2022/09/01-2022/09/10
リストって、1次元だけど、実際には “1.1次元” くらいはあるよね。改行して行頭を揃える人為が発生するから。段差を付けたら、“1.3” くらいはある。
段差が理解できない (うちあわせCast)
ほう。使わないだけでなく、読めない、か。
これだけWindows(のエクスプローラ)が普及しているのにな。
全画面表示にしないウィンドウの多数表示は、「そうは言いつつも元々の文脈のことも一応は気に留めている」といつ自分自身の意識のあり方の、道具上での反映で、だから落ち着くのかもしれない。
全画面表示が好きな人は、もともとマルチマスキングにナチュラルに適応している人で、「道具に導かれる形で集中力を高めている」のかもしれない。
メール末のよろしくお願いしますは短いままだと圧が出る
長くてくどい敬語に意義が出てくる。
今やっていることを中断しないで、無駄にメールを開くことを後回しにすることが、生産性の何かを確保しているのかもしれない。
ウイルスやワクチンの宮沢さんも、前期近藤・後期近藤みたいなところがあるんじゃないかな。
上さんですらそういうところある。
なんとなく自分が思っていた40代の行動ではないよなあと思う。端的にいうと「思ったより元気で軽率」な感じがするのだ。
とはいえ加齢を実感、いや痛感することも増えた。
「おばあちゃん」になることへの忌避感はないのだが、その前に「おばさん」を経由することへの心の準備が、まだできていない。
なんというか、単なる今までのイメージの問題なのだと思う。
「ああはなりたくないもの」とされていた気がする。
「中年女性」という属性を得たことによる良さ、みたいなものも感じることがある。まず、貫禄がついたことで、頼られることが増えた。頼られるというか、信頼感を得やすくなった。これはただ「若い」というだけで舐められがちだった20代にくらべると、大きな違いである。それからちょっとしたことでは動じなくなったし、まあ、なんとかなるでしょう、と構えていられるのは、経験と年齢を重ねたおかげだと思う。
また周りからも「中年女性」として見られることで、ちょっとした小言なんかも「生意気」な感じなく、伝えやすくなったように思う。(そのぶん「圧」が出るので言葉尻にはじゅうぶん注意する必要はあるが、言葉が届きやすくなった、という意味で)
例えば困ってる人を見かけたら「大丈夫?」と声をかける、とか「やめてあげなさいよ」と軽く伝える、とかは、若い女性の頃にはなかなかやりにくかった。警戒されにくくなった、というのかもしれない。
おばさんは街中に偏在するので、わたしもその中に埋没し、モブとして優しい言葉をかけたりいたわったり、無名の市民としてやりやすくなったように感じる。
おばさんは街中に偏在するので、わたしもその中に埋没し、モブとして優しい言葉をかけたりいたわったり、無名の市民としてやりやすくなったように感じる。
とはいえ、まだまだ「お若いですよ!」が褒め言葉として使われる世の中で、「おばさんです」と自称するのは勇気がいる。
自虐として長く使われてきた言葉だし、自虐的な中年は本当に痛々しい。慰めを求める下心が見え隠れするからだと思うのだが、それでも勇気を持って「おばさん」を楽しんでいこうと思う。
自分の土台がしっかりしてきたからこそ見えてきた、「ここは要らないな!」と思う自分の壁を、自力でぶっ壊すことができるようになったからだ。
これまでの自分で作ってきたものを、これからの自分が壊していくタイミングが中年で、その胆力を持てるのが「おばさん」なのだとしたら、なかなか悪くない。
最近は少しコンテンツとの向き合い方を変えている。
たとえば、2時間のまとまった自由時間が確保できたとする。以前なら間違いなく、よーし!映画見るぞー!という感じだった。そして、その映画がとても面白かったとしても、何が面白かったのかすぐ忘れる。自由時間のすべてを映画を見ることに費やすからだ。
そうではなくて、映画は細切れに見ることにした。シーンが切り替わるところで見るのをやめるのだ。で、気になったところがあればそこだけちょっと見返す。何か思うことがあれば、スマホにメモっておく。
若さは生ものだ。美しさは不平等だが、若さはみな平等に与えられている。しかしその価値が最大限に発揮できるタイミングは限られていて、その価値がまだ高いうちに、より有利に交渉を進めようとする女たちをわたしは格好良いと思う。わたしにはそれができなかった。自分に価値があることが信じられなかったし、そんな交渉はできないと思っていた。いま振り返ってみると、もしかしたらあれは無自覚のうちに若さを原資とした取り引きをしていたのかもしれない、と思うような関係はあった。でもそれはあまりに無自覚で、自分でもよくわかっていない。自分の価値をもっとシビアに判断し、いい条件で交渉して、したたかに生きていきたかった。そういう意味で、てらいなく営業をしてくるバニーガールたちの強さに、とても眩しさを感じた。
しかし、これをやめました。理由は2つあります。1つは、親指シフトが使えないときに不満を感じたからです。メインはMacですが、複数のPCを使う環境にあるので、自分用にカスタマイズされていない(できない)PCを使うときに入力の間違いが多くなってイライラしてしまいました。効率が悪いですし、何より間違うことによるストレスが嫌でした。
QWERTYは好きでもないし、こだわりもありません。一方、親指シフトは気に入っていましたが、こだわるほどではありませんでした。というか、使えない場合がある可能性も考慮すると、こだわるべきではないと考えました。
メタバースネイティブは、チャネル別に自分が変わることを当然だと認識しています。しかし、人間が物理的な存在である以上、リアルワールドからは逃れられません。高校生や大学生くらいまでメタバースでバラバラの生を生きるのが当たり前だった人が、就職や結婚をきっかけに今までの人生から離れて、ずっと同じアイデンティティを求められる現実を目の当たりにする。一日の大半の時間を一つの役割に縛り付けられ、逃げ場がない。技術的には自由にでき、自由になれるはずのところで、現実的にはできない。このギャップは、結構苦しいのではないかと思います。
今後は、例えば、『どうぶつの森』でゲットしたアイテムやコインを、ClusterやVR Chatなどの別サービスでも手続きなしで(裏で手続が走って)使えるようになるといったように、サービス間の接続が進んでいくと思いますが、そうなってくると、もはやそれはサービスというよりも公共空間と呼んだほうが適切になります。
今後は、例えば、『どうぶつの森』でゲットしたアイテムやコインを、ClusterやVR Chatなどの別サービスでも手続きなしで(裏で手続が走って)使えるようになるといったように、サービス間の接続が進んでいくと思いますが、そうなってくると、もはやそれはサービスというよりも公共空間と呼んだほうが適切になります。
学習データとして価値があるのはもちろんコンテンツだけではなく、メタバース内でのあらゆる行動履歴が同様であるはずなので、メタバース以降の世界ではあらゆる人が自分たちの行動すべてに価値があると自覚したほうがいいと思います。ログインしてから何分でどこのワールドで誰とどんな会話をしたとか、どんな漫画の何コマ目で読むのをやめたか、メタバース内のクラブでどんな人たちがどんな曲で盛り上がったかとか、そういうデータすべてがメタバース環境にとっては経済価値のあるものです。
そう考えていくと、人間は、生きているだけでお金をもらえるようにしないといけないですね。メタバースの中で生きる以上は、生きているだけで生きていけるようにせよ、と、そういう主張をしていってもいいのではないでしょうか。
たぶん学生にとってメールが縁遠いツールになりすぎて、「メールの送り方をわざわざネットで調べる」という学生が増えているのかな。それで学生としてのメールマナーを飛び越して、ビジネスマナーに則ったメールがめっちゃくるようになった。「ご多忙の折、たいへん恐縮ですが」とか入ってる。
これ、本当に笑えないぐらい現場で切実な話なんよな
本当は「捕まらずに大金が欲しい」という要求で、ちゃんとヒアリングしていくと「娘の手術費用にどうしても大金が必要なんだ」という誰も不幸にならない方法があるかもしれないのに要件を先に出してしまって皆が揃って不幸になる・・・・
警察「お前の要求はなんだ!?」
犯人「五千万円を用意しろ!あと、逃走用の車もだ!」
IT「それは要件だ!要求を言え!」
警察「」
犯人「」
ハーバード大学医学部ポール・F・グレン老化生物学研究センターのブルース・ヤンクナー教授らのグループは、過剰な脳活動が寿命を縮める可能性に関する研究結果を発表している。
60~70歳代と100歳以上の高齢者の脳を比較したところ、比較的若い年齢で亡くなった人は、脳の活動を沈静化させるタンパク質「REST」が大幅に少ないことが判明。脳の活動の過度な活性化、つまり「考えすぎ」によってRESTが枯渇し、それが寿命の短縮につながっているという。
また、「考えすぎ」によって、神経伝達物質であるグルタミン酸が前頭前皮質に過剰に蓄積された結果、集中力の喪失、計画力や記憶力の低下を引き起こす可能性について、パリのピティエ=サルペトリエール病院の研究チームが「Current Biology」誌に先月発表した。
『アゲインスト・デモクラシー』
『歪められたデモクラシー』
代表制デモクラシーの本質は「意志」(制度)と「意見」(制度外の思考や議論)が相互補完する二頭政にある。専門家による政治の手続き化、ポピュリズム、マスメディアの発達によるプレビシット(人気集め)という三類型から、二頭政の危機を解析。
無料化は一般路線バスの枠組みから外れるため、国や県の補助も対象外になります。その代わりに朝晩のみの利用であったスクールバスを日中に活用したり、小型バスやワゴン車などを導入することで、ランニングコストを従来の補助金以下に抑える見込みです。