2021/10/11-2021/10/20
#採掘場
哲学というのが、勉強したら “巨人の肩に乗る” ことができる系の知識なのか、ちょっと疑問が残る。
ヒカルの碁の作中にある、本因坊秀策が最強みたいな。
また、知的トレーニングとしての面はよい。“哲学をやっている人は賢い(賢くなれている)” というのは蓋然性があるとしても、“哲学の知識” は、賢くあるのに役に立っているのだろうか?
車輪を再発明して、それへの想定問答も再発明して、という野良の思考過程そのもののほうが意味を持つ可能性が頭をよぎらないこともない。
ある種、「ロックだ」とかと似て、心的態度が一番大事ということすらあるのでは。
思索を愛することと、常識や慣習に疑義を投げつけることと。
* * *
『欲望会議』
『語源から哲学がわかる事典』
語源は置いておいて語られる、ファロンの拡張解釈ユダヤ教義はいろいろとつぉいな。
ラ・メトリの人間機械論
⇒やっぱり、西洋哲学は一人一人の哲学者がどんな個性を持っていたかとか、誰が最強で何を論じさせたら得意とかじゃなくて、時代時代とともに、どう新しい理屈が付け足されて、現代の認識に近づいていったのかという、「一人の“巨人”の、思索の物語」として読むほうがつかみやすい感じがしてきた。
そして基本的には、現代に近いほど、なじみがいい。(ポストモダンはまた別かもしれないが)
アリストテレスが超天才だってことを差し引いても、唯物論で認識論な世界線のほうが思考しやすい。頭の中を運動させやすい。
* * *
嘉門達夫さんという人がいて。
お笑いソングでCDを出したりして、ギャグを届けていた人で、私が中学生の頃にハマってゲラゲラ聞いていた。
その頃の私には“笑える”“笑いをとる”ということか神秘のベールの向こうで、「なんでそんなことができる人間がこの世にはいるんだろう、すげえなあ」という対象だった。
でまあ、その人が何かのインタビューに答えてた記事か何かで、おおざっぱに次のようなことを答えていた。
「笑いのネタは、誰にでも理解できるようなネタはインパクトが弱いし、マニアックなネタは爆笑する人はいるかもしれないけど、万人には響かない。そのバランスが難しくて、ある時からプロデューサーに付いてもらうようになって、それからは出すネタの9割がボツ」
これは、個人的に当時の自分には二重の意味で衝撃だったのだ。
笑いはサラッとやってセンスで笑わせるものだと思っていたけど、案外泥臭い側面があること
10本に1本の最上部だけを切り出しているのなら面白く感じるのは当然で、打率1割でいいのなら、自分ですら(自分にとっての合格点で)できるかもしれないとすら思えたということ
後者が意外と重要で、会話の中で、思いつきで一発ギャグを放り込んで、100発100中で面白いなんていうセンスというのは、もともと人間に存在していないファンタジーだったんだな、きっと。
もちろん、ボケとツッコミを上手に使うと、会話の流れの中でちょこちょこと、小さいけどすべらずになごやかすくらいの笑いなら、的確に織り交ぜていくことはできるかもしれない。
でも、ネタの強度で吹き出させるようなことは、そうそうやれるものではないはずなんだよな。
←2021/10/01-2021/10/10/2021/10/21-2021/10/31→
https://noratetsu.blogspot.com/2021/10/blog01.html?m=1
他者の批判には礼を尽くした取材が必要で、大変な労力のかかるその仕事をやり遂げてでも自分の思う正義を表明しなければ、という使命感は私にはないのである。あらゆることに私より相応しい論者が存在し、実際に世界中であらゆる意見表明が生まれている。その中のどれを選んで賛同するか考えるだけで精一杯だ。人の変わらなさに不満はあっても、人を変えたいと立ち上がる気はないのだ。甘い考えであろうが私としては変わっていく様を眺めたいのであって、自分が何かを変えて満足に思うわけではない。
ブログに書けそうなことを考えていくとき、その光になりそうなものを単発で閃いてしまうことがある。「閃いてしまう」と言ってもそれが悪いことと言いたいのではないが、何も文脈に基づかずにぱっと出てきてしまうと扱いに大変困ることになったりするのである。なまじ光っているだけに捨てられないのだが、その一文のためにそこから文脈を生み出すのは容易でない。どうにか記事にならないかと唸りながら時間を費やすものの、ついぞ形にならずに終わることが多い。出発地点も着地点もこれと決まらないのだ。
⇒究極的にはアメトークだよなぁ。
https://noratetsu.blogspot.com/2021/10/blog02.html?m=1
そのまま言うなら、毎日同じ熱量でそのまま言い続けるとか。そのままでないのなら、フィクションにしろノンフィクションにしろきっちりストーリーを作って読み手の心に染み込むようにするとか。もっと一般化して心理学に基づいたアカデミックな説得力を核にするとか。どれかでやっていけるだろうかと思ってちょっと書いてみては、なんか違うなと感じてブログ自体をやめてしまう。その繰り返しだ。
Aという理由があってBという生き方を推したいという信条が前提にあって、更にそれを支えるCというツールの話をしようとすると、Aから話をスタートするとCまで遠すぎ、かといってBのためにCを使うのだという話だけでまとめてしまうとBという生き方を当然の正解と捉えているかのような印象になりかねない。
全ての人間の中に起こることではないにしろ、誰かが言葉とともに自覚したかった現象なのである。
重要性を強調するために言葉を重ねることはできるかもしれないが、そうやって言葉を尽くすことは必ずしも状況の解像度を上げることには繋がらない。
書き手の状況がその間抜けさや滑稽さまでも隠さず明らかになっていくことであり、
気づきや決定や変化の、その手前に共感を見出すからこそそれらのターニングポイントに意味が生まれるのだろう。
読み手としては当たり前の構成で稚拙さすら感じるが、しかし書き手としてはそうでもない。何を閃いても、そもそも自分は何に困っているのかに立ち戻ることを意識する。
https://noratetsu.blogspot.com/2021/10/blog03.html?m=1
敬体で書いていることが多かった。その語り方になんだか違和感を覚えて書いていられなくなり、記事の更新は滞るばかりだった。ただ、敬体で書いていたのもそもそもは「だ・である調」に違和感があったからのことで、
どうしたいのかということは自分の内側に最初からあるのだが、それを自分で捕まえることは驚くほど難しい。外れていけば違和感として心が訴えてくるが、この道を行きたいのだと明確に知らせてくれるわけではない。
つまり、私は人に語りかけたいのではないにもかかわらず、語感の柔らかさを求めて敬体を選択してしまったがために、人に語りかけるものとして適切な内容を書かなくてはいけない気分になっていた、
無理して敬体で書こうとしていた時には「主張したいわけじゃないから断定的に書きたくない」というふうに思って常体を避けていたが、私にとって敬体は自然ではなく、余所行きのおめかしをしたものであり、内面を綴るには向いていなかった。文体が書き手である自分に及ぼす影響について、私は長いこと無知でいたのである。
なお、noteはSNS的な要素によって読み手の存在を否応無しに意識してしまい、場所を個人ブログにすることで自分の文体に場違い感を覚えずに済むようになった。
⇒やっぱり、媒体が及ぼす影響というのはあるわけだ……。例えば、Twitterならいいけど、spaceになるとすげー苦しい、とかもあるんだろうな。
自分と違うがゆえに魅力的に感じたというものを真似ようとしても継続は難しいだろう。私は人の真似を諦め、自分に馴染む空気によってのみ書き表すことにした。
私が書こうとしている文章のテンションが広く受け入れられるものかはわからない。ただ、私の固有のテンションを私自身がきちんと表現している限り、誰かは波長の一致に親近感を覚え、誰かは捉えどころのない不思議さを興味深く思うだろう
⇒いやしかし、これだけの分量の思考を頭の中にためておけるというのが、まずすごいわ。随時書くというのでなしに。
https://note.com/rashita/n/n74c84cb55b6b
でも、そうではないideaもごまんとあります。おーぷん・かーそるでも魅力的な原稿(idea)が複数集まっています。そうしたものを「まあ、どうでもいいか」と世に送り出すことはとてもできません。そこに優れたideaがあればあるほど、多くの人に伝えやすい形になっていて欲しいと願います。
もちろんその「教材」はまったく体系的にまとまっていません。抽象的に整理もされていません。単に、具体的な事例が大量に集まっているだけです。しかし、そこまで具体的な事例集を出版物として出すのは難しいでしょう。
ノウハウ書のように2時間でパッと読める、というような「教材」ではありませんが、ここまで実践的な──なにせ実践そのものです──「教材」は他にはないでしょう。
⇒そうかぁ、やっぱり2時間でパッと読める教材というのはありえないか。
芥川も三島も漱石も、「哲学者」ではない理由 | 哲学塾からこんにちは | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース
たとえば、フッサールやハイデガーやデリダ、あるいはウィットゲンシュタインやデイヴィドソンやクリプキが大嫌いな哲学(研究)者は少なくないのですが、とはいえ自分がこうした有名哲学者より「偉い」と思っている御仁はほとんどいない。
そこに共通して認めざるをえないのは、それぞれ互いにかけ離れた仕方でかけ離れた内容を語っていながら、ケタ違いの思考力・言語力を持っていること、具体的には、哲学的問題がどこにあるかを嗅ぎ当てる鋭敏な嗅覚と、獲物を切り裂く見事なほどの切れ味を有していること、でしょう。
https://toyokeizai.net/articles/-/70907?page=2
「哲学は思想ではない」とは、言い換えれば、プラトン、アリストテレス(くらい)から、ハイデガー、デイヴィドソン(くらい)までの西洋哲学のみを扱っている、ということです(西田幾多郎も読んでいますが、彼は、西洋哲学の潮流にそのまま入る)。
すなわち、哲学の終焉とか、ロゴス中心主義批判のごとき「哲学批判」はまったく無視し、ニーチェ、ハイデガー、デリダ、レヴィナスなども、存在論、神学、宇宙論、魂論……という、古典的な枠に入る限りで読んでいくのです。
https://toyokeizai.net/articles/-/64011?page=2
読者諸賢は、自分は何もデカルトやヴィトゲンシュタインを目標にしているのではない、大学の哲学の教授を目指しているわけでもない、ただ哲学がしたいのだ、それにはどうしたらいいのか? そう聞きたいのかもしれません。
しかし、この問いに答えるのはかなり厄介です。「趣味としての哲学」とは自己矛盾であり、それは哲学ではないからです。哲学とは、その核心的部分に「真の哲学」があり、その周辺に広大な哲学のすそ野が広がっている、という構造をしているわけではない。
しかし、物騒なことに、あのハーバード大学のマイケル・サンデル教授のように、いろいろな人がまったく哲学とは縁もゆかりもないものを「哲学」と称して全世界にばらまいているのですから、困ります。
では、ホンモノの哲学とは何か? 前回にもちょっと触れましたが、存在とか認識とか自我とか時間とか、いやずっと絞っていくと、「存在」と「認識」だけでいいかもしれない、アリストテレス、いやもっと前から天才哲学者たちが問い続けてきた根源的テーマに関わり続けることです。存在論とも認識論とも格闘していない人が、いかにほかの分野で機転の利いたことを喋っても、それは中身のない金メッキにすぎません。
https://matsuura05.exblog.jp/299473/
(A)「問題の提示」⇒「他者見解の紹介」⇒「他者見解の批判」⇒「自説の提示」
という流れ、もしくは、要素が、論文と言われるものの骨格・要素をなしているということです。
これら各要素のうち、「他者見解の紹介」と「他者見解の批判」を省略して、
「問題の提示」⇒「自説の提示」だけを行ったものは、論文とは言わず、「感想文」や「エッセイ」と言います。
ここで言う「問題」を「話題」と置き換えてみれば、そのことはわかりやすいかもしれません。
つまり、「何かある話題について、自分の考えを言う」という文章の書き方は、
文章の種類として、小学生が夏休みの宿題として課される「読書感想文」と同じものであり、
どれほど語彙が洗練されていようと、また、どれほど詳細な考察が行われていようと、
それを「論文」とは言いません。
自分の考えが正しいのだと人に説得するためには、
その前提として、他者の考えが間違っているということを自分の考えとは独立的に証明しなければなりません。
それが「批判」の役割であり、それなし自分の考えを他人に説得しようとしても、
まず無理だと考えておいた方がいいと思います。
その意味で、他者の見解を紹介して、それを「批判する」プロセスが必要なのです。
どのくらいの数の文献を集めればいいのかということについては、ケースバイケースで、何とも言えません。
多ければいいと言うわけでもないでしょうし、あまり少なくても仕方がありません。
経験上、一つの研究論文を書き終わった時に、結果的に、30から40くらいの文献が手元あるということが私の場合には多いです。
全部読むというわけではなく、その中から必要なものを必要なだけ読んだというにすぎません。
或る文献に引用されている文献については、全文を読まなくても、引用された箇所を確認するために、持っていた方がいいと思います。
しかし、100も200も集めても、まず、読む時間はないし、必要なものを探すのが大変になります。
論文によっては、最初の2−3ページ(導入部)と、結論だけを読んでおしまいにすることもあります。
テキストの中の何を問題にしており、その問題について、何を主張しているのか、このことだけを、私は知りたいからです。
そうして、その後では論文を読むのをやめ、問題と主張のみを念頭において、テキストを読んでその妥当性を検討します。
それでその著者の言うことに納得してしまえば、その問題では研究論文を書くことはできませんので、
別の問題をその文献の中に探すか、別の文献を読むということになりますが、
他方、その著者の主張に納得できなければ、その問題を自分で解くことへと向かいます(解くに値すると思える問題の場合ですが)。
その時には、自分で答えが出せるまで、少なくとも、その問題を解くという目的のためには、他人の論文はほとんど読みません。
自分なりに問題解決の方法が見つかったと思えたところで、
(引用者中略)
この段階が、私にとっての「サーベイ」であり、この段階で、私の解決法と全く同じ考えが見つかれば、
やはりそれは研究論文にすることはできないわけですが、
ただ、これまで、私と「完全に同じこと」を述べているという文献に出会ったことはありませんでした。
https://note.com/niwakaha/n/nb746629f41a7
公約第二弾で枝野氏は、「インターネット上の誹謗中傷を含めた、あらゆる差別を防止するため」の機関をつくり、それが「勧告などが簡易」にできて、しかも、「一定の実効性を持つ」などといいはじめた。実効性をもつということは準司法的な権限となるのか。立憲民主党の目指す「あらゆる差別の解消を目指す社会」にとって、「差別を認定する」のはパブリックエネミーを選定することになり、絶大な権力だ。差別を誰が認定するのか。そこに言論の自由はあるのか。とある有名な人気アカウントは「国家の定義で差別を認定し、刑罰まで与えるってことなんですよ。マジで」と呟いたが、さすがにわが日本国では憲法で司法権は裁判所にしかないと決まっているので事実性はともかく(いや立憲主義を否定するのが立憲民主党なので、何をいっているかわからねえとおもうが)、おそらくそういう欲望のもとに枝野氏は発言しているではないか?というのは、多くの人々が抱いた当然の懸念であろう。
SNSを活用し、熱心に情報発信する層は社会の中上層であり、インテリである。インテリの多くはモリカケ桜など一瞬で問答無用にくだらないと思う(かくいう私もだ)。ひいては独我論的に自分が考えることはすべての人間が考えるとして、「こんなものに需要などない」と判断する。しかし「お前らはモリカケ桜とか今更、何をいいだしたんだ?先鋭化した支持者の意見だけ見てるのか?」と指摘しても、実は立憲民主党の人間からしたら「おまえらこそ、実際に選挙民の声をきいたことあるのか。SNSのインテリの論だけみてるんだろ」と思うのだ。
https://note.com/niwakaha/n/n40fbd0e4ab57
Twitter社のトランプ永久凍結理由とは、トランプが「大統領就任式は欠席する」と発言したことなどを、支持者が「式典攻撃を正当化している」と受け止めた(扇動された)というものだ。もはや本人の意志から離れ「受け止め方」の問題で、この論理を転用すればなんでも恣意的に取り締まれる無敵の論理である。
「自分の言葉で語れ」という言葉自体が、とても陳腐であり凡庸だ。「自分の言葉で語れ」というが、その言葉自体が本当に「自分の言葉」なんだろうか。
クオモの「私はNYを愛している。NYは皆を愛している。愛は勝つ」みたいな言葉のどこが「自分の言葉」なのだろうか。ただのメリケン流の浪花節ではないか。だが、妙に意識の高いインテリがひっかかるのがクオモなのである。
https://note.com/sasakitoshinao/n/ne3805c39baf9
「快哉を叫んだ左は多かったと思います。明らかに天皇は一定の意思を示していて、追い詰められるばかりの左にとって最後の希望のような存在になってしまっている。倒錯しています。でも白状すると、その心性は僕にもあります」
森さんにも「倒錯している」というご自覚はあるのですね。天皇崇拝しつつもちょっと自虐的に、次のようにも語っているのです。
「政治家も官僚も経営者も私利私欲でしか動いてないが、天皇だけは違う。真に国民のことを考えてくれている。そんな国民からの高い好感と信頼が今の天皇の権威になっていると思います。
これだけでは今上陛下がオリンピック開催に反対なのかどうかはわかりません。「感染防止をきちんとしてほしい」とおっしゃってるだけとも解釈できると思いますが、ネットなどには「陛下は反オリンピック」という忖度の意見がまたも溢れかえりました。
日本のマスメディアは、主語のない批判が得意です。
たとえば「……という批判はまぬがれないだろう」といった書きかたがありますね。これって「誰が批判してるのか?」という主語が消失してしまっています。「私たち○○新聞社はこの政策を批判する」って書けばいいのに、なぜか書かない。
⇒誰かなんとか、ビシッと言ってやってくれと。
インターネットの普及で、だれもが議論に巻き込まれるようになって、自分自身の主体性みたいなものが問われるようになったということもあります。いまのSNSでは「人ごと」みたいに言うような意見は、賛同を得られないことが多いのです。「わたしはこう思います」としっかり発言する人のほうが、当事者性があって信頼感がある。