生産や上達に自然に行動が向くということはない
生産や上達に自然に行動が向くということはない
家に電子ピアノが来ると、息子なんかは、全部のプリセット音質でキーをとりあえず押してみようとする。
新しいものに寄ってはくるけど、あくまでガジェットとしての性質をいじるところで夢中になる。
娘はもうちょっと弾こうとするけど。
iPadが家に来る。
「なんかゲームを入れてよー! このままじゃ、なんにもおもしろいことないじゃん!!」
と娘が言う。
メモを書きためてみたり、todoリストアプリで行動を整理してみたりには、そうそう進まない。
ゲーム。
あらかじめ、作り手が与えてくれたコンテンツを消費するだけだ。
なかなか、創造だったり生産だったりの方向に、「人は自然といくものだ」ということにはならない。
デジタルネイティブだからといって、ツールがあればそれを活用するという風には進まない。
やっぱり、「生産」というのは、生存なり、承認欲求なりがないと、人間はそうそう行わないものなのかな。
とはいえ、「やらされる創造的活動」「やらされるアウトプット」というのも、教育効果として、意味があるのやらないのやら。
発表の場というのが、最低限いるということか。
しかし、それも今のキケンインターネットでは、そうそう気楽なものでもないんだよなあ。
タグ 知的生産、子育て、子供が子供の文化を持っていき、親はすべての不幸から守ってあげられはしなくなる、情報発信
from 2020/08/08-2020/08/11
でも、そういえば息子は、第二次世界大戦の特定の戦闘について、「調べ学習して自由研究として出す」っぽいことを言っていた気がするな((今年は?)必須ではないようなのに)。
そしたらそこで、少しは役立つのだろうか。
娘は、もともとの「おえかき」を iPad上でもやる、ということはやっているようで、ときどき見せにくるな。