メディアアート
装置と道具の違い
装置を作るだけでは表現にならないという前田さんのスタンスがあったと思う
藤幡正樹
マウスを動かしたら、ちゃんと同じに動くっていうのが出来てないといけない。ところが、結果的な話ですけどメディアアートって言われているもののかなり高いパーセンテージが、このインターフェースの部分しかないんですよ。で、そのインターフェースがマウスとカーソルじゃなくて何かとっても特殊なもので出来ていて、でも、それだけで終わっているものが多い。こうした作品が皆を混乱させている(笑)。で、本当はそのインターフェースを介して、つまり情報のインターフェースという特殊な装置を作った場合に、そこで最終的に触れることのできる対象と、そのインターフェースの間に密接な関係がないといけないと思うんだよね。このインターフェースだからこそ、手に入れることのできる対象っていうのがあって、それが密接に結びついているときに人は驚くんだよ。ところが、何か装置だけを作って、それで終わってしまっているものが多い。その辺が問題だと思う。
もたらされた技術と面と向かうことで、それとどう付き合ったら良いのかということから、技術のことを考えてほしい。アートについて考えることを通して、人間が人間になるということを考えてほしい
落合陽一さんは装置こそがアートであるという立場だと思う
目指しているところは藤幡さんのいう「このインターフェースだからこそ、手に入れることのできる対象」といえる?
英語圏では「New media art」と呼ばれた
彫刻の延長にあるキネティックアート
自分はここに興味がなく、歴史的思想的連続性を感じない
ビデオアート
ビデオは装置を使っている
テレビや映画館でなくカセットとデッキで個人が作った映像が流通するようになった
日本だとメディアアート学科の中に情報芸術と情報デザインが作られる
海外ではプロダクトデザイン学科の中にインタラクションデザインがあったりする
実態として、美術を出自とする人達と、理工系を出自とする人達がいる
美術に関しては、オジリネイターは既存の表現からはみ出していった結果行き着いた
その後メディアアートをみてメディアアートを作るようになった世代(自分含む)が登場
テクノロジー
川に橋をかけても川であることには変わらないが、ダムを作ると川は水源に変わる
ダムのように本来の質を変えてしまうものをテクノロジーと考える
自分が学んでいた頃は個人と企業に今ほど技術に格差がなかったと思う
ここは思い込みかも知れず、ずっと企業とは格差があり続けていたのかも知れない
作家が世の中の動きと連動してタイムリーに反応できていたことが、困難になっていくのではないかという恐れ
自分がついていけていないだけかも
その時々でちょうどよくInterpretしてくれる人はいるが、それを待っていていいのか
メディアアートの影響下にある人達が企業に入ったことも大きい
企業秘密
特定企業でしか得られないデータや技術
生活水準の高さからくる満足