2020/11/01-2020/11/10
#採掘場
あの印象的なエピソードの載っていた本はなんだったかな?
人生ゲームのおもしろさとカタン
最適停止問題
相場
スポーツ漫画の弱点
砂を噛むような飲むような
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ありがてぇ 贋者じゃねぇ
⇒ネガティブなできごとの期待誤差?
核兵器の直下に武道の達人がいたからって何になる?
僕は人は自然の生き物なので、
人がすることはすべて自然の範疇だと思ってます
どんな発明でも革新的技術でも
SFのような話でも 自然の範疇だと思います
それはミツバチがハチミツを作るのと、
アリがアリ塚を築くのと同じことだと思うからです。
人に一からハチミツを作れと言っても
多分ムリでしょう
植物のように光合成て酸素を作ろうとしても
まだ同じようにはいかない
台詞、外部足場、ニッチ構築
https://note.com/rashita/n/nf3270b037f00
なぜ、「日記/ノート」を書くことが大切なのかと言えば、一つにはそれが広告的情報に汚染されていないからです。あなたがジキルとハイドでない限り、勝手に右手が広告敵情報をノートに書きつける、ということはないでしょう。
しかし、それだけではありません。書かれるノートは「近傍」であり、「創造」である点も重要です。どういうことでしょうか。
⇒このへんが新刊のテーマになるのかな
⇒かーそる4号とのカニバリがちょっと怖い。
感謝することは、その物との関係性を過去に向けて振り返ることを意味します(未来の出来事に感謝はできません)。つまり、未来や期待ではなく、今を起点とした過去に注意を向ける行為なのです。先ほどまでの話を引き継げば、非ドーパミン的な活動と言えます。
逆に、未来や期待に焦点を合わせれば、「まだ使えるかもしれない」「いつか使うときがくるかもしれない」となって、モノが捨てられなくなるわけですが、
N&M回路?
「創造」を一つのバランスメーカーとして提案しています。たとえば、日曜大工など、手を動かして何かを作ることは、ある完成形に向かって駆動するドーパミン的行動でありながら、それは常に自分の近くにあり、完成したものも自分の手元に残ります。つまり、近傍的満足感がそこにあるのです。
https://www.cnn.co.jp/usa/35160936.html
選挙が引き分けで終わることはあるの?
あるともいえるし、ないともいえる。最終的には大統領が誕生するという意味では引き分けでは終わらない。ただその過程において、選挙人団の投票が引き分けとなる可能性はある。もしどの候補者も選挙人の票を270票を獲得できない(または2人の候補者が269票を獲得する)場合は、下院が大統領を選出することとなり、各州の代表団は1票を持つ。候補者の1人が過半数を得るまで下院はそれを続ける。
歴史好きの人なら1824年の選挙を調べるとよい。一般投票の票数や選挙人の票数ではアンドリュー・ジャクソンが勝っていたが、下院が大統領に選んだのはジョン・アダムズだった。
右翼と左翼をわけるもの
外交・軍事面で他国とちゃんと対峙できるようにしよう(領土とか軍備とか)というのも、内外で分けた内側、自分が住む国を重視する態度になっている。経済面で新自由主義的なのも、今の資本主義システムを前提にして国としてきちんと競争力を保とうという文脈から理解できる。
一方でリベラルが、福祉を充実させよう、再分配をちゃんとやろう、貧困問題をなんとかしよう、外国人の不当労働をやめさせようというのも、上下に分けた下側を重視する態度になっている。
4象限
赤の他人なのに沖縄の基地のことで反対しているのも「そんな風に誰かが虐げられて不当じゃないか!」と怒っている。
それで保守はリベラルのことを「非現実的だ」と、リベラルは保守のことを「差別的だ」と思っている。
左下の領域(内の下)はお互い重なっているから意見が一致しそうにも見えるものの、実際にはそうではないというところ。じゃあネトウヨ(保守)は生活保護受給者に擁護的かというと真反対だしね。
保守は上下という分け方の視点を、リベラルは内外という分け方の視点を持っていないので、あまり興味がないといった方が正しいのかもしれない。
リベラルから見ると領土問題が重大な課題だとはあまり感じないし、保守から見ると外国人差別問題が重大な課題だとはあまり感じないのではないか。それで左下の領域がお互い重なっているように図では見えても、保守はそこを「下」だと意識して見ていないし、リベラルはそこを「内」だと意識して見ていないので、別に意識が重なっているわけではないという。
合理的な選択の末に、いつの間にか世の中に取り残される感覚
出てきた当初からちょっとずつ適応していれば、(スロープとまでは言わないにしても)階段を少しずつ上っていくように習得できても、いきなりその階段も消滅して目の前に崖が現れる。崖を登ろうとちょっと試みてみるけれど、無理すぎて諦めざるを得なくなる。
iPhoneというかiOSも、最初に出てきたときはアイコンや色んな箇所がはっきり「ボタン」っぽいデザインだったりして分かりやすかったような気がする。
しばらく前にTwitterで「お年寄りがエアコンを使いたがらないのは、エアコンの操作方法がわからなくて、そんな自分が嫌になるのが嫌だから」という話を見かけた。
自分自身を振り返っても、10代や20代前半の頃は新しいウェブサービスが出てきたらとりあえずやってみる、くらいのフットワークがあった。でも最近は例えばSpotifyやNetflixや色んなサブスクサービスがあるなとは思っても結局何も入っていない。
漠然とした想像でしかないけど、そうやって10年、20年後にレガシーなサービス(TSUTAYAのDVDレンタルとか)が、新方式の普及率9割で、1割の人のために古い方式の維持がもう割に合わない、費用対効果に見合わないからとパッと消えていきなり放り出されてから「じゃあ適応していこう」だと、もうかなり大変かもしれないみたいな不安がある。
キャッチアップしなくなったのは、自分の興味や関心の方向が定まってきたからなんじゃないかという気がしている。有限な時間の使い方・振り分け方をコントロールしたいという感覚がより強くなっている。
つくば市議選で無名女性候補が「街宣車も演説もゼロ」で3位当選…“さすが東大卒”の秘策があった
⇒街宣車フリー
⇒とはいえ、これが成立したのは、学歴の持つ最低限の人格担保があったことと、なにより「市議会」だから、というところもあると思う。
⇒都知事選だったら、たぶん「泡沫」候補で終わっただろうなあ。マスメディアの切り分けによる足切り、というのが起こらなかったとしても。
女性との交流や女性への下心が男性の認知機能を低下させる、といった研究があったりする。
「ただしい男性性欲」の究極形は、学校や職場や家庭では常時賢者タイムで、性交同意書にサインをして実際に性行為をする時だけはフル稼働、といったものではないでしょうか。どこまでも正しく、生産的で、安全・安心で「本人のためにもなるでしょう」。
性欲
https://note.com/nokiba/n/n34adf59727f8
そもそも私が「留学しよう」と思いたったのは、「明晰夢」を見るためである。私はものの考え方が極端なので、「自分はモテないが、モテたいので、見たい夢を見る能力を身につけて、夢の中でモテることにしよう」としたわけだ。
https://yashio.hatenablog.com/entry/20200831/1598885100
民主党内にはもともと自由に議論ができる一方で決めたら従う人が少ない、という文化があったという。自民党では総務会で反対していた議員が決める時になると何故かいなくなるが、民主党では最後まで反対する人だけが残るという。そもそも合理的に解決できる話なら政治の場に持ち込まれる前に解決されているはずなのに、政治的な案件も議論で答えが出ると考える人が若手だけでなく幹部にも多かったという。
調整
事業仕分けという仕組み自体は、もともと地方自治体で発展したもので、財源確保というより透明性の向上や市民参加を目的としている。しかし民主党政権では財源確保が目的となってしまったので「成果が上がっていない」という見方をされて批判材料になってしまった。
※予算案へのこの批判に対して、11年から各省庁が自分で概算要求前に事業仕分けをして結果を公開する「行政事業レビュー」がスタートし現在まで続いていて一つの民主党政権の成果になっている。東日本大震災で全然関係ない事業に復興予算が使われていることが分かって問題になったことがあるが、それも行政事業レビューの記録が公開されていたことが発端になっていて、透明性向上に寄与している。
一方で成果が何もなかったということもあり得なくて、『民主党政権 失敗の検証』でもいくつか挙げられている。
社会保障などの分野では以下のような成果が挙げられている。
診療報酬改訂(医師不足改善)
高校授業料無償化(中退者減少)
求職者支援制度創設
雇用保険の非正規労働者への拡大
生活保護の母子加算復活
それから外交・安全保障分野では、鳩山政権で混乱したものの、菅・野田政権では安定していったとして、
10年12月の防衛大綱の見直し
11年12月の武器輸出三原則の緩和
12年のASEAN海洋フォーラム拡大会合(EAMF)開催
分かれたりまたくっついたりしてるけど、小選挙区+比例代表制で選挙をやってる以上、党に逆風が吹いている時は離脱した方が得だし、でも野党がバラバラだと票が割れて選挙で勝てないのでまた集まった方が得なので、弱まるとバラける、時間が立つと一つにまとまる、のサイクルを繰り返すことになる。実際『民主党政権 失敗の検証』でも、民主党が惨敗して野党転落した12年衆院選で、民主党から離党した方が残留するより再選率が高かった、というデータが紹介されている。
泥舟
外から見ていると、離合集散を繰り返して理念も政策もバラバラの選挙のための「烏合の衆」みたいな印象を与えるより、一旦党勢が衰えても二大政党をきちんと維持した方がかえって将来的な政権獲得のためには遠回りなようで近道なのでは? と思えたとしても、自分自身が落選するかどうかの立場にいる国会議員当人にとってはどうしようもない。部分最適と全体最適が一致しない事例かもしれない。
⇒国会議員にも人生がある、ってのがすごく重い制約になっちゃってるなあ。
政党だけ選んで、議員というものはない、みたいな投票はできないかな
(閣僚間の対立もメディアで報じられたりした。)辻元清美は「自社さ政権時の野中広務のように政権維持に徹する覚悟や政治技術を持った政治家が不在だった」と振り返っているし、野田も「ずっと政権にいて党内の空気感の把握が弱かった。政権より党のマネジメントの方が結局困難だった」と振り返っている。
リーダーを支えたり決定に従う文化が希薄で、政府と与党の役割分担が不明瞭で、党内ガバナンスが十分機能していなかった。
⇒ナンバーツー、とか隠れた補佐役、調整役、泥をかぶるするようなことというのは、「その組織の共同体性」みたいなものが信じられないと、できないしねえ……。
https://yashio.hatenablog.com/entry/20180329/1522323681
一般企業でも「この試験に合格すれば昇格です」とか「これが出世ルートです」とか「こういう成果を出せば出世します」といった恣意性に基づかないある程度予測可能なキャリアパスが暗黙にでも存在していれば、あるいは少なくともいきなり理不尽な人事処分は受けないという安心感があれば、「この人に気に入られなきゃ」という行動パターンが減る。けれど「社長個人の思いつきで勝手な人事になる」という予測不能な状況だと、何が正解かはわからないのでとにかく機嫌を損ねないようにしないといけなくなって歪んでいく。あらかじめ「その人が好きそうなこと」を考えて配慮しちゃう。出入口がふさがれていなければ、たとえ社長がめちゃくちゃでも「じゃあ辞めてもいいや」という道があるけど、ふさがれていると社長のめちゃくちゃに付き合わざるを得なくなる。
ただ人事の恣意性が低いと「この人に気に入られよう」は減る一方で、「組織に気に入られよう」は増える。一般企業だと「組織の利益を求めよう」が「会社の利益を伸ばす」と概ね一致して問題なくても、省庁だと「組織の利益」が「国民の利益」とは必ずしも一致しないという違いがあって、内閣人事局設置以前の官僚人事だとここに課題があった。
ただ、この構造を政治家が自覚的に利用したり構築してきたのかというと、案外そうでもないのかもしれないって気もする。政治家自身の感覚でも「やれって言ったわけじゃないけど、なんか都合よく動いてくれてうれしい」くらいのアバウトな認識で、実は苦しめていることにはまるで気付いてなかったりするのかもしれない。(設立に向けた分科会で研究し続けてた政治家の一部や反対していた政治家はわかってるのかもしれないけど……)
そう考えると労働市場の流動性がかなり低い日本で内閣人事局だけ取ってつけたみたいに導入するのは厳しかったのかもしれない。せめてIT業界(というかWeb系IT業界)くらいに「会社に所属しているというより、業界に所属している」という感じでエンジニアの流動性が高いような、政治家と官僚と研究機関(大学でも民間でも)の間の流動性を高めることとセットになっていないと、官僚が追い詰められておかしくなっちゃうのかもしれない。
賃金体系も当然変更される必要がある(職能給から職務給へのシフトなど)。しかも公務員だけではなくて大学や民間も含めた転換が必要になる。
そんなこと簡単には無理だ。公務員だけ変えるんじゃなくて、民間含めた業界全体で変えるなんてどうしたらいいんだろう。社会でそこまで変えるのが難しい以上は、「内閣→行政」の矢印を多少犠牲にしてでもさしあたりは内閣人事局の人事権の範囲を制限するくらいしかないんじゃないかという気がする。「出口をふさぐ」が直せないなら、「人事権を握る」を緩めるしかないんじゃないか。両方成立しちゃうと人がおかしくなってしまう。
⇒官僚にも人生があって、そこにも配慮しないといけないわけか。めんどくさいな。
https://yashio.hatenablog.com/entry/20170531/1496239426
デモが発生する背景にあるのが国家に対して自律的な組織であって、これを「中間勢力」と呼んでいる。こうした中間勢力がずっと解体され続けてきた歴史が日本にはある。徳川時代ですでに、仏教(寺)が役所の出先機関化されたり、寺子屋という形で教育機関が国家に支配されたりしていた。明治期の統一国家の形成・産業化のスピーディーな進行にはこの背景がある。(西洋で、国家とは独立した教会組織が教育機関として機能していて、国家からの介入に強力に抵抗していたことと対照的になっている。)
中間勢力の解体は90年代も進行していて、労組(国労・日教組)、創価学会、部落解放同盟、大学自治といったものが、国家と資本の「鞭と飴」で弱体化・骨抜きにさせられていった。(創価学会は公明党が与党として取り込まれることで中間勢力としての力を削がれた。)一般に中間勢力は封建的・非効率的・不合理な特徴を持つものなので、世間(メディア)に一斉に非難されると抵抗が難しく潰れてしまう。
日本で唯一大規模なデモや集会が普通に存在するのが沖縄で、これは徳川時代に国家からの直接的な支配から比較的免れていたことで中間勢力(自律的な共同体)がまだ残っているため。
このあたりの中間勢力が明治以降に弱体化させられたことと、またそれによって個人が弱くなったり権利感覚が歪んだりするといった話は宮崎学『法と掟と』に詳しい。
また相対的に日本会議系が影響力を増しているのも、他の中間勢力が弱体化してデモや集会に人を動員したりロビー活動を展開したりする力がなくなってしまった、という文脈で捉えられるかもしれない。