2020/02/18-2020/02/22
新しいもの好きだけがいる空間
頭の中のザワザワ感は、それの元になった対象を認知したり処理したりしようとする思考と切り離して鎮めていくことは可能だろうか?
脳の別回路ととらえることはできるだろうか。
怒られるために仕事しているような状態だと
何かに怒りたいという潜在圧は確かにある。
両面をなして、
「捕まえ手」(ライ麦畑)になってしまいたいという欲求も同時に生じている。
旧世代が存在する中で世代交代を行なうと、どの王統に降ろすかをめぐって、紛争が起こりやすい。 とりあえずの応急措置として、額田部王女と大臣馬子、群臣層は、旧世代を即位させる「世代内継承」を行なったのである。 こうして彼らは大王崇峻を押し出したが、崇峻の下における権力中枢と外交方針では、隋の中国統一という激動の北東アジア国際情勢に適応できないことを、すぐに知らされることとなった。 その「政治改革」についても同様なのだが、どうも平城という人は、自己の信念に忠実なあまり、貴族社会の「共通の利害」に無頓着すぎるきらいがあふ。天皇は律令にさえ拘束されない権力を持つとはいえ、その権力は支配階級全体の利害を体現するためにこそ存在しなければならない。これからもしばしば出現するのだが、自己の信念を貫徹しようとする「やる気の有りすぎる天皇」は、不幸な結末を招くことになるのである。 大王継体以降、後鳥羽天皇までに生まれた三百四人の皇子(史料に現われた者のみ)のうち、即位することができたのは、わずかに四十四人、率にすると十四・四七パーセントに過ぎない。逆に言えば、七人に六人は即位できなかった皇子ということになる。 継体から後鳥羽までの四十八人の男子天皇(大王)の中で、皇子(王子)を即位させることができたのは二十六人強とおよそ半分強、
皇統(王統)を伝えることがいかに困難であったかは、言うまでもない。 ただし、太古の昔から中世の到来までを見通してみて感じるのは、血塗られた飛鳥・奈良時代とは異なり、嵯峨天皇以降は、即位できなかったからといってその皇子が殺されることがなくなったという点である。わさにそれは「平安」時代に相応しい現象であった。これもひとつの日本的な政治の美意識なのであろう。
30分間のニュースだが、新型コロナウィルスの騒ぎとスポーツニュースと天気予報を除くと、残りはあと5分ほどだろうか。そこでは地方の話題やスケジュール通りの出来事の報告といった話で終わる。逆に言うのなら、新型コロナウィルス騒ぎとスポーツニュースと天気予報がなければ、いったいNHKのニュースは30分間に何を伝えるのだろう。
そうしてみれば、ニュースと言うものが、ブロードキャスティングのメディアにもはや対応しないと言う時代になったのだろう。 市民社会の分断化が、ある種の話題の重要性の中において統合されることはもう無いのかもしれない。
このままでは高齢化して雑誌も死んでいくと思って。――でも、それは大間違いで、「残存者利益」というか、読者の高齢化にあわせて、紙の雑誌も読者とともに歳をとっていくべきだったんだよな。 塩田:それはいつか必ずダメになるけど、それでも?
加藤:それしか方法はなかったと思う。その後、週刊誌の高齢化路線は成功したでしょ。長い目で見たらなくなるけど、ポケベルみたいに、必要とする人がいたから思ったよりも長く残る商品、というか。
⇒勇ましいことだけが、善、ではないのかなあ。
子どもは、周りの大人が話している言葉を自然に習得する。聞きもできるし、話すこともできるようになる。しかし、読字は別である。それは特別な訓練を必要とする。識字率が高い国に住んでいるとうっかりこの「読字」の特別性を忘れそうになるが、これは脳がもともとある機能を転用して獲得する独特な能力なのである。 蓄積され、検索され、そのときの自分の興味を他者に伝える媒体を持てることは、現代特有のメリットであり、そのメリットを活かさない限り、社会基盤が脆弱化しつつある現代では生きるのが難しくなりつつあるからだ。