2022/07/21-2022/07/31
#採掘場
知的“溺れ藁”
わけわからない事態に遭遇すると、調べて続けてしまう
訳がわからなすぎると、手近な(怪しくとも)仮説もうっかり取り入れてしまう
考えなければいけない、判断しなければいけないというプレッシャー
しょぼくて薄汚れていても、今現在動いている体制は、そのまま継続させる
「0発信」という言葉はあるけど、「9発信」という言葉はまだないところがおもしろい。
出ていて害のないものなら出しっぱなしにしとく、あと伸ばし、保留にしとく、人と
弱者同士連帯することで、一枚乗れる人は増えるだろうし、声も大きくなって注目はしてもらえるようになるかもしれないけど、その分個々の実現可能性は下がるんだろうな。ひっくり返さないといけない社会構造の範囲がその分だけ広がるので。
シュナムルさん、
「何それ、気持ちわるい、無理!」的な感情も浮かぶわけだけど、その感情の処置に正当性があるのはご家族間の問題であって、無関係な我々の感じる、「気持ちわるい!」という感情は、発生する意味も、どこかにぶつける意味もないものだよな。
そういう意味では、あくまでツイッター上での身分詐称のことについてだけ文句なり訴訟なり(被害を受けていたのであればだけど)して、あとはご家族に任せる、としか考えようがないわな。
石原慎太郎
ある種のおぞましさというか、どうしても許したくないと感じる感情というのがあって、それでもなおそれを許していく
個のレベルにおける政教分離・信教の自由
さらに身の上推測系の記事をいくうか読んでいくと、なんだかかわいそうになってくるというか、結構悲惨な身の上だった可能性も(さらに一定程度身から出た錆としても)
炎上に加担するのは、「子持ちで年収高めの男性」なんて話もあったけど、こういうストレートなタイプもいたわけなんだなぁ……
アイスクリーム屋課題(アイスクリーム・トラック問題)
サリーアン課題(心の理論)
「いつか何者かに」問題は、古くは、モラトリアムとアイデンティティの問題として提議されていたと思う。
人口の増加と工業化と都市化という社会変動。
私のイメージでは、恋愛幻想とステ振りの問題が共起した。
恋愛幻想のほうは、「いま手近な相手に声かけて付き合えてしまったら、いつかお姫様が追いかけられて自分の家に逃げ込んできたときに、かくまったり一緒に逃げたりする中で結ばれる」という権利を失ってしまう、だからこそ最高の相手としかコミュニケーションを開きたくない、と感じる感覚。
ステ振りとして連想したのは、ステ振り系のゲームを始めてしまうと、最初のうちは最高効率攻略法が分からずに、割と場当たり的にバランスして成長させてしまう。そしてラスボス近くなったころに、「極端に片寄せたあるパラメータのときだけ、特に有利なコンボが可能になる」ことが分かってきたりすることだ。それで一回そこまでのデータを使うのをやめて、最初からやりなおしたりしたくなる。
弱者同士連帯することで、一枚乗れる人は増えるだろうし、声も大きくなって注目はしてもらえるようになるかもしれないけど、その分個々の実現可能性は下がるんだろうな。ひっくり返さないといけない社会構造の範囲がその分だけ広がるので。
ツイッターやグーグルの検索子
>70年代って、半世紀前
ううーむ。90年代くらいに、「70年代リバイバル」と言われていた程度であれば、「奇数・十年代」の気分と「偶数・十年代」の気分が交互にやってくる、くらいの割と近い時間軸に思えていたけど、確かに2020年代の今となっては、1970年代って半世紀前だな。
「半世紀前」って言葉の語感がすごい。
でもまあ、だってもうすぐ私自身の人生が、半世紀分になるわけだものな。
「この事件が起きたことで1番得をするのは誰か」と考えるとそれが真犯人(首謀者/黒幕)だと分かる、という論法があるけど、それが物事を深く考えるツールとして役に立つ側面より、陰謀論に自分を引き寄せてしまう問題点のほうが大きくなってしまった。
昨日まで無事に動いてたシステムなら、今問題が見つかったのだとしても、今日明日でどうこうなるわけではないんだから、感情を鎮めてから、月単位、年単位の計画を立てようじゃないか。
要人殺害と政教分離と信教の自由、教団による被害者救済と葬儀外交は別々の問題。
悪い教団とつながっていたから政党も邪悪に違いないとか、
そういうつながりの部分での議論はしないようにしよう。
我々は特定の宗教をこの数十年強制されなかったし、特定の教団が政治的庇護のせいで急激に勢力を伸ばしたってこともない。で、個別要素のいくつかはクリアされる。被害者は救済されるべき、それもそれ。
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https://note.com/rashita/n/nf7e52855f43f
タイトルが不十分なページがあってもいいし、文章化がなされていないページがあってもいい。リンクが不完全にしかついていないページがあってもいい。
もちろん、そうしたページは他のページに比べて見つけにくくなるが、影響はそれだけに留まる。それ以外のページは、問題なく使えるのだ。
https://tunnellingchannel.substack.com/p/50e
でも、それは仕方がないことなのでしょう。
プログラミングなどの新しい技術はまさしく「ハローワールド」な感覚をもたらします。今までの自分の世界にはなかった扉が開かれる感覚があるのです。それは、ネオリベラル的には称賛される感覚かもしれませんが、人間は新しいものに憧れる気持ちを持ちつつも、新奇なものを恐れる気持ちを持ちます。心理とはアンビバレントなものなのです。
むしろ、それが新しい世界をもたらす可能性を持っていればいるほど、拒否する気持ちも同時に高まるのかもしれません。なぜなら、新しい世界とは、それについて知らない世界のことだからです。
のらてつさんが「得体のしれなさ」という表現を使っておられますが、まさにこの言葉の語感が示す心理があるのでしょう。この言葉は、決してポジティブな文脈では使われません。つまり、得体のしれないもの=忌避するもの、なわけです。
だとすれば、得体を知ればその忌避は消えるわけですが、まさにそれは「実際にやってみる」ことでしか得られません。この乖離が、問題なわけです。
ただ、個人的にはこういうのは「一気に」とか「一瞬で」解決しようと思ってはいけないだろうと感じています。自分のGit経験でもそうですが、「便利そうだ」という声に何度も触れ、自分でググったり、あるいは実際に途中まで行って止まってしまうような経験を何度か繰り返しているうちに、いつまにかその線を越えてしまっている、という状況がよいのではないでしょうか。
https://tunnellingchannel.substack.com/p/2bc
私はこれまで「何者」になりたいと思って生きてきました。ここでいう「何者」は何かしら特別な人間という意味での何者です。「何者」になると言っても具体的になりたい像があるわけでもありません。「何者ってなんですか?」と聞かれたら、「何者は何者です」としか言いようがない漠然としたレベルです。何になりたいのかはわからないけど、何かにはなりたかったのです。
一方で、自分が「何者」になれないことも薄々感じながら生きてきました。学生の頃から運動でも勉強でも自分よりもできる人はたくさんいたし、普通に考えて何か特別な才能を持っていたり、特段の努力をしたりする人間でない限り「何者」にはなれないでしょうし。
それでもいつか誰かが「あなたは特別な人間ですね!」と見つけてくれるだろう、あるいは見つかってしまうだろうと期待もありました。あらためてこんな風に書いてみると、「なんだその都合のいい考え方は!」と思ったりするのですが、おそらく一般的でないけど、特別珍しくもない感覚なのではないかなと思ったりもします。
意識的にか無意識的にか、言語化や発信を避けてきました。というのも、言語化や発信は、私にとって「何者」になる可能性を奪い取る行為だと感じていたからだと思います。
「何者」とは何者かを考えるときにポイントになるのは、可能性の問題なのではないかと思います。例えば、書くことで言語化し発信をすると、「何が言いたいのかわからない」と誰かに言われるかもしれません。その誰かは実は自分だったりするのですが今回は置いておきます。こうなると、「なんだかよくわからないがすごいことを言ったり書いたりする『何者』」になれる可能性がなくなっていく感じがします。
一方で、言語化や発信せずに自分の頭の中に留めておけば、誰からも非難されません。つまり、言語化や発信をしなければ「何者」になる可能性は残されます。ありがちな話ではあると思いますが、その可能性を引き伸ばすために言語化や発信を避けてきたのだと思います。
https://tunnellingchannel.substack.com/p/e57
もしその確信によって「何者かになりたい」「何者にもなれない」という苦しみから解放されるのだとすれば、「ここではないどこか」に自分の心を向けさせている最大のストレス源は、自分の「何者でもなさ」そのものよりも、「自分が何になりたいのかわかっていない」という曖昧さなのかも、と思いました。私たちはそれを思い描くことを強いられましたが、その難しさについて教えてくれる人はいなかったのです。
そしてこのことは、「職についていること」「肩書きがあること」「家庭を持っていること」など、かつてはそれだけで自他が納得できたはずのステータスが、ある世代より後に於いては、それだけでは個性に関わりないがために大きな意味をなさなくなった、という価値観の不幸な転換を意味しているのかも知れません。家庭ができたから「何者か」になるのを諦めた(必要なくなったのではなく「諦めた」)、ということはごくありふれたことと思います。
https://www.amazon.co.jp/gp/aw/review/B08HM17HLF/R2F4YI7R1ZCQHW/ref=cm_cr_dp_mb_rvw_tr?ie=UTF8
リベラルの衰退が、リベラル間で競い合うことになっていることが問題である。リベラリズムには5つのレイヤーがあり、そのレイヤーを正確に理解する必要があると著者はいう。
①ロックの社会契約論、イギリスの権利憲章、フランス人権宣言などの系譜にある王権や教会に対する個人の抵抗権や所有権、絶対的な権力との戦いをになってきた立憲主義のリベラリズム。
②商業や取引、貿易の自由を唱える、市場を中心とした自由、新自由主義の系譜の経済的リベラリズム。③個人主義を擁護し、古い習慣に対する人間的活動の闘い。個人の能力はその個人によって行使されなければならないとする個人主義的リベラリズム。④社会は、人為と人智で持ってよくすることができ、人権が守られる社会を志向する社会リベラリズム。⑤民族や宗教、ジェンダー的マイノリティの権利を擁護し、不平等や差別、貧困と闘う寛容の精神を説く、寛容リベラリズム。
5つの立憲主義リベラリズム、経済的リベラリズム、個人主義的リベラリズム、社会的リベラリズム、寛容リベラリズムが、アイデンティティ・個人・主体の緊張関係を持ち、意識的かつ反省的に発展均衡させていくことが必要で、分断をさせない勢力になっていくことにあるという。
https://twitter.com/rashita2/status/1551356558482632705?s=20&t=yHEyNSK1AjbBTYnAOharDw
自分が受けた義務教育を振り返ってみると、「マネジメント」が自分でできるようになるものではなく、むしろマネジメントしなくても大丈夫なように配慮された結果その経験がほとんど得られないものだった気がします。それで社会に出て急にマネジメントせよ、と言われたらそりゃ無理ですよね。
https://tunnellingchannel.substack.com/p/7e0
あとは、何よりも重要なのはトンネルChannelという場自体ですね。開きすぎず閉じすぎずな場所であることと、変なこと(=自分のこと)を書いてくださいという方針を示してくれていることで、この確信が揺らがずに済みました。
自分の中にあるものがおもしろい(=面白さは自分の中にある)ということは私にとってのポストEvernoteとも繋がる予感がしているので、機会があればそんなことも書いてみたいと思います。
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飛躍をしますが、この話はシステム2は個人ではなく集団で使ってこそ力を発揮するという話につながると思います。1人の人間がすべてのことを考えることはできないので、色々な人の考えを集めて、社会としてシステム2を発揮することが必要という話です。
https://note.com/sasakitoshinao/n/nec6a3c35ebbb
表には出ていなかったこのアングラな春本版を1972年、当時人気のあった『面白半分』という雑誌が掲載しました。しかけたのはこの雑誌の編集長だった作家野坂昭如です。そして警察はこの掲載を摘発し、『面白半分』の出版社社長と野坂をわいせつ図画販売で書類送検し、起訴します。
これに抵抗して立ち上がったのが、左派文化人たちでした。作家丸谷才一が「特別弁護人」に専任され、五木寛之、井上ひさし、吉行淳之介、開高健、有吉佐和子といった当時抜群に知名度のあった有名作家たちが次々と法廷で証言に立ち、「四畳半襖の下張」の芸術性などについて訴えたのです。裁判は最高裁まで争われ、最終的に被告ふたりの罰金刑が確定しています。
https://www.techno-edge.net/article/2022/07/28/129.html
こちらの生成画像は、「a person holding a sign that says」 (と書かれた札を持つ人物)というシンプルな指示に対する結果のひとつ。入力した文章にはまったく含まれていない「Black」という文字がなぜかはっきりと札に書かれています。
そもそも以前のDALLE 2のデータセット自体が「女性」は全員白人などかなり偏っていたことは事実。
「多様性に忖度(?)して歪められていない真実が欲しい」といった主張もありそうな気がしますが、今回はたまたま学習したデータセットが現実世界の何を反映するわけでもなく、「何をもって偏りとするのか」といった高尚な話の余地がないほど偏っていたわけで、特に運営側の細工がなかったとしても、得られるのは特に世界の真実でも現実でもなく、OpenAIが恣意的に利用したデータセットの貧弱さでしかありません。
https://blog.tinect.jp/?p=77575
おれは歩行者として信号無視をしない。
信号無視して轢かれたのでは、車の責任が少し軽くなって、損だ。(中略)そういうところもあるが、一番の理由としては、いちいち判断するのが面倒くさいのだ。
右見て、左見て、出発進行。そんなことにいちいち頭を使いたくない。そんなことに自分の「決断」をいちいち使いたくない。
……などという姿勢は、トルシエに「日本人は車がいなくても赤信号を……」などと言われてしまうかもしれない。
けれどおれはサッカー選手でもなければ、急にボールが来るストライカーでもないので、どうでもいいのである。そして、話が古い。
⇒いいねえ、これを主張する人が現れたか。
⇒昔はこのとおり、「自分で判断する頭を持て」と説教する人が出てきたものだけど
⇒(ただ、“オートパイロットから出る”というリマインドを自分の中に持つには、そういうところからバラエティーを自分に課していく、という自己啓発本みたいな手法はありなのだと思う)
形而下のことは召使いどもに任せておけ
「生きることは召使いどもに任せておけ」と書いたのはヴィリエ・ド・リラダンだったかと思うが、違うかもしれない。
「生きる」を「形而下のこと」と訳したのは澁澤龍彦だったかもしれないが、違うかもしれない。
まあともかく、実際に形而下のことを抜かしてわれわれの生は成り立たない。
たかだか数秒だが、その数秒でも、もっと世界平和のこととか考えていたほうが有意義じゃないか。あるいは、なんか楽してお金儲けできる方法とか。
たとえば、人によって考え方は違うかもしれないが、食べ物についておれは自動化をしている。
行きていける栄養さえ摂れればいいだろうということだ。季節によって蒸し野菜、冷しゃぶサラダ、お好み焼き、鍋を繰り返している。
日々変えるのではない。季節ごとだ。飽きて、もう食べられないと思うまで、同じものを毎晩食べる。自炊しつづける。
これも判断の自動化である。おれが独身者であるということで可能になっている面もある。こんな同居者に料理を任せる人間はいないだろう。
⇒これわかる。衣食住にこだわるのは堕落である
自動車の自動運転化なども、人間がやらなくてはいけないわずらわしさからの解放だろう。
自動車の運転も楽しいものだと、免許を取ってから少しだけ車を運転していた自分は思うが、それが何十年ともなると、もう惰性で危ないだけになるのかもしれない。
とはいえ、「単純労働をAIを任せることによって、人間はより創造的な仕事をすることができる」というような物言いには反対したい。
反対というか、反感を持つ。人間みんな、そんなに創造的な存在じゃないよな。人間ならではのアイディアが出てきて、独創的な、人間らしい仕事ができるわけじゃないよな、ということだ。
そうできる人間は、そうすればいい。それで世の中に貢献すればよい。しかし、そういう能力に欠けた人間の居場所はどうなるのだ。機械に取って代わられるような仕事しかできない人間は。
簡単な仕事で生きていける、存在価値が認められる、そういった場が失われていく。
それは正しいのか。どうも違うように思える。新しいラッダイト運動が必要じゃないのか、という気にすらなる。
簡単な労働で生きていける人間の場を奪うな。さもなければ、簡単な動労を人間のために残しておけ。
⇒これも合わせて主張しちゃうところが、またイカしてる。
ほかにもたとえば、消費期限が切れた食べ物をどうするか、それはもう食べられそうだとしても表記に従うだとか、そんな話だ。休みの日の昼食はカップ焼きそばだけで
これは、たとえば「丁寧な暮らし」を実践できる人には、かなり話が変わってくるだろう。朝から出汁をとったお味噌汁を作れるような人には話が別だ。
できることの範囲が違う。能力が違う。そういう人は、べつに自動化なんて必要ないかもしれない。それが、できるからだ。
というわけで、精神障害を持ち、生来めんどくさがりやのおれにとって、「丁寧な暮らし」は程遠い。
そういう生き方ができる人は、たくさんのことができる。仕事も私生活も、上質な人生を送れる。
一方で、本来、なにもできない。なにもできないは言い過ぎかもしれないが、やることなすことに苦労が伴う、そんな人間もいる。
簡単な青信号ばかりの信号機を設置する。それでできるだけ楽をする。そういう人生だ。
そういう人間にとってこそ、信号機は必要だといいたい。
判断する知能や決断力に欠ける人間には、自動化こそ必要なのだ。
その都度、判断できる、決断できる能力の持ち主には、関係ないことだろう。
日常のささいなこと、どうでもいいことに、いちいちリソースを割いていられない。
割いていたら、生きていられない。そういう状況がわかるだろうか。
そういうことにかかずらっていたら、最低限の生活も送れない。もう、すべて諦めてしまって、ベッドの上から出てこられない。
行動の絶対量が、足りていない。決断する力の絶対量が、足りていない。そういう人間もいる。
そういう人間に、丁寧さを求めないでほしい。きちんとした生活を求めないでほしい。
無理なのだ。努力だとか、意識の持ちようとかではどうにもならないことがある。
⇒こういう、「弱さが分からないくせに勝手なことを言うな」という気持ちも、すげーよく分かる。
⇒私の場合なら、“損失回避”や、行動する前の“未来の不安”なんかがそうだ。
「ニュースを見ない」とか、「まず、いきなり本題に手をつける」、とかそういうことで折り合っていく生きすじのような中で生きていて、「もっと社会に関心を持たないと」とか「事前にトラブルを想定してから行動しないと」なんて言われたら、「お前に何が分かる!」って話になる。
https://mi-mollet.com/articles/-/37022?layout=b
「自己肯定感を高める」とか「自分を愛する」とか、セルフラブなワードが世を席巻しだした頃からでしょうか。徐々に「自虐」というものが疎まれはじめ、人気の芸人さんが「自虐ネタは封印する」とわざわざ宣言する時代に。
ほんの少し前までは真逆でした。ことを荒立てることを良しとしない日本社会。自虐は、空気を読むことが求められる現代の荒波を泳ぎわたるための必須スキルでした。
けれど、そうした他人からの失礼な振る舞いに、わざわざ自分で自分を落として愛想笑いなんてしていたら、相手をつけ上がらせるだけだし、自分の心まで傷つけてしまう。加えて、同じような属性の人間を笑ってもいいという免罪符を相手に与える行為にもなりかねません。だったら毅然とNOを突きつけるべきだし、こんな誰も幸せにならない負の遺産は我々の代で断ち切りたい、という世の使命感にもめちゃくちゃ共感できるし賛同したい。
しかし、同時にこうも思うのです。自虐ぐらい好きにさせてくれよ〜、と。
ただ同時に、いい年こいて「自分が嫌いです」って言ってるのもダサいなあという気持ちもあるにはあるのです。周りに気を遣わせるし、いつまでも繊細な自分アピールしているのも面倒くさいというか。「繊細」とか「卑屈」が「感受性豊か」とか「視点が独特」と言い換えてもらえるのはせいぜい20代前半まで。それ以降は、「繊細」や「卑屈」なんて何の評価にもならず、圧倒的に「明るい」「素直」が勝ちなのです。
自分のことを愛せない人は他人のことも愛せないよと訳知り顔で言ってくる人もいますが、そんな人は「うっせえ! ソース出せ!」と横っ面を思い切りぶん殴っていくとして、
https://note.com/7cot/n/neefd7be7f2b0
つまり、多くの患者は長期にわたって精神医学上の問題を抱えており、思春期に近づいたとき初めて、GDを発症したのである。
また両国において、もうひとつ大きな知見が得られた。オランダの研究では、移行後に後悔するケースが非常に少なかっため、多くの臨床医は、再移行(後悔のために出生時の性に戻ること)はまれであると思い込んでいた。しかし、フィンランドでは、「胸オペ後に後悔する若者が現れた」とハイノ医師は言う。「後悔はすぐにやってくるものではありません。だいたい4、5年後です」。
ある研究によると、76%の再移行者が不満や後悔をクリニックに伝えていないため、実際の再移行率を算出することはできない。
https://news.yahoo.co.jp/byline/sowatoshimitsu/20220729-00307701
「抽象的な方針」や「見えないビジョン」というのは、それだけ現場や最前線の人間に自由、裁量があるということです。
世の中の多くの人が「自由で裁量のある会社で働きたい」というのに、部下がそれを嫌だと言うのなら、リーダー自身が思うことを、微に入り細を穿つように具体的に指示し、やらせてみてはどうでしょうか。
https://markelabo.com/n/n30bdff0bb14c
児玉:
ラクサスの公開前に、AとBの2つの女性のグループに、机の上にブランドバッグを並べて「これ月6,800円で借りる?」と聞いてみたことがあって。
そしたら、ひとつめのAグループは、全員が「ノー」と言ったんですよね。みんな「高級ブランドを借りてまで持つなんて恥ずかしいです」と。
これは無理かなと思って「もうバッグ要らないから、好きなの持って帰っていいよ」と言ったんですね。Bに聞くまでもないと。
そしたら「ありがとうございます。じゃあヴィトン」「私も」「ジャンケンしよう」って。ん?ちょっと待てちょっと待て。言ってること違うぞと。
それで、やっぱりBグループを呼んできて、聞き方を変えてみたんですね。「あなたの友人知人は、このブランドバッグを借りると思いますか?」と。そしたら全員「イエス」になったんですよ。
児玉:
そうです。お金持ちの人は「売る」のが嫌らしいんですよ。裕福でなくなった感じがするらしくて。それで我々に使わないバッグを貸してくれる。
彼女たちの言葉をつかうと、バッグは大事な「恋人」だけど、いきなり別れるのは嫌だから、遠距離恋愛をしてから別れたいのだそうです。
奥様がパートナーからもらった使わないバッグを、捨ててしまうと波風が立ってしまうので、クラウドに預ける感覚で貸してくれる方もいますね。
以前のCMは「利用シーン」を想像してもらうCMでした。デートのときに使えますよとか、彼氏の親と会うときに便利です、みたいな。
でも、もっと簡単に「アプリで借りて、自宅に届いて、コンビニで返せる」と歌とダンスで伝えて、それ以外をバサッと切ったんですね。
そしたら、それが馬鹿当たりしたんですよ。わかりやすくしただけでグーンと伸びていって。一時期はテレビCMの効果が約3倍になりました。
児玉:
ラクサスには、お手紙が毎日のように届くんですよ。みなさん便箋をわざわざ用意してくれて、お手紙を書いてくれるんですね。
それで、こんなにいただけるなら「紙を入れたらもっと書いてくれるはず」とお手紙用の紙を同封したことがあるのですが、これは逆効果でした。全然書いてくれなくなった。ABテストもしたのですけど。「書かされている感」が出ると、ダメなのだなと思いました。
成功したのは、お手紙を「アプリ内で紹介」したことです。載せてくれたとなるとまた書きたくなるし、載るかもと思うと書いてくれやすくなる。
アプリに掲載したことで、好循環が生まれました。紙を入れて「書いてください」はダメだったけど、書いてくれたものを「紹介する」はよかった。
シェアリングエコノミーは、良質なコミュニティをつくれば、コストを下げることができます。
つまり「1%のクレーマー」には、退場してもらったほうが良いんですよね。実際に「クレーマーには謝らないしお断りしよう」と決めています。
当初、月額29,800円じゃないと成立しないと思いましたが、月額6,800円で提供できているのは、そこがひとつの理由になっています。
他にこれまでに「ターニングポイントだった」と感じることがあれば教えてください。
児玉:
はっきりと「これはエシカルな活動です。あなたが使っても良いんですよ。これを使うのがいい女ですよ。」と強く伝えるようにしたことです。
嫌われてもいいから、好かれる理由を伝えようと。「エシカルは良いこと。むしろ使わないといけません。」くらいの気持ちで、サイトやアプリなどで伝えるようにしたことが、結果として売上の成長につながりました。
よく「おじさんが嫌われる5つの理由」という記事があります。あれを全部その通りにしてもモテない。なぜなら「どうでもいい」になるだけだから。
⇒ところがまあ、一時期は、男がひどすぎて、「嫌なところが一つもなければ、とりあえずは“いい男”かな」みたいな感想があったりすることはあったんだよな。
赤い服を着ない人が「赤が似合ってますよ」と言われたら、赤着ても良いんだとなりますよね。これと同じで「許可を与える」ことも大切です。
児玉:
印象的だったのは、お客様から「1万円のバッグを仕入れてほしい」と言われたことがあって。ただそのブランドは取り扱っていなかったんですよ。
でも1万円なら買えばいいじゃないですか。それで聞いてみたらお客様はこう言っていたんです。「いやいや、私が使いたいのは1回だけなんです」と。
なるほどとすぐ買ってくると、そのバッグはグルグルと回りはじめて。1万円のバッグが何度もレンタルされて、すごく利益に貢献してくれました。
また「買うには勇気がいるバッグ」はシェアと相性が良いと思います。少し変わったデザインのバッグも、ラクサスでは人気ですね。
お店だとバッグって「赤・青・水色・黄色」はなかなか売れないんですよ。中古市場でも超安い。でも、ラクサスだとバンバン借りられています。
https://www.vice.com/ja/article/wxda5q/what-is-menhera-fashion
menheraというハッシュタグは、本記事の執筆時点で、TikTokに6940万回、Instagramに13万1000回投稿されている。これらのコンテンツは、キラキラのカミソリ、シルバーの注射器、首吊りロープのネックレスなどの世界的なギャラリーとなっている。第三者には衝撃的で過激にも思えるだろう。しかし、このコミュニティに属する人びとは、このスタイルが自らのメンタルヘルスについて打ち明けるきっかけとなり、そこには世界が学ぶべき教訓がたくさんあると語る。
これはあるテーマや感情をクリエイティブに発散(vent)させる〈ヴェント・アート〉のひとつといえる。
「楽な服装でも、コルセットをして複雑な服を着ていても、あなたらしさは変わりません」彼女は、メンヘラ・ファッションの目的は同情や注目の追求ではないということを強調した。それはエンパワメントの表明なのだ。
「躁状態のときはエネルギーを全て吐き出すはけ口が必要だったので、いろんな作品で実験を重ねて、そのなかでエポキシレジンが大好きになりました」と彼女はいう。「メンヘラをテーマにした服、バッグ、エナメルピンの制作やデザインを始めました。(中略)わたしはネガティブな感情を発散したいという思いと、ポジティブさでみんなを励ましたいという気持ちのあいだで、常に揺れ動いています。わたしの店は、こういう感情と向き合うのに役立つアイテムであふれています」
メンヘラ・ファッションは、他の多くのメンタルヘルスの意識向上キャンペーンと同じ目標を掲げている。それは人びとに〈大丈夫じゃなくても大丈夫〉と宣言する機会を与えることだ。