2022/10/01-2022/10/14
この素晴らしい世界に祝福を!
いや、この読みやすさはヤバいな。1日に3冊とか読んでしまっている気がする。
読みやすいからと言っても、読める速度が極端に上がるということはあり得ないし、文字が1冊当たりすごく少ないわけでもないだろう。要するに、時間がそれだけ奪われまくっているのだ…!
「しょうがねぇなぁあああ!」
は、ともかく、「いってみよう」が何かの台詞だったか印象に残ってなくて、登場巻を検索かけまくってしまった。
なんで城内おおだちまわりの巻に入れておかないんだ!
思考サポートの技術とか、
じぶんマネジメントの技術とかか。
インドネシアのスタジアムでの暴動で多数の死者が出た事件で、NHKがあたかも暴力が主原因で170人以上が死んだと取れるような報道をしているが
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はっきり言って間違いだと思う。素手の暴力でこんなに死者は出ない。
一方、雑踏の事故では簡単にこれだけの死者は出る。
観客席に催涙弾を撃って視界が乏しくなった客がパニックになったらどうやったって雑踏事故になる。観客席は階段状でそこに下り階段があるという構造ゆえ先が見えなくなるから普段でも危険な構造なのだ。
警察は司法権力機関であるだけでなく、行政としても強い権力を持っている。
だから雑踏に関しても命令する権限があって、人が集まるイベントを届け出なくやったりすると怒られるわけだ。
店の外の行列を放置していれば「ちゃんと店員か警備員雇って整理しなさい」と言われるし
警備業というのは監督官庁が警察になっていて、更に警察官の天下り先でもある。また社長が警察上がりというケースも多い。
元々警備業はボディガードなどから派生して色々な形態の警備を請け負うようになったのだが、実はその前から同様の警備請負をする人士達が居た。右翼である。
右翼はボディガードだけでなく労働運動潰しなども請負い、暴力の行使や時に殺人も行っていた。更に昔の右翼はヤクザと不可分の所も多かった。
警備請負というのは暴力からの防御という仕事が多い。それは即ち対抗するための暴力だ。
一方、警察というのは国家という暴力装置の実行装置だ。暴力装置たる所以は暴力の独占であり、警察をコピーした暴力が世間にあってはならない。
因みに以上の経緯から警備員の装備というのは厳しく制限されているよ。例えば警察署の前で長い棒をついた私服警官が立ってる事がよくあるが、あれは実は軍隊と同じ立哨で立ち方も決まっている。持っているのは「警杖」なのだが、あれを警備員が持つことは禁止されてる。警棒の長さや形に制限がある為だ。
兎に角暴力装置の代替はダメなのだ。
雑踏警備での鉄則は「一方通行」と「ボトルネックを無くす」である。これは群衆が流体のような動きをするからだ。
一方通行にしない場合にどうなるというと、「クサビが噛み合った状態」になる。
例えば広いところの間にトンネル通路がある場合で、通路の両側から群衆が押し寄せた場合、通路の入口では「通路の半分からはみ出さない」という動機が働きにくいので通路のほぼいっぱいに広がって進行する。
だがこれは反対側でも同じなので、出口付近では人一人くらいの隙間をぬって通る事になる。
これは上から見ると三角形のクサビが噛み合っているような状態になる。効率的には最小化だ。
後ろから押されているので隊列が狭くなると群衆密度が増す。だが人は一定以下では足の歩みが出来ないので押されてやがて転んでしまう。
後ろの人間は前で起きていることが見えないので前にどんどん進行してくる→それらも更に転倒する、となって、転んだ人とのその手前の人間には数百キロ~数トンの圧力がかかり、皆死んでしまう。
地下鉄高田馬場駅の改札はホーム端の先にあるが、2004年頃の改築でホーム中ほどから改札への通路を増設した。
出口は一緒だから一見無意味な改造だ。だが長い通路で吸収して階段の手前で滞留する客がホームに溢れるのを軽減する効果があるのだ。
日本の警察は雑踏事故防止に関しては極めて有能なんだが、その反面「人が集まる事」を嫌いすぎるきらいがある。
広場否定論なんだな。あんまり人が集まるのを封じてしまうと今度は現在のロシアみたいな事になってしまう恐れもある。
で、最近だと東京駅や池袋駅西口、渋谷駅(予定)みたいにロータリーを追い出して広場を作るという方に行政の方がシフトしてきている。
そういう戦後史と行政史の果てに出来たのが「新宿西口献血ルーム」で
警視庁と東京都は、別にギター持って屯してた連中と暴動は関係なかったが、万一を恐れて乱雑にこの区画を閉鎖してしまった。
時代が下って最早反体制なども流行らなくなり、閉鎖区画のせいで逆に荒んだ状態になっている元地下広場の有効活用として即売会や催事場としての活用をするようになった。
初めはしょぼかったが、やがて政策アピールの掲示や地産フェアなど商売がうまくなり、綺麗な内装もされて有用なイベントスペースとなってきて人の流れも出来てきた。
そこで対面に献血ルームが出来る事になったわけ。
西口献血ルーム」でそこに掲出されたのがあの宇崎ちゃんポスターだったってわけだ。
あの騒動は色々感情的過ぎたが、でも一方でその辺知ってるとアゴラの復活でもあったって訳なんだな。
上記のように日本の警察は雑踏事故防止に関しては極めて有能なんだが、その反面「人が集まる事」を嫌いすぎるきらいがある。
広場否定論なんだな。あんまり人が集まるのを封じてしまうと今度は現在のロシアみたいな事になってしまう恐れもある。
懸命に働いたときの成果として意識されることが多いのは、一番左の物的労働生産性(生産/労働)である。例えば、メーカーでどれだけ多くの製品を所定の労働時間で生産したかなどを表したものだ。しかし、物的労働生産性を改善しても、適切な値付けを行い、利幅を確保できなければ、付加価値労働生産性(赤線で囲まれた部分)や賃金は改善しない。
⇒んー? 薄利多売みたいなことをしていてはダメということか?
ひろゆきさんの在り方は好きになれないので、こういう↑メッセージが出てくるのはよく分かるし共感できるけど、
ツリー全体の、↓
対象に真剣に向き合い、調べて考えると、「おかしい」ということに気付いてしまう。自分の頭で考えて、それを発信する人が増えると、いまの政治体制は
維持できなくなってしまう。
(中略)
日常的に当たり前に、それこそ“カジュアルに”、子どもからお年寄りまで沢山の人たちの間で政治的なことが毎日真面目に語られ始めるようになると、選挙に行く人が増え、いまのような暴政も許されなくなる。
そうした「気づき」と「目覚め」を徹底的に警戒して、
抑え込まなければならない。統治する側にとってみれば、至極当たり前の「対策」だろう。
ネットは便利で簡単で、瞬時に莫大な数の人の心に訴えかけられる。その飛び道具がもたらす「公共空間」ほど、彼らにとって怖いものはない。だから「真っ当な」議論は嘲笑して無効化して潰し続けなければならない
「対策」される側の皆さん、これからも一緒に頑張りましょう!!
そしてもうひとつ、自分の頭で考えて、アクションを起こしている/起こしそうな若い人に対しては、
⇒こんなメッセージを見せられたら、他の見識全部をミュートしたくなってしまう。
世論と権力と体制と現状保守とを全部ひとまとめにされたらおこるよ。
⇒これで「みんな選挙に行こう」とか書いてあったらサイアクだったw もちろん、選挙に行くことはいいことですし、私も行ってますがね?
葛や藤の蔓がもつれ絡むところから、物事がもつれて解決が付かないことや、心の中の相反する欲求のいずれをとるか迷うことを「葛藤」と言うようになった。
⇒この記事で引き合いとしてえがかれる、“最近、quizknockの人達が、なんか好きだ” というような感情や感慨の扱いが難しくて、それ単独で切り出してしまうと、まず書くことがない文章なんだ、個人scrapboxのページや、デイリーノートなメモ帳ですら。いやだって、文字を打つのも文章化するのも、コストゼロではないからね。
しかしそれを、エッセイ集団のためのイメージとして書き出すと、これだけ味わい深い文章になる。
「良さげな」ツールを目の前にした時に私の中で発生するのが、「このツールをどう活かそうか」という気持ちである。
そのツールならではの特徴を掴み、今までは実現できなかったけどこのツールならできそうなことをあれこれ想像し、生活が一新されることを願っている。
「それならでは」にこだわるというのは、つまりそのツールを「それならでは」縛りで使うということでもある。「他のツールでできるならこれでやる必要ないのだし」などと言って、なんとしても「他のツールではできないこと・やりにくいこと」をやろうとする。
⇒「それでなんとなく使えている」ということの重要性。ただ、それだと、野口式Google documentを肯定しないといけなくなるけど……
デジタルツールに関しては、前提として「アナログツールではなくデジタルツールを使う」という判断をまずしていることになる(そもそもデジタルの方が当たり前という人は別だが、
つまり、検索のしやすさやリンクの張り方にこだわったり、表記揺れを撲滅したくなったり、データベースとして相応しいデータの在り方に近づけようとしたり、そういった意識が恰も当たり前のこととしてツールの使い方に入り込んでくるのだ。
その意識は、自覚して制御できていれば
そうして作った時、その事前の想像を超えた活用法というのは基本的には生まれない。「このツールで何ができるかな」とわくわくと空想することはないわけである。
UserCSSにも前ほどは執着していない。
内容面でも、「分類の力によってワンアクションで的確に取り出したい」と感じるような情報は全部自作のデジタルノートツールに移ったことで、Scrapboxは「探そうと思えば探し出せるもの」、つまり「一瞬で取り出せることを保証しなくていいもの」の置き場所へと変化した。
「グーグルと同じ額面給与」でなく、「日本で安定した環境で暮らせてまあ納得できる給与」を「日本企業側の事情を踏まえた上で実現していく」というのは、色んな人が実際に外資に引き抜かれたり、やっぱり断ったりする無数の実例の積み重ねの中で常に微調整されながら「ちょうど良さ」を見出していくしかない。
今の日本の物価の大きな謎は、企業物価指数が8%台後半もインフレしているのに、消費者物価指数が2%台で、このギャップをどこが吸収しているのか?という問題なんですよね。
米国などでは、むしろ企業物価指数よりも消費者物価指数のほうが大きく上昇している事が多くて、「物事がわかってる企業間取引でなく、言い値に従わざるを得ない消費者相手に便乗値上げして利益を得ようとする人たち」が多いということなのかなと思っているんですが(笑)
そのあたりで、「経済は回るが社会不安は募る米国」と「経済は回らないが社会不安は多少抑えられている日本」の違いが出てくる領域があるのだと感じています。
そういう「性質」が日本経済にあるのはもうサガだから変えようがないし、それに抵抗しようとするよりは、そういう「サガ」を利用した上でいかに必要な値上げをやっていけるかどうかが大事なんだということですね。
先進国では結構農業はほぼ補助金で動いている例が多いらしく、平成時代に熱情のように「農業補助金叩き」をしていたブーム自体がそもそも問題を履き違えていた可能性が高い。
農業人口って日本の人口の数%にまで下がってるので、下手したら全員を補助金で食わせてその分自給率上げますという政策だって別に大した出費にならない可能性がある。
そして、例えばスイスの農業はもう補助金なしには絶対ありえない構造になってるけど、補助金もらって成立している農業によって、「牧歌的スイスの風景」が成り立っていて、その上に巨大な観光産業の儲けが成立しているらしいという話も聞きます。
でもさらに一周回って、農地をリースじゃないと株式会社が参入できないようにしているのは、せっかく長年公費をかけて造成した農地を、単に乱開発のネタにする企業が出てくるのを防ぐためだからで、そういう事まで考えると必要な規制ではあるんですよ。