2019/11/05-2019/11/09
#採掘場
仕事を思い浮かべると、9割の「嫌だな」と1割の「やらなきゃ」という感情が思い浮かぶ。その10%の中を見ていっても、9%は「やらないともっと大変なことになる」というイメージだけで、「やるのが自分の性に合っている」とか「やったらこんないいことがある」なんてイメージは微小すぎて見えやしなくなっている。
でも、そこの実行と速度という優先事項を外せるのなら、99%を眠らせること、1%に焦点を当てることを、できればがんばりたい。
その中でも、「時間を守れ」ってのは、他のすべての「やりたさ」を粉砕してしまう破壊力のあるタスク要素なんだよな。
だから、タスクが思いついたり、実行しようとしたときは、感情の自動反応をひたすら押さえつけてる。音楽を聴きながらやったり、気分を転換して短文を読んだり。
不機嫌で人を支配しようとしたことまではなくても、苛立ちで世界を支配しようとしたことならあるかもしれない。いや染めようとしたことかな。
苛立っている時と言うのはタスクに取り付かれている時だから、雑念が入ってきてほしくはないし、足並みを乱されたくもないし、つまり世界中の人間が同じタスクを目指していてくれないと困るんだ。
「男らしいって、そんないい事かしら、やたらに勇ましがって、強がって、そんな人が戦争を始めるんだわ。あなたの様な心の優しい人がいるから世界平和があるんだわ」
ドラえもんの「いたわりロボット」
の話。雰囲気や勢いだけで押し切る詭弁扱いされがちだけど、私には結構本質的なものに思える。
男らしさ
満足と解放がほしい
ニーズがあって、そこに何かできるとうれしいのが女。
自分にできることで、世界を何か変えられるとうれしいのが男。
いまやっていることで褒められたい。今までやっていたようなことで、達成感を感じたい。
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https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68128?page=3
そもそも自己否定ってそんなに悪いことなのでしょうか。そう言うと驚く人もいるでしょう。ちょっと古い話になりますが、私たち団塊世代が学生時代の1960年代末には、「自己否定」は成長していくためには必要不可欠な作業でした。
マルクス主義や弁証法という言葉は日常用語でしたし、否定を意味する「アンチテーゼ」という思考法は、統合に向けての一段階でした。弁証法は、当たり前と思っていた内的世界・思考をいったん否定する、そのことで新しい世界観や思考が生まれるという段階説をとっています。
だから自己否定なくして成長なしというのが常識だったのです。少なくとも1980年代までは、「自己否定」は思考的タフネスと論理性を裏付ける言葉でした。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68128?page=4
1990年代に入って「ネアカ」「ネクラ」という言葉が流行し、ネクラはいけないことのように言われるようになりました。カウンセリングで出会った、19歳でアルコール依存症になった女性は、なぜ酒を飲むのかと聞かれたときに「ネクラな私が酒を飲むとネアカになれるから」と語ったのです。この言葉は衝撃でした。
おそらく彼女の発言は、対人関係におけるコミュニケーションが個人の価値を決める時代の先駆けを示す象徴だったと思います。
自己肯定感