2020/03/01-2020/03/06
「怒りを表明するな」と思うことについて考えるコト
熱性と冷性
「一致団結していこー」ではない
引き摺り込まないで
それはもう聞いた
実効はないくせに疲れはする
アンチおまゆう
上から言われるとむかつく
実質的な規制になる?
職務を果たしていない
操られたくない、動員されたくない
感情は思考をせきとめる
不機嫌になるとパフォーマンスも下がる
言っても(現状を変化させないという面で)仕方のない不満を口にするのは、弱音や言い訳みたいで格好悪い
人格同士の相互承認という理念は、社会の中で生きる個人の身体に対する調教を基礎としているということであり、「自由を発見した啓蒙時代は、調教も考案した」ということで 位置: 1,625 オプション
自由な社会〉が形成されるのは、自由な個人によってではなく、身体を調教され、精神を監視する大きな〈眼〉を魂の内部に埋め込まれた主体である、という逆説のもつ意味は 自分ならどう書くか、とか、こう書きたくない、とか
最大化しなければならない⇔挑戦できることはあるか?
原稿
理念で短文にしてるのか、短文でしか考えられないのか、
ハイデガーもサルトルもカントもヘーゲルも、本当は日常のなかで感じたり見たりすることを問い直すことから出発しているので、彼らの話はどれも実は非常にシンプルなんですよ。
超訳すれば……「バカじゃねえの」という感覚は、現実が不公平でひどいもんだなという感じのことだ。あるべきはずの世界と現実の矛盾だ。
コギトとは世界情報との統合なのか? そこで、私が今考えているのは、コギト、つまりデカルト的な意味でのコギトというのは、世界情報から分離された純粋な自己意識なのではないか、
なろう系のラノベは安直に異世界を持ち出すが、実は、それこそが、コギトのより自然的な機能なのではないだろうか。
というあたりから、AIとコギトの差があるのではないか。つまり、AIこそ、世界内存在だが、私たちの自意識は原初から世界を超えているんじゃないだろうか。
⇒なんなんでしょうね。人間の、この異世界空想能力というか、もしもワールドシミュレーション能力は。
我々は自我の奴隷である。
成長過程でさまざまな危険と遭遇するたびに「存在価値が奪われかねない」「失いかねない」と疑心暗鬼になってしまう。その疑いと比例して大きくなるのが「自我」である。
自我は絶対神になろうとしている。
「間違いや失敗がなく、誰より優れており、崇拝される存在」だと定義づけている。
だから自分の身体が間違いや失敗を犯そうものなら「私にそんなことがあってはならない!」と鞭を打つ。逆ギレの怒りや罪悪感の憂鬱は、自我の鞭打ちに引き起こされた痛みだ。
周囲の会話などでついイライラしてしまうことが多くあった。
それがいっさいなくなった。なぜならイライラすることによって会話を止めることが絶対に不可能だと確信したからである。当然のことだが、なぜか前は、イライラすることに意味があると思っていた。
⇒悩んでいれば、それ以上いじめられないとか、
怒っていれば、他の人は腫れ物に触るようによけてくれるとか、
そういうのに似ている。
だから、どこか身につまされる。
でも、客観的に考えて、自分のイライラ・パワーを高めることによって、直接に外界の不快源を解消に向かわせることは起こりえないよな。
とにかく自分、自己を捨てることだ。
自分以外の何かへの関心を持つこと。
没頭すれば自己を放下できる。
そして、そのタイミングで、アドラー心理学について『嫌われる勇気』を読んでいたら、「自己への執着を、他者への関心に切り替えていくのです」という言葉があった。 ⇒「とりあえず自分をチェストに保管しておくような」
本文では、この文の直前まで、本やガジェットを整然と並べておける書斎がほしい、というような話題を書いている。
だから、最初「チェスト」というのを、「本棚から一冊取り出して一冊戻す」動作のイメージだと思っていた。そしたら、まさかのマインクラフト(笑)