2020/12/01-202012/08
自分の読み物を作っておく
過去に遡って、単語にリンクを貼っていく、ということをたまにやるので、scrapboxと言えども「全文を対象とした検索」の挙動は大切なんだよな。
止めるべきは止める
「死んでもお金を払いたくない」とまでは言わないけど、「時間の使い方として、タダでできることだけの組み合わせでどこまでできるか」ということは思うよなぁ。
自分の苦労を子にさせない
自分の知っていることを教える
おじぎそうをつつくとしおれる。
無心に
詰め替えの純正品
妻
脳AR、全ての空間にあらかじめ意味付けのある世界を生きている
内省や逡巡や葛藤に何の意味があるのか?
説明と確信
内省を全くしない人というのがいるとすると
どんな感じか?
それは幸せか? あるいはそこに二面的な現れる生きづらさはどんなものか?
空体語≒信念体系を維持するための言葉?
筋肉は買ってこれない
ライフハックの上流、生きる活動に対する思考の姿勢そのもの、不条理と本能の間で人がどう選択するかというような部分の流儀にスポットライトが当っちゃってる部分も問題ではある。
「現在は昔に比べて良くなっており、暴力も差別も昔に比べてマシになっている」と主張することは、「昔に比べてマシになっているのだから、現在起こっている暴力や差別の問題は深刻なことではない」と言っているようにも聞こえかねない。
昨今のアメリカでは人種に関する問題と性別に関する問題がとりわけ社会的注目を集めており、「現代社会の差別問題は非常に深刻だ」というイメージはかつてなく強くなっている。そのために、「いま」の良い面を強調するピンカーの主張に対しては、「いま起こっている人種差別や性差別の問題は大したことがない、と思っている」という疑いがかけられてしまうのだ。
公開書簡の執筆者たちはピンカーのツイッターを数年前までさかのぼって調べたはずだ。それでも、彼らは、ピンカーが「差別の問題を矮小化」していることや「差別に反対する人の声を抑圧」していることを直接的に示す証拠を発見できなかった。
だから、「ピンカーは人種差別の問題の原因に関して、活動家たちとは異なる意見を抱いている」ということしか示せず、「活動家たちと異なる仮説を支持するということは、差別の問題を軽視して矮小化することである」というロジックで非難をおこなうことになったのである。
もし、「問題の原因について、活動家たちとは異なる仮説を支持する」ことが「差別を軽視したり差別に反対する声を抑圧したりするものである」と見なされてしまうと、ピンカーのみならずかなり多くの人たちが、社会問題に対して何も発言することができなくなってしまうだろう。差別問題に反対する活動家たちの意見に疑問や反論を呈することも許されず、黙って受け入れることしかできなくなってしまうからだ。
特筆すべきは、この公開書簡に600名もの署名が集まり、そのなかには学生だけでなく助教授や教授の署名もあったことだ。そもそもピンカーが多くのアカデミシャンから 批判されていたり嫌われていたりすることも一因ではあるだろうが、その背景には、もっと根深くて深刻な問題が存在する。
次回の記事では、昨今のアメリカのアカデミアに重大な影響をもたらしている「キャンセル・カルチャー」や「ノー・プラットフォーミング」の問題について、「公正と公開討議についての書簡」の執筆者の一人である社会心理学者のジョナサン・ハイトの議論を参考にしながら解説しよう。
鷲は天空を舞う翼と 獲物を八つ裂きにする爪 くちばし
それらによって命を支えている つまり
能力 才能がすなわち「生」
野生動物はだからこそ ただ生きているだけで美しい
在り方がシンプルで無駄な欲がないから美しい
一見それは残酷に見えるかもしれんが
能力を失って生きる方が よっぽど残酷よ
死んだ方が生き物としては救いなんや
赤木がやろうとしていることは
たぶんそういうこと つまり
人としての能力 脳をやられて
霞がかかったような意識で 生きていきたくないんや
その情報がヨーロッパに行って、知識人たちを刺激します。ライプニッツもその一人ですね。彼は20歳から亡くなるまでずっと中国の本を読んでいます。最晩年に書いたのが『中国自然神学論』でしょう。
哲学者の坂部恵先生が千年に一人の天才とおっしゃったライプニッツが、中国のほうをずっと見続けていたとはどういうことなのか。それは中国の概念が旅をしているわけですよね。つまり、朱子学と言ったほうがわかりやすいかと思いますが、宋から明にかけて成立した性理学の概念が旅をして、「理性」のようなヨーロッパ近代的な概念を洗練する一つのエンジンになったのです。
國分:多文化主義の発想の根幹には寛容の思想があります。寛容というのはフランス語でトレランス、つまり我慢することです。相手の存在に我慢する。それはつまり、「あなたに触れませんから、僕にも触れないでください」ということであり、まさしく多文化主義です。
それに対して、一緒にどうぞと、自分が主人だか客だかわからなくなってしまうのが歓待であり、概念が旅しているときには歓待のようなことが起こっていると思うんです。
『全体主義の克服』の最後に、私は「人間的になること(human becoming)」や「ともに人間的になること(human co-becoming)」という概念を出しましたが、相互変容が起きないような哲学ではもうダメなのでしょう。
「反動おじさん」みたいな言い方だったからか、世界の哲学研究者から総スカンを食らったと言ってもいい。
けれども、僕がNHKの番組でアガンベンの論評をまろやかに紹介したら、それは受け入れられるんですね。叩かれることを覚悟で、かなり緊張してアガンベンの意見を紹介しましたが、批判的な反応はほとんどなかった。むしろ多くの方からいろいろ考えさせられたという感想が寄せられた。
つまり口調というものが非常に大きな役割を果たしている。ということは、ネット上にだって、実は、きちんと受け入れて咀嚼するべき言葉があるということなんです。
中島さんが礼という言葉で言おうとしていたのは、繰り返される習慣の中で形成される、自らの振る舞いの形式そのものであり、ひいては、自分の生のあり方や他人との交流の基礎になっていくようなものだと思うんですよね。
アガンベンの「生の形式」も、ほとんど習慣のようなものですから、礼と極めて近いと言えると思います。
國分:現代の資本主義は同じことを繰り返すことを許さない。新たなニーズにつねにフレキシブルに対応し、イノヴェーションを続けることを強制されます。これは言い換えれば、日常というものをなかなか手にできないということです。実はわれわれは今日常を失いつつある。
アメリカの哲学者スタンリー・カヴェルは、「日常というのは出発点ではなく獲得されるべきものだ」と言っています。これは実にすばらしいイメージですし、今こそ考察されるべき思想だと思います。
アルバイトの男の子が「ラブライブが終わって次にはまれるコンテンツがない」みたいな事を言っていたので「好きだったらそのままはまってて良いんじゃない?」と言ったら「いやー流行ってないのにハマるとかないですわー」って返された。え。最近の若い子達ってオタクコンテンツもそんな感じなの?
『お約束』は、実は物語やキャラクターそのものが多数あるだけでは生まれない。誰かがメタ的に『〜というお約束があるね』と言葉(概念)、パロディにした時に、初めてお約束になる…のだ(受け売り) / “「鬼滅の刃」の話題から、銀魂発明の「最終回発情期」(ファイナル…”
余暇が減っていく
人格が固まってくる
感性が時代とずれてくる
想定客層にされなくなる
まあ色々あると思うけど、とりあえず、
「新しくハマれるものが出てくると安心する」感覚への共感はすごい。
「狂ってたい」という感想への共感もすごくする。
ドーパミン分泌過剰というか感受性が低いというか
ある意味、「上手くハマれない最近のもの」に対して、あーやこーや言いたくなるのは、この気持ちの裏返しかなあ
ただ、類似性の変遷とか、そういった、「ある種の深み」みたいな読み方ができるようになるのは人生の長さであろうか。