2021/11/11-2021/11/20
#採掘場
私はたぶん、思考において結構ケチで、思いついたことがもったいなくて忘れるのがすごく怖いのだと思う。
だから、一度思考したことを書き残さないと、脳にうずまいて毒になってしまう。
いったん外界に固着させれば、それはいつでも読むだけでリプレイできるエンターテインメントになる。
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https://twitter.com/arai_yusaku/status/1453743602195066887?s=21
今週のハイパーインフレーションすごい。ふざけているように見せて、精巧な偽札による経済影響を
①金本位制
②信用と兌換の概念
③銀行の本質
④経済活動の原則
の本質に触れながらたった4ページで解説している。経済の基礎を勉強するのに最高の教材。まじでみんな読んだ方がいい。無料だし。
"通常そんなことはないのだから問題がない"
⇒切り取りやすそうなセリフとコマだ。
#『ハイパーインフレーション』
「たった4ページで」みたいな展開を読むと、「おおっ、すごい」と思うと同時に、「いやでも、こういうのは売れないだろうな」とも思う。
一般的多数派にとっては、「もっと、(きれいなデッサン、抜けのいい構図はもちろんとして)時間軸的にも口あたり良く整理された、カルピスウォーターのような味い」のほうが美味しくて、もてなされている気分になれるものなのだと思う。
過度に賑々しくない、というか。
ちょっとボケ/ツッコミのテンポが早すぎるだけで、あるいは鳴り物などの演出が仰々しいだけで、ひいていってしまう。
物語は濃ければ濃いほど楽しいものとして受け取る、という感覚は意外と少数派なんだろうな。
https://joshi-spa.jp/1121654/2
――本書の中で、子どもを欲しがる人々が語る“理由”を、本能型、好奇心型、規範遵守型、そして現実逃避型の4つに分類していたのが興味深かったです。
吉川「人間を型に分けるのは若干抵抗があったんですけどね。子どもが欲しいっていう人たちは、欲しいと思ったら欲しいでよくて、それ以上の説明は求められない感じがありますよね。世間的にいいこととされているから、本人もそこまで突き詰めて考えなくても済むようなところがあると思うんです。例えばざっくり『えー、子ども可愛いじゃーん、欲しいじゃーん』でも周りが納得するというか」 ――それに対して「欲しくない人」たちが語る理由の方が理屈が通っている、というのにも、なるほど! と思いました。 吉川「欲しくない人は、やっぱり『なぜ欲しくないのか』を説明しなきゃいけないことが多いんです。なんでも同じ構図ですね。マイノリティなほうが説明を要求されるから、そのことについて突き詰めて考えて発信することになっている。だから答えが明確なんです。その構造の違いなのかなと思いますね」
――少子化対策もあってか「子どもを産むことは素晴らしい」という空気が世にはありますが、それを“圧”だと感じて思い悩む女性も多いようです。中にはその空気が、妊活や婚活の動機や理由になっている人も。この呪縛から逃れることはできないのでしょうか。 吉川「結婚すべきとかしたほうがいいとかは私自身あまり思わないのですが、『どうして結婚したいのか』を考えた時に、案外、自分の欲望じゃなくて他者の欲望である場合もあるんじゃないかと思うんですね。  ここ数日、女性誌の歴史を遡(さかのぼ)る本を読んでいてハッとしたんですが、なんであんなに一時期ブランドバックが欲しかったんだろうと思ったら、それって実は他者の欲望をそのまま自分の欲望だと勘違いしていたんじゃないかということに気がついたんです」
吉川「結婚についても、私の場合はですが、他者の欲望をトレースしてるだけなんじゃないかという気がどうしてもするんですよね。一緒に生きていく誰かが欲しいという気持ちは自然なことだと思うのですが、そこでラブにばかりこだわるのはすごく危険だなーと思うんです。  婚活している女性の中には、ロマンティック・ラブ・イデオロギー(※)に縛られているというか、相手のことを好きになれなくて悩む人もいて。そこにラブ必要? と思っちゃうんですよ。結婚にラブが必要になったのはここ50年くらいじゃないですか。それに縛られすぎているから苦しめられてるんじゃないかな、というのはすごく思っていて」
⇒1ページまとめて切り抜いちゃった
https://orangestar.hatenadiary.jp/entry/2021/11/11/134335
掘り下げてみると、書きたいことが無くなったというよりも、考えたくないことが増えた、というのが、より正確だと思った。とにかく、歳をとって、経験や知識を積んで、自分にできることできないこと、人間の集団(社会)にできることできないこと、難しいこと、やったけど結局できなかったこと、結局最後は破綻することが、より正確に見えるようになってきた。
今も同じように、世界は問題や考えるべきことで溢れてる。溢れてるけれども、その殆どがどうしようもないことだっていうことも、わかってしまった。
動かないものをどうにか動かそうとすると、疲れる。とても徒労感がある。ただ、考えるだけでも、ちょっと絶望的な気持ちになる。
あと。
上から偉そうに、これはコレコレこういう社会現象ですね、これが原因で、これをこうすれば解決するでしょう、みたいなことは、もう恥ずかしくて言えなくなってしまった。
それがそうであるにはいろいろな理由があるし、そこでそういう状態になってしまっていたり、そういう選択を選んでしまう人には、そうならざるを得ない理由がある。みんな自分の精いっぱいを、瞬間瞬間を必死に生きた結果、そうなってしまって、それを、上から正しい間違ってるというのは恥ずかしいことだと思う。思うようになってしまった。
もし、そういう人なり現象なり状態なり社会なりに何かできるとするなら、それは、ブログでブロブロいうことではなく、
「生きるのが辛い、世界が憎い」というブログやツイートがあれば、昔は、「生きるのは辛くない、世界は美しい」とか「その辛いのはシステムのせいだ」とかいうブログや文章が溢れて、そして自分もそんな文章を書いていたけれども、それは、正しくはなかったのだ。本当に必要だったのは、すべきことだったのは、その「生きるのが辛い」と言っている人と友達になって、電話で話をすることだったのだと思う。今でも、必要なのはそれなのだろうけれども、でも、自分には、そんな余力はもうなくて。あと、そもそも、その人にとって自分は求められてないという問題もある。どうこうできる力がない。
http://timeway.vivian.jp/kougi-1.html
https://twitter.com/osadanna/status/1459166141385875459?s=21
【拡散希望】「すべての男がそうではない」#NotAllMen とスルーせずに、「ああいうやつになるな」#dontbethatguy と介入を。女性に注意を促すのではなく、男同士で嗜め合う抑止力を。スコットランド警察の性暴力防止キャンペーンの動画、@kanrooom に字幕をつけてもらいました。日本でもやってほしい。
https://twitter.com/pasotsuo/status/1459306289851338753?s=21
#チコちゃんに叱られる
最近のアトラス(ボストン・ダイナミクスの人型ロボット)
Atlas | Partners in Parkour youtu.be/tF4DML7FIWk @YouTubeより
https://twitter.com/konoy541/status/1456078744615936005?s=21
「処罰はきっちり、あとは自由」というのが古典的リベラリズムだとすれば、「絶えざる内面チェック」が「リベラル」でしょうね。これは丸山のじっちゃんがかつての大日本帝国の國體に見出した内面への「無限浸透」の衝動とよく似ていますね。不思議なことです。
https://note.com/sasakitoshinao/n/ne45c40024313
2000年代に入ると、就職氷河期のあおりを受けたロスジェネ世代を中心にして「就職できなくても成功を目指したい」「レールを外れても頂点を目指せるはずだ」という価値観が広まっていきました。自己啓発本が売れに売れるようになったのも、このころです。総中流の「平均的」だった人生のレールが消滅してしまい、その代替物として自己啓発本が求められたのだとわたしは捉えています。
https://twitter.com/ym1016mhn/status/1442114060447674371?s=21
コスプレとは目の錯覚で成り立つものである
https://twitter.com/ym1016mhn/status/1442151068171784192?s=21
こちらを最後までごらんください
ウマ娘プリティーダービーに片思いしていた。愛されてはいなかった。つらい - シロクマの屑籠
ソーシャルゲームにおいて、人間がゲームを遊戯するのでなくゲームが人間を遊戯し、人間がガチャを回すのでなくガチャが人間を回しているとは周知の事実ではある。ところがこのようにウマ娘プリティーダービーに恋慕してしまった結果、またしてもガチャにいいように回され、レースにいいように走らされてしまった。
50歳以降の男性的な生き方に対する雑感 - ICHIROYAのブログ
男性のマジョリティーであろう価値観で生きてきた人間です。
この文章は、「男性的な価値観で生きている人」を対象に書きますが、表記が面倒なので、以降、「男性」もしくは「男」と略して書きます。
40代50代ぐらいの方は、誰かとともに楽しめる趣味の活動を、そろりと始められたらどうでしょうか。
敗北を抱きしめて:ゼロ年代批評と「青春ヘラ」「負けヒロイン」についての覚え書き - てらまっとのアニメ批評ブログ
をきっかけに私が感じたこと、考えたことを暫定的にまとめた覚え書きのようなものだ。そのため、個々の概念の理解や解釈については、感傷マゾ・負けヒロイン各研究会の公式見解と食い違っている可能性も少なからずある。というより、私自身の問題意識に強く引きつけて書いているせいで、おそらく両研究会の趣旨をかなりの程度ゆがめてしまっている。いちおうそれぞれの主宰者には目を通してもらってはいるが、筆者のバイアスが多分に入っていることをあらかじめ承知して読んでほしい。(以下敬称略)
もちろん、こちらから説明を請えば快く教えてくれるが、その語り口もそれぞれの概念の内実と同様、どこか自虐的・自嘲的で、自分たちの価値評価(カントの言葉でいえば「趣味判断」)をまったき他者と共有しうる、普遍化しうるとはそもそも信じていないふしがある。
もちろん、これは感傷マゾ・負けヒロイン両研究会で実際に『ゼロ年代の想像力』が読まれているということではない。彼らより一回り以上年長の中年男性で、いわゆる「ゼロ年代の亡霊」にすぎない私が、無理やり自分の問題意識と結びつけているにすぎない(その暴力性もいちおう認識してはいる)。
これはフェミニズム批評が他の方法論よりも優れているということではなく、個人と社会とをダイレクトに接続する回路としてきわめて効果的に機能しているということだ。「個人的なことは政治的なこと」という1960年代の有名なスローガンのとおり、フェミニズムは女性ひとりひとりが抱えている生きづらさを、そのまま社会全体の問題へと引き上げることができる。「あなたが苦しいのはあなたのせいじゃない、女性差別的な日本社会のせいだ。一緒に社会を変えていこう」というわけだ。
(中略)
その一方で、私の見るかぎり、男性には女性にとってのフェミニズムのような、個人と社会とをつなぐ回路が「仕事」以外に存在しないか、存在したとしてもほとんど機能していない。
かくしてオタク男性は批評=批判のアリーナで劣勢に立たされ、日本国憲法に記された「表現の自由」という最後の砦に立てこもる。SNS上で一部の男性アカウントが「表現の自由戦士」と揶揄されるほどフィクションへの表現規制に激しく抵抗するのは、言うまでもないことだが、彼らが憲法の理念を重んじているからだけではない。そうではなく、自らの欲望の受け皿がもはやフィクションのなかにしか存在しえないことを知っているからだ。
私の目には、彼らが同世代のオタク男性にうっすらと共有されている「敗北感」に訴えることで、ある種のホモソーシャルな「連帯」を呼びかけているように映るのだ。そこでは誰が、何に敗北したかさえもはや重要ではない。それは青春かもしれず、受験かもしれず、就職かもしれず、あるいは人生そのものかもしれない。負けたのはヒロインではなく、自分だったかもしれない。
彼らが目指しているのは価値観の異なる他者、たとえば急進的なリベラルやフェミニスト、あるいは頭の固い先行世代を「説得」することではない。そうではなく、おそらくは似たような敗北感を抱える男性の「共感」を呼び起こし、彼らを迎え入れることで、ある種の互助的なコミュニティを形成することにある。先に触れた「自分語り」的な文体に加え、たとえば複数人でのリレー形式による連載記事*9などは、そうした方向性を端的に表している。
もちろん、そこに何か新しさがあるかと言えば、必ずしもそうではないかもしれない。2000年代以前、それどころか先の戦争での敗北からずっと、男性の屈折した自意識の問題を引きずっているだけなのかもしれない(私には十分展開することができないが、「青春ヘラ」や「負けヒロイン」といった目新しい概念を、江藤淳や加藤典洋の問題意識に接続することは決して不可能ではないように見える)。
目の前の仕事に忙殺されるうちに、いつしか「ダメな僕ら」という自意識は薄れ、かつての「敗北」の記憶も遠ざかり、いやおうなく社会人としての自負と責任感が芽生えていくだろう。「青春ヘラ」も「負けヒロイン」も、いまとなっては大学時代の気恥ずかしい「黒歴史」のひとつにすぎなかったと、懐かしく思い出す日が来るのかもしれない。
それでも彼らが、というより私たちが人生のどこかで運悪くつまずき、望まないn度目の「敗北」を喫したとき、せめてその「敗北感」を受け止めてくれるコミュニティが、あるいはフィクションが用意されていてほしい。公共空間でガソリンを撒き散らすことも、SNSでヘイトを書き散らすこともなく、ただ自虐的・自嘲的なネタで互いに笑い合い、慰め合えるささやかなアジールが存在してほしい。いまだ制度的救済のおぼつかないこの社会にあって、感傷マゾ・負けヒロイン両研究会の扉に掲げられているのは、かつて敗れていった者たちへの、そしてこれから敗れていく者たちへの親愛と連帯の挨拶なのだ。
https://honz.jp/articles/-/46147
勉強の本当の目的は「誰にもじゃまされない人生」を自分の中に作り出すことだからだ。