同結婚式”的な願いがあると思う。まあ、やったら「旧来の」家族観は壊れるのは違わない。
柴田 いまの権力の非対称性でいうとインセル側のほうがどう考えても小さい。彼らはツイッターで過激につぶやいて、たまに凍結されるくらい
⇒まあ、インセルはそうか。力を実際に持ってるのはアルファオスだもんな。
そして、アルファオスは、害もなすが、外見や動作がキモくはない……、というかむしろ能力や自信が魅力的でもあるんだろうな。
かたやフェミニズムは、ハフポストやバズフィードみたいなメディアをはじめ、日々トレンドワードとして出てくる(中略)。各自治体に女性センターはあるし、自民党の政権でも女性活用とか男女平等がアジェンダとして入っていて、政府や学校や会社で“正しいこと”として動いている。組織力も財源だってある。それって権力側に入ってることじゃないですか。
柴田 気持ち悪いと思うのは、日曜日にディズニーランドに行ってる家族。「この人たちは、セックスとかしてることを隠しながら、健全な家族っていうパッケージを運営されてるんですね」って。
⇒そう、必須なのにそれを隠すのが自然という文化って、どのようなメカニズムで発生して、どういう選好で維持されてるんだろう。
仲人みたいな人も嫌ですね。勝手に人と人をくっつけようとしたりとか、あれのほうがよっぽど社会のハラスメントっぽいよな。
あとは、ナラティブっていうんですかね。勝手に物語的に、「ほら、こんなかわいそうな人がいた」って掲げて、社会を良くしようと思ってる人は、わたしの敵なのかもしれないと思うし、それを推し進めるメディアは気持ち悪い。
https://mobile.twitter.com/m_okaneya/status/1593538847085719552
日本に住む外国人の方はよく「日本の野菜は水っぽくて味が弱い」と言い、親世代は「最近の野菜は味が薄い」という。
だから、国会図書館に行って60年くらい前のレシピを漁っていたら、カリフラワーのゆで時間は10分で、ほうれん草は重曹を入れてゆで、小松菜にもアクがあり、何かと野菜が逞しかった。