2022/08/01-2022/08/10
手軽にやったわけでも手抜きでやったわけでもなく、最善を尽くした判断だったということを最善を尽くしたのだと評価されないことがつらい。
感情やストーリーに都合のいいことが起きるときは必然的に、時間や空間が無目的に引き伸ばされるときには、偶発的に。
錆って、かねへんに赤じゃなくて青。
高学力の男性がジェンダーステレオタイプを発露するとトロフィーワイフ(自分のトロフィーとして若く美しい女性と結婚すること)などの形で現れますが、低学力の男性の間で発露すると「早く稼げるようになることこそが男として一人前の証であり、教育を受けるのなんてバカバカしい」という考えにつながります(この現象は中南米でも顕著にみられ、これらの地域での国際教育協力におけるジェンダーと教育分野の支援は、中等教育における男子の退学予防がメインテーマとなっています。アメリカもこの文化圏の一員なのかもしれません)。
結論を先に述べると、日本で男子の落ちこぼれ問題が火を噴くのは、まだしばらくはなさそうです。国際学力調査のPISAの結果を見ると、日本は先進諸国の中でも男子の落ちこぼれ比率(PISAでLevel2以下の学力を持つ生徒の割合)が最も低い国の一つですし、読解力における男女間の落ちこぼれ比率の差も最も小さくなっています。
落ちこぼれ男子問題だけでなく、学歴差から生じる男女間の賃金格差やマイノリティ全般を取り巻く教育問題など様々な点でいえることです。ジェンダーに代表されるような様々な人の属性に配慮したバランスの取れた教育政策を追求していくことが社会の繁栄にとって重要だということを、
同じケイティ・ペリーの「日本風」ステージを見ても、自分は笑っただけだったけど、”日系アメリカ人”の娘さんは激怒していたそうです。
なんでこういうことになるかというと、日本人は普段「日本の芸能界」のドラマやら映画やら音楽やらを聴いているので、「ハリウッド映画に出てくるカッコいい役は白人ばかりだ!」って言われても、「まあアレは自分のところのじゃないからね」ってなるんですよね。
一方で、巨大な「アメリカ」に囲まれて偏見も受けながら暮らしている日系アメリカ人からすると、自分が暮らしている国の芸能界で「カッコいい役」に自分と同じ人種がいない・・・っていうのは結構大問題なんだと思うんですね。ガリ勉オタクのメガネくんか、やたらセクシーで謎めいたスレンダー女性しかアジア人は出てこない・・・ってことだと、特に思春期の難しい時期には凹むだろうなあ、という感じがする。
こういう「自分と同じ人種・性別の人にも普通にカッコいい役が回ってくるようにしてほしい」というのは、実際にその国でマイノリティとして生きているとたぶん切実なんだろうなとは思います。
よく女子会とかで女性同士だと、全力で身を乗り出して同意!!!ギャハハハ!!!ってなる感じがあると思うんですが、女性が男性にもとめている「傾聴」はそういうものではない・・・って言うんですね。
ある程度超然として「壁」みたいになっていてほしいニーズがあって。でもおざなりでなくちゃんと聞いてくれている感じがいいらしい。
で、女性側が夢中になって話している間にグラスを拭いてくれたり、料理を取り分けたり、お酒のお代わりを注いでくれたり・・・を”できる限りサラッと”すると、人によっては話に夢中で気づかなかったりするんだけど、終わってから「あれ?ひょっとして注いでくれてた?」ってなったりするのが良い接客・・・だそうです。
女性が男に「壁」的な決然性を求めるところがあって、そこが揺るぎなくあってほしい・・・けど自分のためにはその「壁」を融通無碍に動かして優しさを示してほしい。
それを「両方」全力で求めていくと、南の自由主義社会ではそれだけの安定的な「壁」を提示できるだけの基盤がどんどん掘り崩されていくので、「優しい壁」をキャラクターとして作り出そうとしたらどうしようもない詐欺師のアルベルト氏になってしまったりする。
その「ダメ男扱い」されてる人たちが、「まあそうはいっても男だし」的に腐らずに参加し続けている間においてのみ、その「押し上げられた男は無条件にカッコつけた振る舞い」ができる。
でもそうやって「当て馬扱い」を10年20年と続けてくると、「押し上げられてかっこいい役をやる男」が単に素敵でかっこいいだけの男を続けられなくなってくるんですよ。
で、いろんな「ダメ男役」を押し付けられた男の怨念と引きずり下ろしが暴走して、「毅然として壁役になる」ようなカッコよさによってたかってツッコミを入れ始めて成立しなくなってくる。
結婚した頃ウチの奥さんが、二人の生活上の改善点について指摘するだけで私がやたら申し訳無さそうにする(逆に高圧的になっちゃったりする時もあったり)ことに毎回「そんな態度取ってほしいんじゃないの!」って怒ってたことがあったんですけど。
「一緒に解決したいと思って話してるのに一々謝られたり申し訳無さそうにしたり高圧的になったりしたら話が進まないじゃない。”そんなこと”でこっちが満足すると思ってたらそのこと自体が失礼だわ」
みたいなことをよく言われていて、最近は「ある種他人事のようにお互いに聞くルール」を採用してから随分とスムーズに改善自体を行えるようになったと思います。
保守政権の大事なお客さんである一部の過激な排外主義者が騒がないように静かにいつの間にか緩和したい的な事情もあったりする。
なんていうか、贖罪意識が過剰なんですよね。これは本人が悪いというよりも「そういうふうに追い詰めてしまう社会の問題」という感じがするんですが・・・
いやもちろんね、「刑に服したんだから、もう俺は真っ白な存在だぜ!けっ、あの女、ちょっとレイプされたぐらいで俺を訴えやがってチクショー!」みたいになられるのも困りますけど、(中略)
なんで良くないかっていうと、こういう贖罪意識は結構簡単に、「こういう罪の意識に目覚めた俺はフツーにノウノウと生きている奴らよりエライ」みたいな間違ったナルシシズムに暴走しがちだからなんですよ。(フツーに性犯罪せずに生きている人の方がエライに決まってますからね。)
強者属性である●●は、もう生まれながらに原罪を背負っている。それを自覚して懺悔しなくてはならない。
みたいな話になっていくことなんですが、コレをやりはじめると社会の中の相互理解が一気に難しくなるし、そもそもこういうこと言い出す人って、本当にその「弱者」の人じゃなくて、「強者属性の中にいる自分が、他の強者属性の他人を”自分に”ひざまずかせたい」という欲求から出ていることがほとんどじゃないかと感じるわけです。(そういう行動が”当事者がわ”にも移入されて永久にコジレ続ける理由となってしまうってことはあるでしょうが)
本当に困っている弱者本人の人は、自分に対する不利益を具体的に解決してほしいと思っていることが多い
ここで「サムライしぐさ」と「ナイトしぐさ」と私が呼んでいる2つの態度について考えてみたいんですが。
あなたが、もし例えばコンビニの店員に怒鳴ってるおっさんとかがいた時に、どういう対処をするか?イメージしてみてほしいんですよ。
欧米のSNSでよく動画がシェアされてバズる傾向にあるのは、そういう時に「店員の側」に立って、
おい、なにしてんだテメー!あっち行け!シッシッ!
ってやるやり方ですよね。これを「ナイト(騎士)」しぐさと呼びたい。
かわりに、僕がよくやる(結婚してからは奥さんにキケンだからやめろって言われてあんまりやってないですが)のは、逆に「騒いでるオッサン」の方に近づいていく方法なんですよ。
「おっちゃん、何があったん?ちょっと話聞いたるから外出ようや。店員さん困ってはるがな」
とかいって「店員さん」から「オッサン」をどんどん離して行こうとする。コレを私は「サムライしぐさ」って呼んでるんですけど。
『ルポ トランプ王国2』
・地元民が集まるような小さな飲み屋に行く
・初めは笑顔で、大きな声で「自分がどこの誰か」を話して警戒心を解く。
・安心感を与えたところで「この人と話して仲良くなれば他の人とも話が広がりそう」な陽キャをターゲットに定める。
・相手が声をかけやすいような行動をとる。
・そこから丁寧に自己紹介し、先方に語ってもらえるように話を振る