2022/09/11-2022/09/20
どちらもいい読書体験だった。そして、どこか対称的な読書体験でもあったんだよな。
よき新書であった。
やあ、これはすごいな。
「ふるまう」
保守が感情で大衆を動員するのであれば、リベラルも感情を利用する。いっけんもっともらしく聞こえるが、それはいってみればエンタメに純文学が売上で闘いを挑もうとするようなものだ。保守とリベラルを数で比べれば、保守のほうが強いに決まっている。人間は保守的な生きものだし、歳をとればますます保守的になる。そこに気づきを与え、立ち止まらせるのがリベラルの役割であり、また知的で批判的な言説の使命だ。リベラルの力の源泉は数にあったのではない。それなのに数で対抗しようとした結果、リベラルは自分たちの勢力を大きく見せることばかり考えるようになってしまった。
いま言葉はとても無力だ。長い文章なんてだれも読まない。いまの大学人や言論人はその無力から逃げ出そうとしている。言葉に性急に力をもたせようとして、逆に力を失っている。
ツイッターで22万人のフォロワーに囲まれていたぼくは、その厳しさを忘れかけていたように思う。
ポリコレを敵視する必要はないが、「日本漫画の文化的独立性」を無理やり侵犯するような「ポリコレの押し付け」には徹底的に抗っていく必要があるし、その時にネットバトルでちょっと無茶をやる人がいたとしても、それは「権力勾配がある時にトーンポリシングするな」的な話なのだ…ということが私の個人的な結論です。
「ポリコレ用語」に、「権力勾配がある時にトーンポリシングしてはいけない」という大原則がありますよね。
これは、
どちらかが圧倒的に立場が強いというような場合に、立場が弱い方が多少強引で無理やりな方法で異議申し立てをしたとしても、そのやり方が丁寧でない事だけを理由に黙らせてはいけない
…という意味なんですが、日本漫画が置かれている状況もまさにこれなんですね。
「世界最強国家アメリカ政治の流行」と「日本という島国内の独自カルチャー」って圧倒的に「権力勾配」があるので、丁寧に接しないと「潰される!」という日本側の警戒心から攻撃的な反応が返ってくるのはむしろ当然なのだ…という発想が必要なんですよ。
そこでネット右翼さんが必死に防衛反応をしていて、その態度があまり褒められたものでないものが含まれていたとしても、そこはそれ、「権力勾配がある時にトーンポリシング」してないで、「欧米文明とは別個の価値観で動いている独立した存在」として扱って、相互的で丁寧なコミュニケーションをするようにしていくのは、「グローバル側」に立つだけの文化的基盤のある強者の人がやるべきことだと私は強く思います。
この場合、家族の大きな負担になっているのだから、夫はスプラトゥーン3のプレイをとおして家庭内に公害を引き起こしているようなものだ。大音量や振動もたいがいだが、エモーショナルな言葉がグサグサ聞こえてくるのもそれはそれで大変だ。家庭内でコンフリクトになるほどなら、なんらか、害をなくす工夫が必要だろう。
最近、eスポーツ選手の言動やゲーム実況で用いられるスラングが荒々しい……というより暴言が含まれていると批判されることが増えた。90年代、いや80年代の暗いゲームセンターの世界なら、荒々しいスラングや暴言も見て見ぬふりをされるのかもしれないが、2020年代の、全世界配信されるインターネットメディア上で許されるものとは思えない。
後で書くように、私はゲームをやっていて興奮してエモーションがたかぶること自体は否定したくないし、許容可能な場所や仲間内では、荒ぶる言動が飛び交ってもいいのだと思いたい人間のひとりだ。ゲームがただの暇つぶしならともかく、ゲーム体験をとおして大事なエモーションを受け取ったり、ゲーム体験に大事な何かが賭けられていたりする限りにおいて、エモーションが揺れるのは当然だし、多少なりともそれが言動にあらわれてしかるべきだろう。
2018年から2019年にかけて、私はのめり込むようにソーシャルゲーム『Fate/Grand Order』のガチャを回していた。あれも、いまどきの社会では褒められるとは言えない、けれども大変にエモーショナルな体験だった。だけど、今にして思えばあれは記念碑的な経験で、当時の私のゲーム体験に、ひいては2018~19年の人生にかけがえないアンダーラインをひいてくれた。スプラトゥーン2もそうだったし、90年代にゲーセンで遊んだゲームたちもそうだった。ゲーム愛好家なら、そういう人生にかけがえのないアンダーラインをひいてくれたゲームを複数挙げられるに違いない。社会がしのごの言おうとも、そのエモーショナルな体験それ自体は、やっぱり貴重な財産であるはずだ。
⇒ガチャを回すことすらも含めて「ゲーム体験」って言えるのすごいな。
ゲームに限らず、自分にとってエモーションや言動が現れる場所が単一であることは、依存や嗜癖、耽溺など、コントロールの難しい状態に陥りやすいとは、よく事情を知っている人がしばしば指摘するところではある。だから、単一じゃないようにしなさいよ、依存や嗜癖、耽溺を避けなさいよ、という「アドバイス」も世の中には溢れている。そうだろう。そうでしょうとも。
存在のアピールが強い自覚があれば「結局自慢なのだ」と感じ、体験のアピールが強い自覚があれば「自分語りに過ぎない」と感じ、心がけのアピールが強い自覚があれば「自分をコンテンツ化しているのさ」と感じる、みたいなことはあるのかもしれませんが(私は自分語り型です)、
⇒情報以外のものを語ろうとすれば、何かしらにはなってしまう
翻って読み手の身になって考えた時、「読む」という体験として楽しいものというのは、「役に立つもの」より誰かの「どうだ!」だと感じています。「情報を得る」という作業の中では「役に立つもの」を欲することにはなりますが、別にそれは楽しいものというわけではないような気がします。
こう考えると、「書きたいもの」と「読みたいもの」は、楽しさを求める上では一致しているように思えます。
問題はむしろ、そのような認識から導かれる「癖」である。どんな癖か。
それは「位置情報を手がかりにする」というものだ。
つまり、inboxならばサイドバーの一番上にあるし、象の墓場ならばサイドバーの下にある。プロジェクトは上の方で、Webスクラップならば下の方、という脳内マップを形成し、それを手がかりに目的のノートブックにたどり着く「癖」がついていたのだ。
この脳内マップが整備されていると、目的のノートブックを開こうとするときには、意識がもうスクロールに向いている。だから、何らかの理由でノートブックの名前を変えてしまうと、場所が変わって戸惑うことになる。コーヒーカップが思ったよりも重かった、的な違和感(シミュレーションと実際のフィードバックのズレというやつだ)が起こるのだ。
情報整理ツールに対する支配欲求も違った姿が浮かび上がってくる。「位置をナビゲーションの手がかりとする」やり方では、それらが俯瞰され、一覧されていることは必須である。
逆に言えば、私が最近WorkFlowyで大項目の順番を自由に動かせるようになったのは、そうした位置ベースのナビゲーションからかなりの部分開放されたからだと言える。
⇒解放されることがありえるものなのか。すごいな。
⇒これがない人や、これが邪魔になる場合があるとは
⇒視覚優位、という感じがする一方で、実は運動神経依存なのかもしれない。
会見の中心的な役割を果たしていた副園長。園長に比べ、彼女の笑みの方が目立ちました。記者の質問に答える際、軽い笑みを浮かべ返答し、会見の随所で起こる記者とのミスコミュニケーション(発話の訂正や聞き間違え、返答ミス、言うべきではない発言の漏洩等)時に噴き出すような笑いを見せます。注意深く観察していればわかりますが、副園長の顔から笑顔がこぼれるのは、副園長が一方的に話す場面ではなく、双方向のコミュニケーション時です。
おそらく、副園長は、普段、人と会話するときは笑みを浮かべ、コミュニケーション中に起こるミスを笑って緩和させるというクセを持っているのだと推測されます。
本会見において、園長・副園長が誤解を招く態度をとっていたことは間違いありません。しかし、笑顔一つとって、極悪人と決めつけるのも間違っています。
⇒私は被害者ではない。そして被害者の心理になるべきでもない。
⇒「不謹慎」滅すべし
⇒被害者本人は、そりゃあ、責任者が一日中泣いたり落ち込んだら神妙にしてたってすら、許せるものではないだろうけども。
台風の中心が北海道・本州・四国・九州以外の島の海岸に至っても上陸とは言わないため、沖縄県に台風が上陸することはない
ただし、陸地を約10km以上進まなければ通過に分類される
⇒岬や突端だからということではない。
そうした環境ではメタ・ノウハウは意識されません。ノウハウが正典であり、いかにそれに準拠できるか、という究極の根性論にしかならないからです。準拠できなれば、それは単に「劣っている」存在だと見なされてしまいます。だからこそ、皆必死にそれについていこうとするわけです。
これは、プログラミングに限ったことではありません。
たとえば数学や物理学、宇宙科学や進化生物学を自分で学ぶ。
英語やウクライナ語、あるいはラテン語などの言語に興味をもつ仲間とテキストを輪読したり、鳥や昆虫、岩や土が大好きな人たちと、自分たちで計画を立ててフィールドワークしたり。
あるいは、ひとりでゆっくり短編小説をつくったり、詩で自分の気もちを表現したり。
自分で学ぶことをとおして、細やかな幸せ感を増やす方法を学ぶ機会の豊かさは、たぶん人類数千年の歴史の中でも、この21世紀前半は、最高の時代を迎えているのではないかと、ぼくは考えています。
ミスは許されません。
といのが超自我の価値観なのです。
けれども話は戻って私たちは「生き物」です。原稿に沿って生きるような生き方ばかりしていては、だんだんと「精気」を欠いて、やがては「正気」を失うようにできています。
万引きをしても「警備員が追ってきていないと確認」できたときだけ「幸せになれる」なんて、とうてい「正気」とは思えません。
どうしてこんなことになってしまうのかと言えば「生の欲望」を徹底的に封じ込めて、かわりに「原稿を読む生き方」を自分に強いるからです。
こうなると「生きて」いる「生の欲望」は何としてでも表へ出たくなります。超自我の目をかいくぐるような出方を模索するようになります。超自我というモノが「文化的に許容されるやり方」に導く役割であるなら、超自我の目をかいくぐる行動というのは、何であるにしてもあまりまっとうなモノではなくなります。
以上の流れをひっくり返すためにも、自分の超自我に「ミスは許される」という「文化」を日頃からインストールしておく必要を感じるわけです。
キンドルの開発者だったジェイソン・マコースキーという人は、『本は死なない』(講談社、2014年)という本で面白いことを言っています。書籍やウェブの記事や動画が相互につながっていけば、究極的には世界には「たった一冊の本」