2020/11/18-2020/11/24
#採掘場
職場一人トークルーム
不安なとき、ダメージを受けたとき、やる気になれないとき、「おしゃべりで散らす」ということができないのなら、こんな方法もあるのではないか。
テキストにベタ打ちとか、箇条書きツールに断片化しながらとか方法はあるけど、「チャットツールっぽい」見た目が与えてくれる影響というのもあると思う。そんな自作。
⇔どいつもこいつもよく喋る
scrapboxですら、しょうもない独立ノートを切り出すのに割と躊躇する感覚が出てきた。
読んでくれる人がいるからね。
もちろん、しょうもない物はネームドにしないで、日付ファイルの中に残しとけばいいじゃん、というのも一つの判断なんだけど
作りはじめはそうとも限らなかったし、そうであるからこそノれた部分もあったと思う。
ノれなくならないように気をつけたい。
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https://rashita.net/blog/?p=30468
いや、むしろ話は逆なのかもしれない。「いかにあるか(いかにありたいか)」という問いとの向き合いを避けるために、とりあえず「便利な方法」を摂取している。そういう話もありえる。
⇒目的がありポリシーがあるということは、宗教戦争になる可能性もあるということで、避けたいという嗜好性が出てくるのは仕方ないかもな。
すでに「いかにあるか(いかにありたいか)」を捉まえている人は、別段問題はない。一つひとつ方法を取り上げて、その感触を確かめていけばいい。
問題は「いかにあるか(いかにありたいか)」が明確でない場合だ。その場合、触れた一つひとつの方法が持つ目的が、使用者に流れ込んでくる。当人にその自覚もないままに。
https://rashita.net/blog/?p=30470
自己啓発の文脈に取り込まれたライフハックが「Be」を提示し、それが薬が受容体に吸い付いて本来とは違った働きを促すように、その人の「Be」との邂逅を妨げてしまう。自分の「Be」ついて考え、ときに書き換えていく作業を抑制してしまう。
もう一つは、そうした提示される「Be」の否定として、「Be」そのものへの否定が起こり、単に野放図な生き方を肯定してしまう。
⇒「あなたらしさ」といって手渡される、私らしさ自身ではないもの。
言われてみれば確かになんだけど、「女らしくしなくていいんです!」と誘われても、「女らしくしているのも好きな人」というのはいるのだし、「飲み会は無駄!」「会議は無駄!」と言われても、それが好きな人というのもいるわけだ。
でも、じゃあそういう人が、そういう言説の影響をまったく受けないのか、というとそんなことはなくて、少しは受けてしまうところが歪みを生んでしまうのだろうなあ。
というところで、千葉雅也さんみたいに、徹底的に「それは嫌だ」ということに気付けて言える人がいると、周りの人もハッとそれに気付ける可能性が上がる。
https://bunshun.jp/articles/amp/41510?page=1
まず1967年にモンキー・パンチが発表した原作漫画があり、それをもとに1971年に最初のTVアニメが制作された。当初は大隅正秋が監督し、アダルトなムードでスタートしたが、視聴率が上がらず方針転換が決まる。そこで中盤以降は宮崎駿と高畑勲が演出を担当(Aプロダクション演出グループ名義)することになり、2クールに3話足りない全23話で完結した。
この最初のアニメ作品が再放送で火が付き1977年に新たなTVアニメが始まる。
『新ルパン』がスタートするにあたって新たに様々な要素が盛り込まれたが、やはり目を引く違いはジャケットの色が『旧ルパン』の緑から原作通りの赤に改められたことだろう。旧作の時、原作と異なる緑が選ばれたのは、当時のブラウン管TVでは赤の色が滲んで見づらかったからだという。
ルパンというキャラクターはとても扱いが難しい存在だ。原作のモンキー・パンチがナンセンスやスラップスティックを好む作家のため、原作ではトリックのためのトリック(読者を驚かせるためだけに仕掛けられたトリック)がよく描かれる。そこでは、ルパンというキャラクターには盗みを行う動機などの内面は求められない。ただ、大胆な仕掛けの連続で読者を驚愕させていくための、粋な狂言回し。そのような徹底的な表層性こそが、原作のルパンの姿なのだ。
しかしそこまで表層的なキャラクターを映像作品の主人公にするのは難しい。映像作品のキャラクターには、もう少しドラマを内包した内面が必要だ。そこで『旧ルパン』の大隅監督は、原作から「アンニュイ」という要素を発見し、それをルパンというキャラクターの柱に据えた。人生に退屈した男が、倦怠を吹き飛ばして、生きている実感を味わうためにギリギリのスリルに身を投じる。それがルパンという男である、というわけだ。
一方で中盤以降を手掛けた高畑・宮崎コンビはそこに「アンニュイ」ではなく「ハングリー」を代入した。金はないけれど、おもしろそうなこと、刺激的なことに飢えていている青年。それは原作のルパンというより、高度成長の末期に漫画『ルパン』に熱狂した若者の姿に近い。それが『旧ルパン』の中盤以降のルパンのキャラクター像となった。
『カリオストロの城』でそこに代入されたのは「中年」だった。宮崎は『カリオストロの城』制作のスタンスについて「はっきり中年の意識で作っているんですよね」(「アニメージュ」'81年1月号)と発言している。ハングリーな衝動に突き動かされた若き日は去り、金で買えるものには飽きてしまったルパン。ライターひとつとっても、使えるならば100円ライターで十分、食事もカップラーメンで構わないという実務的な男になっている。
⇒カリオストロが好きじゃなくて、「ルパンがいい人になってしまっている。あんなのルパンじゃない」という人に結構出会っていて、「じゃあ、本家本元の原作漫画はどんな風なんじゃい」と思って読んでみたら、
絵がきたないのももちろん、ドタバタすぎて全く入り込めなかった。ニヒルとかハードボイルドとか、そんな
https://note.com/nokiba/n/n0d8b62d21377
これは奇しくも、宗教的な信念の裏返しのようにも受け止められます。
「自分の時間などなくていい」というのが「無我の境地」のようだということは、
「自分の時間こそ絶対だ」という信仰心のようなものが、強烈だからだろうと推理してしまうわけです。
「自分の時間」がそれほどまでに大事なのは、「自分の時間」によって「自分の人生」を有意義なものにせねばならない、からだろうと思います。
https://note.com/rashita/n/nb1b919850636
逆に言えば、完全な言説とはトートロジーのことです。「私は私です」という言説には、「トートロジーじゃん」というツッコミ以外の入る余地がありません。それに比べると、「私は物書きです」という言説には、「ほんと、物書きなの?」とか「そんな力量で物書きと名乗れると思っているの?」といったツッコミが無数に入る余地があります。
だから、何か意味があることを言おうとするなら、ツッコまれることは覚悟した方が良いでしょうし、ツッコまれたからといってすなわちその言説がダメだととはならないことにも注意を払った方が良いでしょう。
https://rashita.net/blog/?p=30481
不完全だからダメだと白黒思考でケリを(あるいはケチを)つけるのではなく、
https://twitter.com/kurubushi_rm/status/1330866320326283265?s=21
そして最後では、自分のやり方を見つける/やっていくことを応援したつもりです。
一方、この本の中で、否定的に扱ったものが2つあります。一つは「本を読むことは通読することだ」という考え方、もう一つは「勉強とはテストに正解するために行う努力だ」という考え方です。
https://twitter.com/kurubushi_rm/status/1330866322654150657?s=21
前者では通読向きの書物を既に楽しんでおられる方に、後者では試験勉強等に多くを捧げて来られた方に、不愉快な思いをさせてしまったかもしれません。
https://twitter.com/kurubushi_rm/status/1330866324671610880?s=21
私がある考え方を批判するのは、誰かの存在を否定したいからでも、こき下ろしたいからでもなく、その考え方が呪いのように作用して苦しんでおられる方を助けるためです。
その意味で、すでに広いところに出ておられる方には無益な部分もあると思います。