穏やかな人の二面性、あるいは隠れた攻撃性
▷私は職場なんかだと、「静かな人」とか「穏やかな人」と言われることが多いし、思われることが多い。 子育ての話題になったり、その中で「子供がいろいろするから、大変なんですよー」ということを言っていたとしても、割と「どんな風に怒っているのか、想像がつかない〜」という言われかたをする。
▷ただ、本人の人生的には、ある種の攻撃性とか反骨心とか、あるいは過剰で独りよがりな正義心とか、そういうものを扱いかねながら生きているという感触がかなりある。 (まあもっとも、本人に対して、「静かではありつつも、油断のならない感じはありますよね」だの「穏やかそうだけど本性が読めない
▷感じがしますよね」とは言わないだろうとはいえ) どこかで、「理解してもらえてないなあ」という感想になってしまう。 もちろん、「やたら敵を作るようでは仕事にならない」とか「不合理なキレ方をしない人格者を目指していたい」という気持ちはあるので、それは「目指すところを正しく振る舞えてる」
▷ということなのかもしれないけど。 ある種、アニメとか漫画とかの、冷静と情熱の二面性を持つキャラクター(中二的かもしれないが、に、昔から自分を仮託しているようなところがあって、なんかこう、現実というものに拍子抜けしてしまうような実感がある。
普通に考えて、「理性的に、意味のあることだけをやっていたい」という気持ちと、「こんなのは許せない、こっちの心が燃えるかぎりとことんやってやる」という気持ちが、1人の自我の中に存在したのなら、+10と-10が打ち消しあって "0" になってくれそうなものなのに、それが両方とも、鈍らないまま居座ってしまって、出番を待っている感じになる。
すでになんか、文字にしてみただけで「疲れそう」ってイメージになった。実際、疲れる。
こういう攻撃心というのは、“反抗心”が元になっているような場合、「自分を怠けさせようとする本能なんかに負けたくない」という形で、日常の向上心みたいなものを裏支えしていたりする。
(まあこれだって、「自分に厳しい人は、他人にも厳しい」みたいに言われるように、社会に馴染もうとする自我を、より妨げる方向に働くから、本人としてはやっぱり苦しみの素になってたりするのだが)
こういう心は、案外誰の心にもある程度はあって、それが、日本のような、“教義もなく、創世神話も忘れられた文化でも、神の存在や人としてしてはいけないことが、人々に意識されている” ことのひとつの源泉になっているのかもしれない。
そういう意味では、私のような人間を「狂信的」と呼べるだろうか? しかし、教義のない日本で、その単語はいまいちフィットしていない気もする。
なんともふわふわと、とらえどころのない自分という存在。