2020/03/25-2020/03/31
ただ、できれば(今の自分で)公言できるものだと、他者とつながりを求めることで、ほんの少し(自分にとっての)現実を組み替えることができる。
エロならエロでいいよ、腐なら腐でいいよ、自分の属性を掘ろう。
知的レベルも道徳方針もいろいろな人がいることが可視化されるから、どうしても「一言言い返しておきたい」場面が増える。
でも、遊ぼう。
こういうときは、哲学や戦争や人類の業のことを無理に考えようとしない。
日常の楽しさや美しさ、自分の変態性のことなんかを頑張って考える。
誰も、「この2週間で(3週間で)ピークを超えるから(安全になるから)その間だけ(身を守ってください)家で」なんてことは言ってないわけです。
「この2週間、今までなかった気合いを入れて、家にいるようにして、(上昇カーブの傾きをよりなだらかにすることに力を貸してください)さもないと、急激にカーブが上がりすぎて、医療崩壊を起こしてしまいますので」ということを言ってるだけ。
それだけの期間でコロナが治るとも、ピークを超えて下りになるとも言ってない。でも協力しろ、分かるな。そんでその協力はずっと続ける必要があるんだ。それも分かったな。
志村けんさん死亡後のトレンドワードに、「事の重大さ」が入っていたことについて
(「コロナの恐ろしさ」みたいなのも入っていたが。)
『幸福になりたいなら〜
言葉とイメージは違う
⇒本当か?
週刊誌のイメージ。ゴシップ
⇒もともとは違うけど、そのままツールとして使う
この状態を国はどうすべきか? 原理的には厳罰化すべきなのだろうが、そうはなっていない。
これも、法的なものと道徳的なものには境界が残るのは仕方がないものだということかもしれない、という例なのだろうか?
こうしたことを、私は時折考えるのだが、この曖昧な境界が、「正義」の生息域なのではないかとも思う。 市民にとって正義の源泉は法であるべきだと私は思うのだが、道徳に依存する部分が大きい社会ほど、道徳の側に「正義」が引き寄せられてしまうのではないか。 記録している時間があったら、その時間をより多くの行動に充てるほうが有意義である、と考える人もいるでしょう。 僕自身は記録がままならないくらいの大量行動には意義を感じないので、結果として、記録ができる程度の行動量で手を打っていることになります。
ジャーナル(journal)とは「日記」という意味です。
「航海日誌」や「仕訳帳」や「会報」の意味もあります。
もともと jour には day の意味があり、journalist(ジャーナリズム)とか journey(旅)などの派生語もあります。
とはいえ、人間にはこのようなことができず、間違って覚えた記憶は完全に消し去ることはできず、その後に正しく覚えたとしても、時折「あれ、どっちだっけ?」と頭を悩ませることになりがちです。
そこで、記憶しようとする代わりに記録に残し、同じ仕事をするときは毎回その記録を参照しながら手を動かす、という方式が有用になってきます。
3/21 Eテレ 10:00
SWITCHインタビュー 達人達(たち)「ブレイディみかこ×鴻上尚史」
(ブレディさんの)「息子が言うのは、『日本の人って社会に対する信頼が足りないよね』」
⇒で、対談の後半の方の時間では、まあ「首相答弁がごまかしみたいだから信頼できなくなる」みたいな話題もでるんだけど、最初に話題が出たときの流れはそうではなくって、
⇒台風のとき、ホームレスの人が避難所に入所するのを拒否した。普通に担当者からしたら、入れちゃったほうが気が楽なはずなのに、拒否させてしまったのは、「まわりのみんなが嫌だって言うに違いない」という社会への信頼のなさのせいじゃないかと。
⇒「公」とか「大宅」じゃなく、「パブリック」(people)を信頼できていない。
心理上の再実験で効果のなかった有名な研究、効果の確認された研究について - Togetter
旅行券や和牛券や商品券が観測気球のうちに、みんなで撃ち落とさなくてはなりませんよ。
日本銀行券以外は要らないと明言しましょう
⇒めんどくさい。
⇒「感情を動かされたくない」という欲求も人間にはあるのだと思う。
「ネタにマジレス、カコワルイ」とか
しかし、怒り出さないならやっちゃおうというインチキがまかり通って、ちゃんと怒らないといけないって、すごくめんどくさい。
行動が評価される企業にいたら、行動ばかりをとってしまう。 。「今を生きること」=「今という時間を完全に充実させるためにいろいろなことをすること」という資本主義的解釈。高すぎる理想とセルフイメージを重ねた完璧主義の弊害。
ネガティブ・ケイパビリティと、ポジティブ・ケイパビリティの両方であるが、現代では、あまりにポジティブ・ケイパビリティが重視されすぎていると、著者の指摘。 ⇒迷惑をかけない
⇒大きく失敗しない
⇒より根本的な解決を目指す
“粋”は「媚態」と「意気地」と「諦め」
知らない人のことは怖いじゃないですか。だから無知を恐怖心で煽られるようなことを誰かに言われると、それがヘイトになる。日本語に訳すと憎悪ですね。どこの大元を絶てばいいのかというと、煽られたとき憎悪に変わらないようにするためには無知の部分を変えていかなければいけないじゃないですか。頭が悪いことと、無知ということは違うんだよと、 想像力を働かせることをやめているんじゃないかということを、イギリスとかにいると割と思いますね。離脱だ、残留だともめているじゃないですか。お互いに石を投げあって、ああいうことを言っているあいつは許せないみたいな対立があるけど、じゃあどうしてそういうことを言っているんだろうねと、そういうことを支持する理由はどこにあるんだろうと、石を投げる前に一歩引いて考えてみることがあれば、もっとうまく潤滑に回ることはありますよね。
履きたくない、臭い靴とかもあるじゃないですか。絶対嫌な靴とかもあるから、それでも履いて歩くことまではしなくていいけど、とりあえず履いて「どうなんだろう?」と想像してみるのは、ひと頑張りがいりますよね。そのひと頑張りをさせる力は、なんなんだろうねという、それはこれから考えていく宿題ですね。
実習も託児所でやりましたが、カレッジに行って講義も聞いて、毎学期、ミニ論文みたいな設問があってそれに答える、論ずるというのを、本当にびっちり書かされたんです。そのときに、例えば一つのテーマ、障害児保育について設問があって書くとしますよね。保育士は、保育園でどういうことをしなければいけないかを書いていくと、それは、どの法律の何とつながっているのかとか、その法律ができた背景は何か、どういう運動があったか、そういうところまで書かなければいけなくて、なんで保育士がこんなところまで知らなきゃいけないんだろう?と最初すごく不思議だったのですが、やっていくと、いろんなことが繋がるんですね。今、目の前の子どもに、こういうことをしなければいけない、こういうことを言ってはいけないと言われているのは、なるほど、あの法律に支えられているんだと、その法律ができたのは、そうか、あのときにそういう差別をされたこういう人たちがいて、それが社会問題になってこうなったからと、バーッと点が線でつながる。それはすごく大事というか、私たちは政治というのは、私たちの知らないところで勝手に行われていて、私たちの日々の生活とは関係ないと思いがちじゃないですか。
うちに何かを借りに来て、どうしてお隣にはそれがないんだろうと。これは政府の政策で、こういうことの支給が止まっているからなんだよねと、その政策がつくられたのはどうしてかというと、それは国が財政支出を減らしているからで、財政支出を減らしている理由は、財政均衡するためにとか、ものすごく身近なところから鮮やかにマクロな政治につなげていく書きものが、けっこうあるんです。それって、あまり政治に興味がない人でも読めるし、そうか、その政策がネックだったのかと気づけるんですよね。そういう書きものは、日本はあまりないような気がするんです。
私自身がそういう書きものが好きだし、ダイナミックな遠近感をもつ書き物は、書いていても面白いですよね。きっとそういうものを読んだり触れたりしていると、ミクロとマクロをつなげて考えることが可能になると思うんです。
nokiba 2019/01/20 00:04
でも書いてて思うのは結局これは賢治の二番煎じだ。つまり仏教に洗脳されてるのかもしれない
nokiba 2019/01/20 00:01
なんの資格もなく、これといった取り柄もなく、キャリアもなければ、資産もない。人生設計もない。人に一目置かれることもない。しかし特に苦しまずに過不足なく生きている。という感じでやっていきたい
そうした吉本が求めた日本の内在的な精神性を、簡明なイメージで言うなら、議論を省くが、宮沢賢治の文学世界であったと言っていいはずだ。それは、《雨ニモマケズ風ニモマケズ雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ慾ハナク決シテ瞋ラズイツモシヅカニワラッテヰル》にも見られる。が、通常この詩は、その「負けない」に焦点が置かれがちだが、ここに潜む至高は「笑っている」にある。人を優しく気遣いながら笑っている人たちの光景である。賢治の理念の突き抜けたところにある聖なるもの――日本の内在的な精神性の極点――は、苦しみや悲しみを脱したところにある。賢治が描ききれなかった明るい世界の方向にある。 ツッコミは誰もが共感できる、見る人の代弁者として機能します。でもオーストラリアだと、ツッコミは上から目線だと思われ、悪役になってしまう。そこまで自信満々に「お前、ちゃうやん」と他人を否定することに対して拒否反応が出るのです。
一方、たとえばアメリカだと黒人だけにターゲットを絞ったお笑い、富裕層のユダヤ人だけを狙ったお笑いと、その層ごとに笑いをとる人がいます。
そうなると、万人ウケするのはどうしても誰もがわかるものということで、大味になってしまいます。 学校で何をやるかといったら、まずめっちゃ腹筋をさせられます。舞台に立つ人間は声を張れるようにならなあかんというので、腹筋して発声練習の繰り返し。よくよく考えたらわかるけれど、お笑いなんてそんなに教えようがないんです。
ベタとシュール
あるある
先輩と後輩
徒弟と学校
四季とキメ
不幸と滑らない話
基本的にはコミュニケーションなんです。何についてみんなで意見を交換するのかといえば、リスクについてです。だから、あまり喋りたくないこと、触りたくないことについて、みんなで話し合って対策を考えたりします。
ーーあまり話し合いたくもないのだけれど、放っておくと大変なことになるからですね。
そうです。社会としてリスクを下げるために行うのです。
また、社会には色々な立場の人がいるので、ある人だけがリスクが下がって、ある人はそのままというのではいけません。みんな公平にリスクが配分されて、社会全体としてリスクを減らすという考え方です。
こうした危機の時のメッセージは量が勝負なんです。
今回、千葉市長や熊本市長は自ら頻繁に情報を発信し、北海道知事は、何時ごろ情報発信しますということも流しています。あれが正しい情報発信です。この時間にここを見れば、新しい情報が手に入るという安心がある。
あの3人はリスコミがうまい首長だと思います。トップがそれをやるべきかどうかは別としてです。それに対して、国はどうしたいのかが伝わりません。
プロセスを開示することが大事になります。
今、こういう人たちがこういうことをやっています、ということを途中でも明らかにする。例えば、ワクチン開発のためにこの人たちがこういうことをやっています、などですね。
「いつまでこれが続くの?」と気持ちや未知の感染症に対する不安がある時に、3月19日をめどにこれまでの対策を検証して発表します、と事前に言っていましね。それによって「ああ19日まで待てばいいのか。それまで分析しているのだな」とわかり、落ち着くことができた。
だから今、何をやっているのかを見せることは大事だと思います。
「パニックが起きる」と反対する人もいますが、日本でパニックは起きていると思いますか?
ーートイレットペーパーの買い占めやマスクがない、などがありましたね。
あれはパニックと言いますか?
ーーデマは出回っていますね。
そうですね。でも、「空気感染する」とか、「中国ではバタバタ人が倒れている」など様々なデマがありましたが、みんな家にいたかというとそうでない。そんなにパニックにはなっていないんです。
パニックが起こると言っている人の方がパニックになっている。
間違った解釈やデマを潰すには、それ以上の分量で正確な情報を流すことが必要です。未知の感染症への不安の裏返しがデマの拡散である場合もあります。
一つ一つのデマ潰しは根本的な解決にはならないんです。正確な情報がたまにしか出てこないと、間違った情報と正確な情報が均衡しているように見える。むしろ、そちらの感情の入った間違った情報の方が広まります。
基本は政府の情報ですよね。それから都道府県など各自治体の発信が大事です。
やはり身近な情報は受け手に届くのです。
東京はそうだろうけど、私の住んでいるこの地域はどうなのかしら、私の街はどうなのかという情報が加わらないとだめです。身近に感じる情報は信頼感が高まります。自分ごと化するわけです。
今は緊急事態が発生している時ですから、トップダウンで「これをやってください」と伝えるべき時だと思います。
ーーこういう時は一般の人の気持ちや意向に耳を傾ける方に力を注がなくていいのでしょうか?
いえ、そちらにも力を注ぐのですが、「これをやってね」という強いメッセージが特に必要な時です。今は患者が増えていますから。
それは長期化しているから、違うコミュニケーションを同時に行なっているのだと思います。気持ちを引き締めるコミュニケーションも必要だし、頑張り続けてもらうための同意も必要となる。
長期化すると、同じことを言い続けても守ってもらえなくなる。
感染症は手を洗うなど地道な努力を続けることが重要です。ただ、それは飽きてしまうのです。
ーー1人1人の行動変容が求められるのが感染症ですね。
感染症は特にそうです。かつ今回は長期化するので、「自己効力感」が必要となります。「やって良かった」とか「まだ頑張れる」という気持ちを引き立てるようなメッセージがないと長期戦に耐えられない。そこが今回珍しいところです。
ーーそういう励みになるようなメッセージは誰が送るべきなのでしょう。
それは誰でもいいのです。専門家でもいいし、「皆さんのご協力の賜物です」と北海道知事が言ったのもそうだと思います。人間は協力して良かったという達成感が節目節目で欲しいのです。続けてもらうにはそれが必要です。
ーー脅すのではだめなのですね。
例えば歯磨きをしない人に、「このまま歯磨きをしなかったら、入れ歯になるよ」とか、糖尿病で好き放題食べている人に「ここまま今の生活を続けたら目が見えなくなるよ」というような恐怖喚起は、習慣的な行動の変容にはあまり効果がないのです。
ーー安心のコミュニケーションと、危機感を共有することと、脅しは何が違うのですか? 誰がどこを担うべきなのでしょう?
官庁では、安心させるためのコミュニケーションは基本的にできないです。事実を言うだけです。
今は、内閣府食品安全委員会では「安心」という言葉を使うことはほとんどありません。安心は気持ちで、安全はサイエンス。行政などがマスに向かってやるコミュニケーションは「安全」しか届けられないのです。
「安心」は対面ならできるかもしれない。しかし、政府や自治体トップなどが全体に対して行うコミュニケーションでは安心のコミュニケーションは困難です。
ーーこういう場所は感染リスクが高いから気をつけてと記事で書いて、今後は自分で考えて判断してくれるだろうと思いきや、「この場合はどうなの?」「これぐらいだったら大丈夫?」と読者に新たな疑問を生んでしまうことを経験します。全て細かく書くわけにもいかないので悩みます。
だから、「自分で考えましょう」というメッセージも大事です。それは突き放しているわけではない。 文部科学省の会議でもよく議論になるのですが、日本では「不確実性」について教えていないんですよね。
ーーよくわかります。「リスクゼロ」をどうしても求める。
ここ20年ぐらい、「不確実性」を学校で教えるかどうかが議論になっているのですが、テストをするので正解のないものを教えたくない、という人たちと、子どもの頃から身につけるべきだという人たちの押し問答が続いているそうです。
ーーリスコミは、将来どうなるかわからないし、結果をどう受け止めるかも人によって違う。今回も健康のリスクと経済的な損失のリスクとを天秤にかけて、自分の取るべき道を選択していかなければいけない。不確実な将来にどう耐えてもらうかが勝負ですね。
ーー感染症は自分が被害者にもなるけれども、うつす加害者にもなるということが難しいですね。行動を利他的に決めなければいけないところもある。
欧米のメッセージを見ると、自分のためにというよりも、愛する人たちのために行動しましょう、というメッセージが多いです。
日本でもそういうメッセージを出さなければダメなのではないでしょうか。「家族のために」などのメッセージですね。
ーー日本人に響くでしょうか? 風疹ワクチンもなかなか誰かのためには受けない。
「家族のために」なら動くのではないでしょうか。おじいちゃん、おばあちゃんのために、とかですね。
リスコミは、誰かに寄り添うのとは違います。リスクを淡々と伝えなければいけない。そしてあなたが人にうつす加害者になり得ることも気づいてもらわなければいけません。
一方、今回の場合は、行動変容を促さなければいけないけれど、長期戦だという特徴もあります。 あなたが加害者になるかもしれないからこう行動を変えてください、というメッセージと、できた人に「すごいですね」と褒める、自己効力感を高めるメッセージと同時に出していかなければいけない。珍しい感染症だと思います。