2022/11/21-2022/11/30
#採掘場
研修で、「しゃべるときの、あー、とか、うー、とかを止めてみましょう」ということをやった。
もちろん、無駄な身ぶり(落ち着きのない手とか)も、意識して止める。
(言葉を探してあうあうしているというよりは、謙虚ある中で勢いをつけるために、前の歩を突き捨てているような感じだから、本当に無意識なんだよな。申し訳のないお願いをするときには、頭の中に話したいことが入っていないわけではないと思う。)
これがまあ、めちゃくちゃ苦しい。
まあ、自分の世界に入ってはいけないということだ。相手の望む姿で、ただ存在してあげることそのものに、全力で意識を向けてやるということだ。
それは、一定時間における、発想や気付きの多いモードではないかもしれない。
ただ、それでもそれもまた、ありかもしれない。
「やりたい!」衝動ではなく、「やってよかったなー」という実感を繰り返し学習した結果生まれる動機こそで自分をドライブすること。
喜んでもらえてたし、達成感も相待って、やってよかったな、という事後のモチベーションの学習
リストを作らないと忘れてしまうほどの量があると、タスクをやる前に自分ごとにしておく暖機運転時間がない。
リストが1つ消せても、次の行が全然やりたくない。
(関西の)笑いの不寛容性
いじるれものにしか存在価値がないような
おもしろがりの、非包摂
みたいな話をどこで読んだか思い出せない。
女の人は(相手が同性異性に関わらず)気遣いをしていないということはないのだけど、
それを男性から見ると、
そこにはもちろん、力や異文化もありつつも、
他にも、「いていい」と思わせてくれる波動
『気遣いを恋と勘違いする男、優しさを愛と勘違いする女』
実際に読んでみると、よくある恋愛マニュアルの範疇の実用書なのだけど、タイトルに強く惹かれる。
「地図が読めない…… 」とかよりは、はるかにワクワクするタイトルだ。パッと目次を読むだけで、そういう脳や心理の本でないことは分かるのだけど、そういう深めがあったら読みたい。
その部分を要約するなら、女の人は脳生理的に不安を感じやすいので、
というのと、
こがわみさき
魅惑のビーム
でんせつの乙女
セツナカナイカナ
スコアが出せないときほど、怒られたり失望されたり
怖くて、イヤホンで不快刺激を塞ぐよう
態度が悪くなる
複数の顔を持てば、どれかでひどい目にあっても別の居場所がある、という言われ方はあるけども、それぞれの居場所で自分の酷使が起きて「どいつもこいつも」感が高まるパターンもあるんだよな。
三節棍を知った漫画
とびっきりからっきし
自分でやらなくちゃいけないくらいだったら、何もしたくない。
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https://tunnellingchannel.substack.com/p/6da
台風や地震の性質を理解してれば──たとえその現象を支配下に置くことはできなくても──そのやり過ごし方が研究できるように、自分というのもそれについて知っておくと、起きてくる「自分的反応」にいくらかは対処できるようになってきます。だからこの実験観察は実に「実用的」でもあるのです。
たぶん、「自分のことを知りたい」という気持ちは、一つには自分を把握し、完全に理解したい、というある種の支配欲求の側面もあるでしょうし、もう一つには私のような常に未知なる存在としてその対象を観察者として眺めたい、という側面もあるでしょう。
https://note.com/rashita/n/ne8b5037b533a
こういうのを見返ると「Nice Hack!」と声をかけたくなります(もちろん、実際はかけません)。
e-linkのKindle端末は他のノートアプリなどが使えないので、情報を保存したければ自前でなんとかするしかありません。もちろん、電子書籍なのでリンクが使えるのですが、どう考えても本文とリンク先の「行ったり来たり」は面倒です。
https://rashita.net/blog/?p=31200
しかし、この手の話題にマニアックになってしまうとそうした日常感が薄れ、代わりに専門家感が生まれてしまう。特に、他の人に「この方法は良いですよ」と説得的に語ってしまうとその傾向は強まる。自分で言ったことに、自分で縛られてしまうのだ。そして、ちょっとした「逸脱」ができなくなる。
はたしてこれは自由であるのか、そうでないのか。難しい問題だ。
⇒「ほぼ日」は、もう使ってないんですか? とか。
https://togetter.com/li/1427220
「ここは描きたいシチュなんだよね でもいる? この子の個性を描きたいんだったらその前のココだよね ココもいらない ココもいらない わかるよこの子を描きたいんだよね でも必要なのはココでしょ ほらココも もうわかってるから ココで 
よしコレでもう一回描いてみよう (続く)
そもそも「聖闘士星矢」とか、めっちゃ女性差別だけれど、「じゃあ女性聖闘士をメインで増やそう出そう。瞬を女に」とか言いだしたら一番ガチギレしたのは女性だったよね。
「ふざけんな」
「何もわかってねえ」
「そこは一輝ねえさんだろ!!」
という数多くの怒りのメッセージが寄せられた。
瞬はたしかに、あの五人の中で「ヒロイン枠」なんだよ。車田先生自身「かわいこちゃん」というコンセプトで作っている。女性性を持ったキャラだが、それが男だったとしても、なにもマイナスにならず、それどころかさらに輝きを持つキャラとなったのが、瞬の功績なんだよ。
同時に、一番「男らしい」キャラな一輝だが、仮に女性化しても魅力はかげらないどころか、この人元々が「ひねくれているが誰よりも弟たちを大切にしている」という仁性の人で、ともすれば男性以上に良キャラになる可能性があった。
「自分は星矢を愛しているのか、それとも星矢に勝てないから、愛するという形で、自己の保身に走ったのか」自分の感情がわからず、悩むのですよ。戦士である自分と、女である自分との間で、苦しむわけです。
まぁアテナまだ十三歳ですからね。中1か中2ですよ。他の作品ならロリキャラで通りますよ。そらまぁ、アレなことも言いますしやります。多分、二十歳超えた続編作品とかではたまに思い出して「あ~~~~」ってなっていると思うんですよ、沙織さん。
「リングにかけろ」とか今思えば斬新極まりないですよね。「主人公よりも高い才能と熱意の持ち主だったが、女子ボクシングがなかったため世に出られなかった」とか。
@sow_LIBRA11 菊だけを見ると、完全に少女漫画文法を書いてきているんで、なんであんなのが書けちゃうのか不思議なんですよね。車田先生。
@nakatsu_s そこはもう「野生の天性」で行き着いたんだろうなと思います。あと十年遅かったら、もしかして少女漫画家として功績を残されていたかもしれませんね。
車田正美先生は、ジャンプ的な少年漫画の極地を描けるくせに、リンかけの菊姉ちゃん廻りは完全に少女漫画だし、聖闘士星矢の世界観設定は、ファンタジーが本来的には苦手なはずのジャンプなのに、後の角川オタク漫画にも匹敵する世界観強度もあって、明らかにおかしいんですよね。
@sow_LIBRA11 根本は人情ものが好きなのが、少女漫画感性と響き合うのでしょう。でもそれ以外にも聖闘士星矢のファンタジー世界観とか、リンかけドイツ戦周りの面白科学理論や陰謀論的ストーリーとか、当時、1人の漫画家が持つにはおかしい属性の持ち主なんだよなぁ。
@nakatsu_s 車田正美氏本人には、オタク的要素なんてクスリにしたくても無い様に見えるんですけどね…
@nakatsu_s 何度か言及してますが、豪快なように見えて実は計算高い(無意識部分も含め)な作風なのと山田風太郎→横山光輝→車田正美という系譜で受け継がれたエンタメのロジックが当時のジャンプ(&少年向けエンタメ全体)の流れにがっちりハマったというのはあると思います。
@nakatsu_s 『星矢』なんて『男坂』の失敗を踏まえて「アニメ化を目指すので玩具化しやすい要素を導入する」「女性ファンを逃がさぬよう、従来の巨漢やおっさん顔はレギュラーから外す」ですからね。
ああ、そうか。『星矢』がまさに「女性ファンを逃がさぬようウケが悪い要素は抑える」「アニメ化を目指して玩具要素を導入」「ただし、自分がウケてる部分は辺にいじらない、曲げない、捨てない」で成功したサンプルなんだよな。 twitter.com/kasai_sinya/st…
聖衣はいわば「着る変形ロボ」だが、なんでロボ漫画そのものにしなかったかというと、搭乗型ロボにすると「少年たちが生身をぶつけ合い、傷つきながら熱く戦う」という車田漫画の魅力を損ねるからだ。
あの頃の車田正美の怪物性。『リンかけ』の「倒した敵を仲間にして倍々ゲームのトーナメントバトル」というその後のジャンプを席巻するシステムの完成と定着もそうだけど、実は『風小次』聖剣戦争編って「既存の元ネタにあまり依拠しない創作神話」のさきがけでもあるんだよな。
@kasai_sinya 思えばDBって「何玩具にして売れってんだよ」って感じに大誤算な気もします当たったの
@kedamono_ya そのあたり「玩具・模型メーカー主導、アニメオリジナルのロボットものの時代」と「人気漫画のアニメ化、商品化要素はどうにかねじ込む時代」の端境期なんですよね。
もうちょっと後になると「映像ソフトそのものを売る時代」が来る。
@nakatsu_s 『男坂』は本宮ひろ志的な番長国盗りモノを世界レベルにブローアップし、落合信彦路線を目指したんだけど、結果的に「地に足がついた、地味な話」になってしまった。『星矢』はその反省を活かしギリシャ12神編路線で派手にファンタスティックに。
@nakatsu_s 実は『男坂』ではアメリカ=世界の頂点なんだけど、作品そのものが(当時一度)打ち切られたため印象に残らず。
『星矢』だと神秘イメージを損ねるからか、出身地・修行地レベルでもUSAはない。北米大陸だとベアー檄が該当。
@nakatsu_s 比較すると『男塾』だとJがずっと主人公グループの重要キャラだったりアルカトラズ刑務所やら早撃ちガンマンやらも出てくるんだな。
@kasai_sinya @gishigaku とりあえずスケールと参加人数が打ち切りまでエスカレートしていくトーナメントバトルと串団子方式のバトルものに、主人公の代替リセットとパワーを可視化しキャラクター化する新機軸を持ち込んだのは、荒木飛呂彦の最大の功績だと思います
@toshizoaraki @guo_same 「美形男性を脱がす」「美少年をいじめる」「兄弟の骨肉の争い」が《少年漫画好きの女性読者》にウケるというのは、おそらく『アストロ球団』を参考に強化したポイントだと思うのですよ。
@nakatsu_s ヤンキー系とオタク系をつなぐ特異点。ジャンプの番長系としては、本宮→車田→原哲夫が保守本流で、本等に書きたい不良番長モノを描くと「未完」になる点も同じで、「猛き龍星」でこの系譜は終わったと思います
@nakatsu_s けっこうお色気も描けたり。
コミックス表紙の菊姉ちゃんのお色気は、現代ならなかなかOKされないのではないのでしょうか。
@OOEDO4 作品完結10年は熱気が残っていて、20年で語りたい人が出てきて(評論は反発もある)、30年経つと学術的にも語ったほうがよくなる&最後のビジネスチャンス、40年以上経つと歴史的作品の顕彰の時期になっていくんですよね。ジャンプが男女どちらのものかみたいな話の中でも注目浴びてよかった。
https://threadreaderapp.com/thread/1593699016289976320.html
「リベラルがなぜ嫌われるのか?」というテーマが盛り上がっているようですが、政治哲学の分野では50年ほど前に盛り上がったことがある話題なので、簡単にご案内します。リベラルの中の人の属人的な資質の問題ではなくて、あくまでリベラルが抱える理論的な問題だからです。(1/n)
今から50年ほど前に盛んだったその論争は「リベラル=コミュニタリアン論争」と名づけられています。当時は抽象的な議論に感じられたはずですが(実際抽象的だったわけですが)、理論哲学で議論されたことは2世代(大体60年)ほど遅れて世俗社会にあらわれてきますので、(2/n)
今から振り返ると意外と味わい深く感じられるところもあるのではないかと思います。どちらかというとnoteに書くような内容なので冗長になりますが、書きながら考えているところもあるので、ご容赦ください。明け方前に目が冴えてしまって寝つけないハリネズミの戯言であります。(3/n)
1971年、ジョン=ロールズというハーバード大の政治哲学の教授が一冊の本を出版しました。タイトルは“on the theory of justice”、邦題は「正義論」といいます。この本は理論リベラリズムの革命と言われていて、今日的なリベラリズムの理論的な骨格をつくった本といっても過言ではありません。(4/n)
中身が800ページほどある鈍器本なので内容は非常に多岐に渡りますが、今回のツイートに必要なエッセンスということで要約しますと、「功利主義批判」です。
“正義とは最大多数の最大幸福であること”を旨とする【功利主義】がアングロサクソン社会を支配する倫理哲学として機能する中で、(5/n)
功利主義の負の側面が現実社会に致命的な悪影響を及ぼしているのではないか?とロールズは危機感を持ちました。意外なことに日本人にも関係のある話題でして、というのも彼は太平洋戦争に従軍してまして、フィリピンで日本軍と戦っているのですね。原爆投下直後の広島も目撃しています。(6/n)
原爆投下の道徳的な根拠の一つは功利主義です。実際マンハッタン計画を統括したスティムソン長官は、原爆投下によってより多くの米兵と日本人の命が助かると考えました。「最大多数」の「最大幸福」。これが原爆投下の道徳的な拠り所です。しかしロールズはこれを端的に誤りだと考えました。(7/n)
事実彼は1995年に“50 Year after Hiroshima”という論文を書いて功利主義原理による原爆投下の道徳的な正当化を批判しています。
彼の功利主義批判の本質は何かというと、「功利主義的は少数者の不幸を道徳的に正しいこととして認識させ、事実そのように行動させてしまう」という点にあります。(8/n)
それでは功利主義の何をどう考えたらまずいのかということですが、「功利主義は最大多数の最大幸福と言うが、もし自分が抑圧されるマイノリティーの側だったとしたら道徳的に正しいと賛成しないんじゃね?」ということです。(9/n)
アメリカ人だって自国に原爆が落とされるとなったら、いかなる理由があったとしてもどれほどの人が賛成するでしょうか。功利主義は現実の社会運営に支障をきたすほど“ダブスタ”な考え方なんじゃね? それって普遍的な正しさとは言えなくね? というのがロールズの問題提起でした。(10/n)
そこで彼が考えたのが「だったらどんな立場や境遇の人でも賛同できる社会こそが最もダブスタじゃない正義的な社会なんじゃね?」ということでした。彼は“無知のヴェール”として有名な思考実験を考案するのですが、その解説はネト記事などにお任せして先に進めます。(11/n)
juse-p.co.jp/files/download…
どんな人でも正しいと考えられることはそうそうあるものではありません。ロールズは、「社会的に正しいことというのはそんなに多くはなく、公正な社会を支える必要最小限のものに留まる。それ以上のことは正しさというより多様性の問題なので、お互い寛容でいようね」的なことを主張します。(12/n)
あらゆる人の立場や視点を入れ替えても成立するルールが、今日的なリベラリズムが構想する正しさの基準です。ゆえに反差別主義的。よく勘違いされるのは、相手はAだと言っているがその理論を使うと逆に私の言うことが正しくなっちゃうから論破〜という思考法はリベラリズムではありません。(13/n)
仮にバカとアホが口喧嘩していたとして、二人の立場を入れ替えたとしても、それはアホとバカの口喧嘩になっただけです。それはただの低レベルな口喧嘩なのであって、普遍的な議論ではありません。反転可能性テストなのではなく、ただのミラーリング(嫌がらせ)なのであります。(14/n)
さてこのようなロールズのリベラリズム哲学ですが、究極的なポイントは「功利主義のように考えると、道徳上致命的に問題のある局面が浮上する」という道徳哲学批判になります。ここを踏まえて次に進みます。
良かれと思って構想されたリベラリズムが、なぜこうも嫌われる考え方になったのか?(15/n)
一つの答えは、そして少なくない人が認識しているのはおそらく「中の人問題」です。リベラリズムというのは本来はいいこと言ってたのに、中の人が本来のリベラリズムをちゃんと勉強していなかったり、そもそもあんまり賢くなかったりするからこんなことになってしまったんだ、的な認知です。(16/n)
これも少なからず正鵠を得ているとは思いますが、「いやそうではない。中の人がまともだったとしても、ロールズのいうリベラリズムには道徳的な考え方として致命的な欠陥がある」的なことを真面目に言い出した人たちがいました。コミュニタリアンと呼ばれる人たちです。(17/n)
それが1980年代にアメリカの政治哲学界で盛り上がった「リベラル・コミュニタリアン論争」です。概要を簡単に説明します。(18/n)
コミュニタリアンというのは日本語で「共同体主義」と訳されます。個人を社会の出発点だとみなすのが個人主義だとすると、個人を育て上げるのは共同体なのだから共同体が社会の出発点になると考えるのが共同体主義になります。
さてそんなコミュニタリアンがロールズをどう批判したか?(19/n)
この批判がいかに哲学的(抽象的)なものだったのかを感じていただくため、ここからはある論文から原文ママで引用します。「リベラル・コミュニタリアン論争再訪(宇野重規)」です。抽象的だからこそ、40年後の今でも(今でこそ)示唆的に響くところがるように感じます。(20/n)
“サンデルは、負荷なき自我(unencumbered self)」という概念を提示して対抗する。ロールズがいうような「無知のヴェール」をかけられた原初状態における人間とは、いわば歴史的・社会的な属性をはぎ取られた、抽象的な自己に過ぎない。→(21/n)
“しかしながら、そのような抽象的な自己に、はたして道徳的な判断ができるのだろうか。人間は歴史的・社会的に状況づけられて生きている。そのような状況と切り離された人間は、いわば剥奪された自己でありそのような自己はいかなるものにも愛着をもてず→(22/n)
「自分はいかなる存在なのか」について内省することもできない。したがって,そのようなロールズの議論では善を選択することも、正義を構成することもできない、というのがサンデルの結論である。”
はい、何を言ってるかさっぱりですね。わたしもつい数年前まではそうでした。(23/n)
サンデルが何をそんなに躍起になって批判しているのか、わたしがその意味が肌で感じるようになったのは、昨今のキャンセルカルチャーを目の当たりにするようになってからです。彼らのリベラル批判はキャンセルカルチャーのリスクを警告したものだったのだと、腑に落ちるようになりました。(24/n)
ここは解説が必要になると思いますし、ようやっとわたしのツイートの本旨になります。先ほどの宇野論文の記述を再確認します。
「『無知のヴェール』をかけられた原初状態における人間とは、いわば歴史的・社会的な属性をはぎ取られた、抽象的な自己に過ぎない」という部分です。(25/n)
これはどういうことかというと、【相手に反差別的に考えることを求めるということは、相手の「歴史的・社会的属性をはぎ取って」、いったん丸裸な個人になることを要求する】ということなんです。
はい。これ、キャンセルカルチャーの論理なんですよね。(26/n)
相手の職業というのは、運も含めてその人物及び共同体の歴史的・社会的属性の結実に他ならないわけです。なので、その職業というものをキャンセルして(はぎ取って)、丸裸になった個人になって考えてみれば反差別的な物の見方もできるようになるだろう、と。(27/n)
差別的な人間が反差別的に物事を見るようになるためには、自分に内面化されている共同体との歴史的・関係的な結びつきを一旦はぎ取られることを要求されます。その過程の中で、共同体の中に位置づけられた人間は「剥奪された自己」に貶められ、→(28/n)
「愛着をもてない、自分がそうなりたくはない自己」になってしまう。サンデルはそれをリベラル本人が自分に対してそうなってしまうことを危惧したわけですが、まさかのまさか、サンデルの当時の予想を超えて→(29/n)
現実社会はリベラル的思考がそれを「他人に対してやってしまう」というステージまで到来してしまったのだと、個人的には総括しています。
実際、ロールズはサンデルらの批判を一部受け入れ、約20年後に「政治的リベラリズム」というこれまた大著を執筆します。修正点としては→(30/n)
「自己にかかる負荷(共同体における歴史や社会的な属性)をはぎ取って考えるのは、あんまりいい考え方じゃなかったね」ということです。
ロールズがもともと功利主義批判から出発したことを思い出してください。(31/n)
彼の問題意識としては、「功利主義には機能する場面もあるが、道徳的に重大な局面で致命的なミスリードを生んでしまうことがある(ヒロシマに対する原爆投下等)。だから考え方自体を見直そうぜ」ということでした。(32/n)
なので彼はサンデルらから「功利主義が危険だっていうのはわかるけど、あなたのいうようなリベラル的な考え方も理論的にリスクを抱えるんじゃね?」という批判を真摯に受け止め、自論を修正したものだと思われます。(33/n)
ロールズからすれば無知のヴェールはあくまで思考実験で、「自分がヴェールをかぶって一旦あらゆる属性から解放された状態になれば、自分が不利な立場にいる可能性もあるわけだから、損得勘定で考えてみてもある立場の人が特に不利になるルールには賛成しないんじゃね?」ということでしたが、(34/n)
サンデルらから「いやいや。まじでそう考えたら、やばいから。普通に考えて自分の属性を一旦はぎ取るって考え方自体がかなり危険でしょ」という突っ込みを受け、「ぐぬぬ。確かに」となった。まぁそんないきさつだったと理解しています。(35/n)
かといってリベラリズムの敗北とか退場ということでもないのだろうと思っています。ここまで功利主義、リベラリズム、共同体主義という三つの政治的哲学が出てきましたが、大事なこと(そして最も教訓的なこと)は、どの哲学にも「絶対最強」というものはないんだろうということです。(36/n)
功利主義、リベラリズム、共同体主義。この三つの異なる政治哲学は、むしろじゃんけんのような三すくみの関係なのではないでしょうか。(37/n)
マイノリティーを抑圧を正当化する功利主義はリベラリズムに批判され、
共同体の中に生きるリアルな“生”のキャンセルを求めるリベラリズムは共同体主義に批判され、
そして異なる共同体同士の争いを調停するための原理を持たない共同体主義は功利主義に批判される。
そんな関係。(38/n)
社会はより公正であるために「三権分立」の仕組みで世の中まわっていますが、政治哲学に関しても功利主義、リベラリズム、共同体主義の三権分立で社会がまわっていると考えるのが健康的なのかもしれません。(39/n)
それぞれ言うこと考えることもごもっともではありますが、「それぞれ批判し合って当然。絶対正義原理はない。むしろそれが社会として健康的」と考えることが社会で生きるうえでは現実的だし、何よりリアリズムということなのかもと最近はつとにそう思います。(40/n)
先ほどロールズ晩年の著、「政治的リアリズム」を紹介しましたが、主な主張はこんな感じです。この点、井上達夫の指摘が簡潔なので、そのまま引用させていただきます。(41/n)
「ロールズが言うには、リベラルな社会では、宗教的、哲学的な立場が多元的に分裂しているから、論争的な哲学的立場に依拠しないと受け入れられないようなそういう正義原理じゃダメだ、と。→(42/n)
じゃあ、何がその支えになるかというと、ロールズが言うのは「重合的合意(overlapping sonsensus)」。どの哲学的、宗教的な教説からも、理由は違うけど、結論だけ共有できる。「同床異夢」的に。そういうのを、「オーバーラッピング・コンセンサス」という。”(43/n)
理想的リベラリズムから出発したロールズが晩年は「政治的現実主義(リアリズム)」に逢着したのは、個人的には含蓄深いものがあると感じています。
ということでリベラルはなぜ嫌われるのかというと、「そもそも理論的にそういうものを含んでいるから」というのが今のわたしのアンサーです。(44/n)
ちなみにわたしの自認はリベラルでフェミニストです。長い長い連ツイでしたが、もし最後まで読んでいただいた方がいたとしたら、その方がいちばん寛容な精神をお持ちな方なんだろうと思います。お付き合いありがとうございました(45/45、了)。
https://note.com/sasakitoshinao/n/n7b1d40d26f6c
1947年生まれが60歳になる2007年ごろには「団塊の世代が大量退職すると、仕事のノウハウやスキルが継承されにくくなる」と心配され、「2007年問題」という言葉もありました。
たしかに団塊の世代は2010年代に定年退職して、リタイヤ生活を楽しむようになります。ツイッターが2010年代に第二次安倍政権成立などで非常に政治化していき、暢気な発言ができにくくなっていったのも、団塊の世代の流入が原因だったのかもしれません。
ちなみにメディアの力というのは、必ずしも実体を伴うわけではありません。現時点でも新聞が実際には影響力を減らし、SNSのほうが世論への影響力を高めていたとしても、たとえば永田町の政治家たちが「新聞には影響力がある」と信じていれば、それが幻想であっても影響力は維持されてしまうのです。
https://blog.tinect.jp/?p=79225
現地の人たちからしても、中国は欧米のように搾取をしてこず、日本よりも意思決定が早く、経営に余計な口出しをしてこないという事で、「カネは出すが口は出さない国」と、受けが良いのだと聞いた。
逆に、今回恥ずかしながら私は「国益」、「日本人であること」あるいは「欧米、中国に負けないように」を真面目に考えたことはないと、痛感した。
しかし、ジブチを見て、本当に重要なことから逃げているのではないか、と少し考え直した。
https://togetter.com/li/1980245
https://togetter.com/li/1980657?page=3