2020/04/18-2020/04/24
#採掘場
『暗黒竜と光の剣』
その意味で、だからこそ進軍であって「領域を広げていく」わけではないこととか、ユニットを生産できないことも、逆に生きているのかもしれない。
ところで、こういうゲームをやっていて、女子供キャラの「使っていきたさ」の訴求力の高さは異常。イケオジだって魅力があってもよさそうなものだが。
『暗黒竜と光の剣』のバックストーリー
予言の勇者というエピソード
心理戦
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『欣求楽市』の一部紹介
そういう本があって、戦国と信長が好きなら、まあ読んで損のない本なんだけど、電子書籍もないので紹介したくなったときにサッと紹介しにくいので、ちょっとここに一部の抜き書きを作っていく。
抜き書き文字数が多くなりすぎたら、一部はEvernoteにでも退避させることにして。
というか絶版にさせてんじゃないよ、出版社。
桶狭間の戦いの部分の周辺はいちど切り出した。
兵が勇戦奮闘するのは、大名が好きだからでも、神罰仏懲が怖いからでもございませぬ。戦いのあとでわが村に帰った時、先に逃げた臆病者はあいつよ、此度の合戦で真先に崩れたのはあの村の衆よ、といわれるのが怖いからでござります。帰る故郷もない者など、いざ合戦ともなれば、見な逃げ散ること明らかでございまする」  (P33/309)
各村落を治める豪族がその村の壮丁を率いて来る百姓兵の部隊(組)は、それぞれが独立の「自営業者」だから、大名といえども村落を超えた部隊編成を強要できない。命令はすべて指揮する豪族を通じてのみ流され、大名が直接兵に命令することもできない。何よりも、大部分の将兵は武器も具足も自前で整えるので、不揃いにならざるを得ない。
従って、どの部隊にも青年もいれば老人もいた。十四、五歳の子供も交じった。兵器や装備もまちまちだ。  (P59/309)
だが、信長の創った銭で雇った兵は違う。弓衆ばかりを前面に出すこともできれば、槍の者だけを揃えることもできた。信長がその気になれば、全員に同じ長槍を持たすことも可能だった。彼らの武器も装備も、ほとんどは信長が貸し与える「お貸し具足」だったからだ。  (P60/309)
ファランクス、槍ぶすま
村落共同体を基盤とするこれまでの軍隊では、村毎に編成された部隊を指揮するのは、その村を支配する豪族と決まっていた。だから、どんなに武勇や知略に優れた者でも、領地の村がなければ部隊を指揮することはできない。  (P62/309)
先手の組が駿府城を発したのは五月十日、今川義元の本陣は十二日である。  (P90/309)
この頃は東海道の幹線道路といえども大部分は幅一間(一・八メートル)徒士は二列、騎馬は一列でしか進めない。右側は伝令が往来するために空けておかなければならないからだ。
部隊(組)の編成は昔ながらの村単位、大きい組で数百人、小さいのは数十人、幅一間の道を断続的に人馬の列が進む。二万の軍勢ともなれば、隊列は五里(約二十キロ)にも伸びる。実際には組と組の間が空くので、それ以上だ。先の組が炊飯食事をやり出せば、次の組も立ち止まる。道は踏み削られ、足は馬糞に濡れる。全軍が出立するのに丸三日かかった。  (P90/309)
⇒だから、全国制覇みたいなことを考えるときには、街道の土木工事みたいなことに手をつけていかないといけないことになる。
http://yayoko314.com/2020/04/17/animalcrossing/
あつまれどうぶつの森で集まってない
⇒むしろ、引きこもるのに使うよね
いや、リアルどうぶつの森やれよ。家片付けよって思うけど、
知ることで人生が楽しくなるって、何気ないところで感じられています。
ということは、
教養に溢れたひとたちは、もっと人生豊かで何見ても楽しいんだろうなと思う次第です。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20200420/1587364200
とはいえ、殺伐もここまでくれば逆説的な商品になり得るわけで、私はときどきディストピアスーパーに立ち寄って安くて大盛りのディストピア弁当を買い、安いチューハイと飲食していた。最近のチューハイもディストピア度が高いから、ディストピア弁当との相性はとてもいい。ディストピアを大きく深呼吸すると、それはそれで一種のカルチャー、いや、カウンターカルチャーの味がする。毎日食べるとなれば、話は違ってくるだろうけれども。
これが日常だったら、「ほう、これがディストピアスーパーの完成形か!」と感嘆の声をあげ、ひとつのアトラクション、ひとつのカウンターカルチャーと解釈していたに違いない。
ところが日常がどこかへ行ってしまい、私自身も殺伐としているらしく、私はディストピアスーパーを受け止めきれなくなってしまった。
ディストピアスーパーに行くと気が滅入ってしまうので、カルチャーの残滓の宿っている、花丸スーパーマーケット(仮称)で最近は買い物をするようにしている。
花丸スーパーマーケット(仮称)のお客さんもいくらか殺伐としているが、お店の商品や陳列にカルチャーの残滓、遊び心の残滓があって、今はこれに救われていると感じる。ディストピアを味わうだけの心のゆとりを、私は失っているのだろう。
⇒実話の寓話的に、「SNSと距離をおこう」みたいな話として読める。
https://twitter.com/akizukid/status/1248948392299880448?s=21
ライブハウスや演劇の人、飲食店が営業自粛を求められて大変なのはわかるが自粛せずに感染拡大してニューヨークみたいになれば、元も子もないだろうに
営業しないことと、補償の話は区別しないといけないのだろう
https://twitter.com/akizukid/status/1248949644144472064?s=21
そこで補償は業種とか、収入額で線引きするとコストと時間がかかるから、ここは一気に #ベーシックインカム が良いと思う
一旦、今の店は潰れるかもしれないが、生きてもらう
審査や条件一切無し
財源は?
円を刷ればいい
あるいは所得税累進課税の強化
https://twitter.com/akizukid/status/1252729819801911296?s=21
平田オリザさん、やっぱりズレていると感じる
まるで絶滅が全滅するような言い方しているが、絶滅しないよ
そして、今は政府にとっては、命を守ることの方が優先事項
援助を求めても仕方ない
平田さんは、文化の中でも、特に脆弱な演劇を基盤にしているから危機感があるのだろうが、まずは自分で考えろ
https://twitter.com/akizukid/status/1252730086152736768?s=21
だって、新型コロナウイルス以前の平時において、鹿児島にいて、演劇なんか見に行ってなかったもの、絶滅しても困らない、それで貧しくなるとも思わない、個人的な意見としては
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2020/04/post-4f9f6d.html
私はほとんど民放を見ないでいた。バラエティー番組もあまり見ない。育児期は現在のEテレをよく見ていた。ドラマやアニメをよく見るようになったのは近年である。世間から結果的に長く隔絶していた。何が言いたいかというと、岡江久美子さんの死がもたらす世間のショックのようなものをおそらく十分に理解できていない。それは、残念なことでもあるが、私はこの新型コロナウイルス感染症の社会現象の実感をうまく捉えてはいないということでもあるだろう。
⇒これなのに1エントリ分のブログ記事を書けるのって、すごいよな。
https://rashita.net/blog/?p=30020
Evernoteを使いこなすなら、私がハッシュタグとして本文に埋め込んでいるものをタグとして入力するのが一番だろう。
だが、そういう特別なタグ入力操作は結構手間なのだ。それよりも思いついた瞬間に、ハッシュタグとして入力した方がはるかに早いし、手に馴染む。
⇒同化と調節
つまり、だいたいうまくいく。
が、あまりそういうことをしようとは思わなかった。全文検索かそれともタグか。頭の中がその二択に塗り固められていて、「#知的生産の風景」のような少しだけ特殊な文字入力で、検索結果を選り分けるという発想は生まれなかったのだ。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200415-01659769-sspa-soci&p=1
もっとも、政治家が著名人を“政治利用”して人気取りすることは、別に悪いことではない。問題は、そうした策略にある程度の説得力を与えられるかどうかだ。その点、安倍総理と星野源の組み合わせは、かなりスジが悪かったと言わざるを得ない。
なぜなら、安倍総理には、ほとんど文化や教養の匂いがしないからである。これほどまでに無趣味な宰相は、いまだかつて存在しなかったのではないだろうか。
⇒まあ、とりあえず踊ってればよかったよね。
⇒この無趣味感みたいなものが、平時にはスキャンダルとの無縁さとして安定感につながった部分はあったろうけども。